目指すのは感情が入り込む余地のあるコンセプチュアル・アート。ライアン・ガンダー インタビュー
東京オペラシティアートギャラリーで開催予定だったライアン・ガンダーの個展がコロナ禍の影響で延期となり、代わりにガンダーがキュレーションを担当した収蔵品展「ライアン・ガンダーが選ぶ収蔵品展」が6月24日まで開催されている。モノクロ作品ばかりを集めた「色を想像する」(4階)、懐中電灯を持って暗がりを探索する「ストーリーはいつも不完全」(3階)の2つについて話を聞いた。
白と黒の作品を並べて、見る人の脳に色を想像させる
──東京オペラシティ アートギャラリーでの個展は残念ながら延期になってしまいましたが、そもそものプランとして、個展を3階ギャラリー1・2で行い、4階ギャラリー3・4の収蔵品展のキュレーションもガンダーさんが行う予定だったと伺いました。これまでも架空の作家の作品をご自身の個展に組み込むなど、制作とキュレーションを隔てずに個展を開催されてきた印象なので、その延長として企画されていたのでしょうか。
展覧会の中に誰かの展覧会が入子状に入っているようなプランニングは、これまでも意図的に行ってきました。そこには架空の作家の作品や過去のイメージのように、実在しない要素も入ってきます。私が幼かったころ、父からよく「良い話をつくりたければ、そこに事実を混ぜ込むようなことをしてはいけない」と言われていました。つまり、事実は素敵だったはずのフィクションを壊してしまうということです。もし嘘をついたとしても、それが人を傷つけるものでなく、人を楽しませたり考えさせたりするようなものだったら、それはネガティブなものではありません。アートの領域では、そのようなポジティブなフィクションの要素がとても重要な役割を担っています。
もし私の個展が延期されず、4階の収蔵品展のキュレーションを手がけていたら、おそらくそこには何かしらのフィクションを持ちこんでいたことでしょう。私の個展とどのような関係の展示にするかの具体的な案は考えていませんでしたが、収蔵作品を展示し、そこに存在しない何かを想像したくなるようなフィクションの仕掛けをしたかもしれません。
──個展の延期が決まり、3階と4階のギャラリー4室をすべて使って収蔵品展をキュレーションすることになりました。最初のアイディアをお聞かせください。
コレクションの所有者であった寺田小太郎さん(*1)がご存命だと想定して、彼にプレゼンテーションするようなイメージで考え始めました。寺田さんは作家の評価などに左右されず、先入観なく自らの視点で作品を収集していたそうなので、展示にほんの小さな仕掛けを加えることで、また異なる視点からコレクションを楽しんでいただけるはずだと考えたのです。その仕掛けというのが、4階のサロンスタイル(*2)での展示であり、3階の懐中電灯で暗い展示室を探索する鑑賞方法です。小さな仕掛けで、劇的に違う展示が完成したと思っています。
──順路は4階の「色を想像する」から始まります。サロンスタイルで展示されているのは、絵画も写真もすべて白黒の作品です。
白と黒の作品を並べて、見る人の脳に色を想像させるという仕掛けで展示を構成しました。今回コレクションのリストをいただいてキュレーションを行ったのですが、日本人作家を中心とするコレクションだったため知らない作家が多かったので、まっさらな状態で惹かれる作品を選ぶことにしました。物故作家なのか存命の作家なのか、年齢も時代も流派もわからず、先入観なしで作品をどう組み合わせるか考えました。そして、作品名や作家名などのキャプションを対面の壁に記し、鑑賞者にも先入観のない状態で作品を楽しんでいただこうと思いました。
例えば李禹煥さんのように、評価されることになった文脈や人物像などがよく知られている作家もいますが、そういう人物の作品も含めて横にキャプションがない状態で並列して見ていただく。作家情報などの背景を取り払ったときに、鑑賞者それぞれの目に作品そのものが見えてくるはずだと考えたのです。
──モノクロの作品ばかりが並ぶ状態から、鑑賞者それぞれが「色を想像する」仕掛けですね。
現代美術の面白いところは、展示を見て誰もが異なる感想を持ち、違うことを考えて想像できることです。それはキュレーションした私が展示を見て抱く想像とも違うだろうし、私は写真と映像でしか展示の様子を見ていないので、それを会場で見た場合にはまた異なる感想を持つでしょう。そのいずれもが正解であって、たくさんの種類の答えが出てきてどれも間違いと呼べないような許容量を持つ作品、展示というのが良いアートだと言えるはずです。
アートは90パーセントが認識の領域で展開するもので、残りの10パーセントが網膜でとらえるもの
──展示は4階から3階へと続きます。展示室の照明を落とし、入口で手にした懐中電灯で照らしながら作品を鑑賞する「ストーリーはいつも不完全……」の展示形式は、どのように発想したのでしょうか。
「見る」という行為を変えるためにどうすべきかを考えました。通常の展覧会だと、展示室に入った瞬間に全体を一瞥して、どのような作品が展示されているのかが目に入ってきます。そうすると人の頭のなかでは、反射的に編集作業が始まってしまいます。見たい作品の選り好みをしてしまうのです。しかし、暗い展示室では一瞥できませんから、作品をひとつずつ懐中電灯で照らしながら見ていくことになります。民主的ですよね。どの作品も公平に見られる権利を与えられているのですから。
