EXHIBITIONS

田中良太「素粒子」

2021.06.12 - 06.20

田中良太「素粒子」より

 長亭GALLERYでは、アーティスト・田中良太による個展「素粒子」を開催する。

 田中は1983年埼玉県生まれ。2008年に多摩美術大学美術学部絵画学科油画専攻を卒業。ひとつの実体から現実が成り立つ「一元論的立場」を主題に絵画を描く。11年よりオルタナティブスペース・アートコレクティブ「ゲルオルタナ」を主宰。近年は、「こわしながらつくられている つくりながらこわされている」(ゲルオルタナ、東京、2019)や、「Fwd: Good Night Image」(BnA Alter Museum、京都、2020)などのグループ展で作品を発表している。

 次のステイトメントで田中は自身のこと、「素粒子」について語っている。

「まわりくどく大袈裟に話をした時、顛末を表す総体は『終わり』の中にあるだろう。今日の前にひとつの現象としての昨日があり、『さっき』や『今』は1/75秒のうちに消えていることをよく実感する。地続きの現象を消えるや現れると表現することは二元論なのだろうか。

甘いものを摂取しよう。食パンに小さなタイル状のバターを敷いてその上にきび砂糖をふりかける。なるべく多くふりかける。それをオーブントースターで五分焼く。バターはじんわりパンに染み込んでいる。きび砂糖は茶色く焦げて固まるが、古くてどうしようもない壁面のようにヒビが入っている。かじるたび割れて落ちるのでなるべく水平に持つことに集中する。また、両手についたパンのカスや指に垂れたバターをすぐに拭いておかないと気が済まないので、皿から持ち上げたら食べきるまでは手から離したくない。

生活が変わり、物音でよく目が覚めるのだが、カーテンを開けても天気がわからない。建物が布のようなもので覆われているせいだ。コツンコツンという音があらゆるところから反響している。カンカンという音にも似ているだろうか。トントンと表現することもあるかもしれない。比定できないのは僕がその音を鳴らす道具を持っていないからだと考える。それは正しくもあり間違ってもいる。経験に基づいた考察を無責任なまま放置し、どこかで回収しなくちゃならない時に、可能性という言葉が拠り所となる。四月まではこんな音を毎朝聞かされると思うと賃貸物件の大掛かりなリフォームは定期メンテナンスの怠慢のしわ寄せでしかないことを呪う。でもそれがあってもなくても毎日に影響が出ないのだから呪いはすぐに解けているし、結局どうでも良いってことになる。

別の話題。

たまに手を上にかざしている。自分の存在を認識しているのだと思ったこともあったがそうじゃない。ただただ『ひとつになろうとしている』。目に映る像はきっと、位置関係の把握には興味などなく(というか認知能力があまりない)、手と天井の空間が狭まって見えている。観点を忘れることができているように感じられた。それにより『天井』と『手』ないしは『自分』が混ざってひとつであることを僕やほかの人よりよく理解している。

もう一度物音で目が覚めた。ウロウロ歩いて花畑の前で1分~2分ほどの体感で眺めて、その前後では必ずトイレに入っている。週に2回、決まった曜日にそれをやっていた。が、決め事ではないのでもうしないと思う。(しないで良いと思えばまた四月になったらきれいなチューリップを見に行くだろう。)だいたいの場合は前日の深夜ラジオをタイムフリー機能で聴いているので誰にも邪魔はされたくないが人と会えば愛想よく話すこともできる。愛想よく、というのは自分の尺度でしかないが、人格を分断できている気がして僕は社交的な印象の僕にとても励まされる。

すべては僕の話。僕にまつわる話。
すべては素粒子の話。
たまたま僕は風景画を描いている(田中良太)」。