2016.9.4

友達アートの射程
じゃぽにか論④

近年、ネットを中心に目にする機会の増えてきた「友達アート」という言葉。「地域アート」批判でアートシーンに一石を投じた評論家・藤田直哉が、「炎上アート集団」じゃぽにかの現在進行形の活動を通して、同時代美術における「友達アート」の可能性をつかみ出す論考。全5回にわたって特別掲載する。

文=藤田直哉

個展「じゃぽにか国真理教 ~TAVサティアン 僕たちを追い出さないで~」展(2016年5月、TAV GALLARY、東京)より 撮影=TAVギャラリー
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4. prefigureとしての友達アート

 prefigureは、オキュパイ・ウォール・ストリートなどの21世紀の社会運動でよく使われている考え方である。prefigureとは、理想の社会を目指す運動を行う場合、まず自分たちの組織をそのように形成しなければならないという原則である。

 たとえば、上意下達で中央集権的な政治のあり方を批判する場合、それを批判している運動の側もそのような組織形態を「拒否」し、理想の社会のあり方自体を、その運動の内部で「見本」のように示すという方法である。

 これは、ニューヨークのオキュパイ・ウォール・ストリートでも行われたし、スペインの15M運動やギリシャなどのヨーロッパでも現れている、21世紀の新しい運動形態である(デヴィッド・グレーバー著『デモクラシー・プロジェクト』および、廣瀬純編著『資本の専制 奴隷の叛乱』参照)。

 じゃぽにかは、「オキュパイ・アートスクール」と呼ばれるレクチャーの常連である。彼らがオキュパイ・ウォール・ストリートを参照している証拠はいまのところ見つかっていないが、このイベントに出て行くなかで、prefigureの考え方をどこかで摂取していても不思議ではない。

 マルクス主義などの「旧左翼」が、ある理念なり理論を、一挙に人類全体に適用させようとしたことと、このprefigureは対称をなしている。一挙に全世界を変えるのではなく、まずは身近なところの権力関係に注目し、それを再編成し、理想のかたちが「可能であるよ」と見本・手本を示すことで、他の人々にそれを伝播させていくという戦術である。

 『デモクラシー・プロジェクト』のグレーバーは、ウォール・ストリートに一時的にできた自治的な共同体を、国家レベルにまで広げていこうとしているようだが、実際にその具体的な道筋は見えないと告白している。社会運動の中で一瞬、きらめきのように実現したその理想的な状態は、運動自体に内在している様々な具体的なこと──喧嘩、金の問題、性の問題──などによって自壊する。

 それでも、そのような社会が存在しうる「かもしれない」という可能性を見せることに、prefigureは賭けている。この世界の別種のあり方を思考・想像させる点で、この行為は、実行力を直接持つ政治行動というよりは、象徴的な行動であり、それが示す「美」のありかたはとても芸術に近い(実際、パフォーマンス・アーティストらが多く参加していたと『デモクラシー・プロジェクト』に書かれている)。

個展「じゃぽにか国真理教 ~TAVサティアン 僕たちを追い出さないで~」展(2016年5月、TAV GALLARY、東京)より
撮影=TAVギャラリー

 じゃぽにかが「友達」の名で行おうとしているのは、「友達」集団の中でprefigureを行い、「アート」の世界にまでその原理を拡張していくことである。おそらくは、アートの世界を超えて、現実の「政治」にまでそれを及ぼそうとしている。

 そのことを示すのが、2016年5月にTAV GALLARY(東京)で開催された「じゃぽにか国真理教 ~TAVサティアン 僕たちを追い出さないで~」展である。タイトルの通り、イスラム国とオウム真理教を安直にパロディ化した展示であった。

 イスラム国を真似した、「川崎国」を名乗る少年たちによる殺人事件が2015年2月に発生した(川崎市中1男子生徒殺害事件)。彼らのこの展示は、イスラム国、オウム真理教、川崎国の三つに対するリアクションであると考えられる。

 特に、「川崎国」に力点が置かれているようにぼくには思えた。そのような秘密基地的な小集団を形成してしまう男の子的な悪ふざけの感覚を残しつつ、暴力や犯罪へと至るような契機を徹底して排除してしまおうという意図が垣間見えるかのような展示だった。くだらない「笑い」により、緊張が緩和されてしまい、テロリストなどのように超越性を志向するような極度の精神状態が維持できなくなるのだ。男の子的な悪ふざけをする「友達」を、アートとして昇華しようとすることには、ジェンダー的な観点から批判が生じる可能性はもちろんあるが、彼らの作品・行動は、一貫して「良い悪ふざけ」の仕方を提示しようとすることにあると言ってよい。

 だから、繰り返しになるが、炎上アーティストを名乗っているのに、奇妙に炎上しない。「アート」を暴力性や犯罪性として昇華させることで、炎上や自主規制の時代に、そのような「男の子的悪ふざけ」の「関係性」を生きのびさせようとしているかのようである。そのようなモデルとして振る舞おうとしているかのようである。その表層的な悪ふざけと笑いによって、今回はイスラム国やオウム真理教のような、政治的・宗教的な問題に対峙してしまっている。

 これは言い換えれば、彼らなりの「政治と芸術」の戦いであると言ってもよい。その「戦い」において、現実の深刻なことを表層的な操作の対象とし、コラージュの題材のようにして笑いにしてしまうことの是非は議論されるだろう(これはクソコラグランプリなどのネットでの行動にも言えることであるが)。しかし、「笑い」にして脱臼させることそのものの政治性というのもある。彼らは、自身の芸術活動として、それに賭けていると看做すことができるのではないか。

個展「じゃぽにか国真理教 ~TAVサティアン 僕たちを追い出さないで~」展(2016年5月、TAV GALLARY、東京)より
撮影=TAVギャラリー

 バカらしい発言に聞こえるかもしれないが、そこに、そのような自身の集団のあり方をprefigureとし、イスラム国やオウム真理教にまで拡張していこうとする意志すら感じられる。そんなことは実現するわけない、と即座に思ってしまいがちであるが、ぼくらはそれを想像することができる。現実の集団が、彼らのようになってしまったらどうなるのだろうかと可能性を想像させられ、そうならない理由についての思索に誘われるのだ。

 オキュパイ・ウォール・ストリートの場合と同じで、現実の実現可能性が低いとしても、理念として掲げておくことは重要なことである。理念としては、大げさな構えでよいのだ。全世界を全的に転覆させようとする大仰な意図を内心持っているのが創作者というものだろう。

 ぼくは勝手にそう解釈した上で、prefigureとしての「友達アート」が、狭い内輪を超えて広がっていく、ラディカルな可能性についてここから「空想」していくことにしたい。(第5回に続く)

PROFILE

ふじた・なおや 評論家。1983年北海道生まれ。SFジャンルを中心に、文芸、映画、アートなど幅広く評する。著書に『虚構内存在−筒井康隆と〈新しい《生》の次元〉』(作品社)。編著に『地域アート 美学/制度/日本』(堀ノ内出版)。共著に笠井潔との対談集『文化亡国論』(響文社)など。