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2018.4.30

複数の時空を生きうるペルソナ。
新藤淳が見た「アンディ・ホープ1930」展

「アンディ・ホープ1930」という名前を活動初期から使い続け、2010年には実際に改名まで行ったアンディ・ホープ1930。その日本初となる個展を、国立西洋美術館研究員の新藤淳がレビューする。

文=新藤淳

展示風景
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「アンディ・ホープ1930」展 「かもしれない」を生き直すペルソナ ――ポスト真実の時代に 新藤淳 評

 筆名とか異名とか、芸名とか偽名とか、実名ならざる名で作品を発表する人は、古くからいる。また昨今のメディア環境は、匿名性を保ったまま活動しようとする表現者を、かつてより多く育んできただろう。だが、このところ目に付くのは、そのような匿名的作者とは異なる、なにか半ー現実的なキャラクター、あるいは準ー虚構的な人格とも言うべきものを自身の身体で生きようとするアーティストたちである。現在、東京・青山のRAT HOLE GALLERYで個展を開催中の「アンディ・ホープ1930」という人物も、その最たる例だと思う。

 1963年にドイツで生まれたこのアーティストの本名は、アンドレアス・ホーファー。しかし1998年から自作のほとんどに“Andy Hope 1930”と署名してきた彼は、それを2010年以降、自らの正式な名としている。その名のつづりは、およそ1世紀前にマルセル・デュシャンが男性用小便器に書き加えた“R. Mutt 1917”という「偽名」+「年記」の組み合わせを想起させなくもない。けれども「1930」が年号であるなら、その偽の年記が、この21世紀になって延々と反復されなければならない理由は、いったいなんなのか。

 「アンディ・ホープ1930」とは結局、ひとつの固有名であるとともに、それを名乗るアーティスト自身がまとう(別)人格である。ならば、まさにデュシャンが生んだ「ローズ・セラヴィ」のような、ある種のオルター・エゴだろうか。つまり「男性」や「ドイツ人」といったアーティストの自己同一性を攪乱し、ひいては「作者」という主体を批判的に複数化する、そういう類いの別人格? いや、アンディ・ホープ1930のもくろみは、そのようなアイデンティティをめぐる政治にはないだろう。それはこのアーティストが「さまざまな時間や空間へ旅する」ための虚構的人格だというのだから。すなわち、この世界にいながらにして複数の時空を生きうるペルソナ。

展示風景

 今回、そうしたSF的ともいえる「設定」はまるで知らないまま、青山の個展会場を訪れた。それでもすぐに感じさせられたのは、どことなく屈折した歴史意識、もしくは捻れた未来観のようなものだった。エポキシ樹脂製の彫刻の素材感はいかにも「いま風」ではあるし、絵画に描かれた「#BELIEVE」というハッシュタグや「SUBPRIME」の文字、iPadやiPhoneのディスプレイなどは、わりと最近の世相からサンプリングされている。とはいえ、それらの絵画や彫刻にみられる幾何学的/有機的な形態は――決して高度にフォーマリスティックに構成されているわけではないにしても――20世紀前半のモダン・アート、たとえばマレーヴィチやブランクーシらの造形要素を思わる。すると、あの「1930」という意味ありげな数字が、やはり年代を指すのかもしれないと思えてくる。

 案の定、アンディ・ホープ1930は、1930年代をロシア・アヴァンギャルドの終焉とアメコミ文化の台頭とが重なる歴史の転換期と考え、特権視しているらしい。革命と呼応した前衛的モダニズムによる急進的でユートピア的な未来設計の挫折と、SF的な未来志向の想像力を背景として資本主義の大衆文化が産み育てたスーパーヒーローたちの躍進。一見、まったく無関係かに思える「終わり」と「はじまり」。あるいはたんに、別々に夢見られた「未来」へのヴィジョン――。だが、アンディ・ホープ1930はおそらく、そのように歴史的にも政治的にも分かたれた、地理的にも社会階層的にも隔てられた、ふたつの異質な未来像が交叉する過去の地平を生きるべく仮構された「虚構的人格」なのだ。

 その人格はしかし、たんなる虚構ではない。それは「なかった」過去を「あった」ことにして生きる架空の存在ではなく、いわば「ありえたかもしれない」過去の時空を、この21世紀に生き直してしまう人格であるはずなのだから。その意味でアンディ・ホープ1930は、2009年にキャリー・ランバート=ビィーティーが既存の「フィクション」なるカテゴリーとは区別して「パラフィクション」と呼んだような、なかば現実でなかば虚構の世界を生きるペルソナだろう。その活動の全貌は、今個展のみでは当然ながらとらえきれないにせよ、多彩な仕事の一端は昨年のヴェネチア・ビエンナーレでも披露されていた。この21世紀を生きる、20世紀のアヴァンギャルドとSF的サブカルチャーの畸形化した亡霊でもあるかのようにして、アンディ・ホープ1930は「未来」が終わった後の未来を描こうとしているように映る。

 なるほど、虚構的人格といえるものを導入してきたアーティストはデュシャン以後、例えばシンディ・シャーマンやリチャード・プリンスからグレゴール・シュナイダーやグレイソン・ペリーらまで、とりわけ過去数十年、さまざまにいたはずだ。ともあれ、虚構/現実、実在/非実在のパラフィクション的な相互浸透のなかで、かつて現実に「いたかもしれない」人物、つまり歴史上の準-虚構的な人格を再帰的に生き直そうとするアーティストが、アンディ・ホープ1930のみならず、ドイツのイリス・ホイスラーや日本のユアサエボシのように、ここへ来て目立つ。それらが歴史や現実の悪しき「改竄」なり「修正」なりではないとすれば、そこに作用しているポスト真実の時代、ポスト-シミュラークルの時代のあらたな欲望と歴史意識の可能性とが、きっと真剣に問われなければならない。