──懐中電灯の光の大きさは限られていますから、作品に近づいたり遠ざかったりしながら鑑賞することで印象が変わるのも新鮮なアート体験です。
遠ざかって照らさないと全容が見えない大きな作品もありますし、そういう作品に近寄って光を当てると、テクスチャーがよく見えてきます。彫刻作品をこの方法で鑑賞すると、影が生まれて新たな立体性が立ち上がってきます。そして、他の人が何を見ているのかが光によって見えるのも面白いですし、懐中電灯で照らしながら暗闇を歩く鑑賞体験によって、子供のころにライトを持ってベッドの暗がりを探検したことや、キャンプで夜に散策をしたような経験を想起させます。冒険や発見につながる鑑賞を懐中電灯で実現できるのではないかとも考えたのです。
──展示は5つのセクションに分かれていて、「見る」行為に由来する5つのタイトル(Search、Gaze、Perspective、Panorama、Vision)がついています。構成はどのように考えたのでしょうか。
ほとんどの作品は、5つのうち3つぐらいのタイトルと関連づけられると思います。いずれの作品も多面性を持っていて、それぞれのタイトルにも複数の意味があるので、いろいろな結びつき方がそこには生まれるからです。というのが、見るという行為には、網膜が目の前にあるものをとらえる視覚的な側面と、脳によって認識する理性的な側面があります。例えば「ヴィジョン」という言葉は、網膜である光景をとらえる視力を意味することも、また脳内で描く未来への展望を意味することもあります。
アートというのは、90パーセントが認識の領域で展開するもので、残りの10パーセントが網膜でとらえるものだと私は強く信じています。つまり、ただ見て楽しい、美しいという感想が生まれるだけでそこに脳内活動が起こらなかったとしたら、それは私がアートと定義する領域には入ってこないものです。おそらくエンターテインメントと呼べるものかもしれません。
──作品を鑑賞すると思考が刺激されることももちろんですが、同時に多様な感情が湧き起こります。アートが引き起こす感情については、どのようにお考えでしょうか。
私は感情というのも、認識のカテゴリーに含まれていると考えています。認識には「自分がどう振る舞うべきか、自分のパフォーマンスに影響を与えるような情報を受け取ること」と、「自分の何がしかの感情に触れてくる情報を受け取ること」という2つの意味が含まれています。私たちの感情は本能的に湧き上がるものなので、「こういう風に感じよう」と操作することはできませんが、感情が湧き上がる何かを受け取ることも、認識に含まれているのです。
私はコンセプチュアル・アーティストと呼ばれることが多いですが、自分をそうだとは思っていなくて、強いて言うならばネオ・コンセプチュアル・アーティストのようなものです。コンセプチュアル・アートというと、物質や言葉を通してアイディアを説明するわけですが、そこには感情が入り込む余地が残されていないと感じています。コンセプトをコンセプトそのものとして表現することが目的だからです。ロマンティシズムや絶望、喜び、悲しみ、ユーモアなど、どの感情か限定することはありませんが、私はコンセプチュアルな作品でありながら、そこに何かしらの感情が生まれることを目指して制作をします。作品を通して人に何かを問いかけたり、思考を刺激したり、本能的で先天的な感情体験へと誘いたいと考えています。
──「色を想像する」「ストーリーはいつも不完全……」のいずれの展示も、自由な鑑賞体験を楽しむことができました。
子供のように楽しむことができれば、そこには冒険や発見、遊びと学びの喜びが生まれて、ポジティブな感情が湧き起こるはずです。私の究極的な目標は、子供のようになることだと思っています。「色を想像する」のキュレーションでサロンスタイルにしたことで、子供が名声や評価などの先入観を持たずに好きなものを選ぶように、作品を並列に展示することができました。
──素材も手法も限定せず、多様なメディアで表現を続ける根底には、そうした動機があるのですね。
今回は2つの収蔵品展で異なるアート体験を生み出そうとキュレーションしましたが、アート体験は美術館の空間だけで起こるわけではありません。例えばスーパーマーケットに行ったときに、アスパラガスとイチゴが隣り合わせで並べられていたとしたら、その不思議な光景を私はアートのようだととらえます。世界は記号であふれていて、様々な方法で意味を読み解くことができます。そこにはひとつだけの正解というものはありません。世界にはそのように、当たり前のこととして片付けられないような、通常の理解に簡単に落ち着いてくれないような現象が無数にあります。そうした現象の体験を集積させ、追体験してもらうことが私の作品だと言えるかもしれません。
──延期となった個展は来年の開催を予定しているようですが、どのような企画になりますか。
個展のプランは90パーセント決まっていましたが、もうアイディアはすでに変わってきています。時間も人の寿命も限られていますし、どんどん新しいアイディアが生まれ続けます。いまの時点でどうなるかわかりませんが、どういう展示プランになるか自分でも楽しみにしています。
*1──東京オペラシティ街区共同事業者のひとりで、文化事業に賛同し協力するために4000点の美術品を収集。コレクションとして東京オペラシティアートギャラリーに寄贈した。
*2──欧米での個人の邸宅における伝統的な美術品の飾り方にならい、大きな壁面の上下左右びっしりと作品を並べる展示スタイル。