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2015.9.18

日本写真史の空白② 戦中、総動員体制下のプロパガンダ

静岡県のIZU PHOTO MUSEUMで開催中の「戦争と平和─伝えたかった日本」展。連載の第2回は、戦局が悪化していく戦争後期から敗戦まで、国民に向けたプロパガンダの役割を担った写真家の仕事を紹介します。

『写真週報』184号(1941年9月3日号)中ページ 1941 情報局 個人蔵
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国策を伝えるための大衆向け週刊グラフ誌『写真週報』

『写真週報』創刊号(1938年2月16日号) 1938 情報局 表紙写真=鉄道省及国際報道写真協会木村伊兵衛 個人蔵

「『写真週報』は、内閣情報部が創刊した週刊グラフ誌です。戦時下における理想的な国民像や戦線の様子など、国策を大衆に伝えるものでした。前回紹介した『FRONT』はどちらかというとハイソサエティー向けですが、こちらは一般国民の間に広まり、回覧もされていたので、100万人以上が見ていたと言われています。」(IZU PHOTO MUSEUM研究員・小原真史)

子どもからお年寄りまで、国民を戦争に総動員するために、大量かつ広範囲に配布することができる写真やグラフ誌はプロパガンダツールとして重要な役割を担っていきました。国が写真の力によってどのように国民を煽動しようとしていたのか、同誌に掲載された内閣情報部の次の言葉からも窺うことができます。

「映画を宣伝戦の機関銃とするならば、写真は短刀よく人の心に直入する銃剣でもあり、何十何万と印刷されて撒布される毒瓦斯(ガス)でもある。」 (『写真週報』2号掲載)

戦況悪化と『写真週報』誌面の変化

すべて『写真週報』より 第93号(上段左)、第163号(上段右)、第318号(下段右)、第325号(下段左) 情報局 個人蔵

A4サイズ、金属で綴じられていた『写真週報』は、戦況悪化に伴う物資不足のあおりを受け、第315号(1944年3月22日号)以降、A3サイズで折っただけの無綴に変わります。

「無綴で大判になると、中面にあった『時の立札』という標語が表紙に移動し、表紙は壁新聞やポスターのように街や公共施設に掲示されるようになりました。子どもも老人も女性も、とにかく国のために戦おうという表紙イメージが目立ちます。食料不足など国民生活が苦しくなるなか、『工夫と汗があれば都心に麦は稔る』、女性のアップの写真とともに『勝て勝て勝つんだ』など、戦争末期には精神論のような標語も増えていきました」(小原)

『写真週報』は敗戦直前、1945年7月11日の374・375合併号が終刊となりました。

1943年の陸軍記念日。有楽町に登場した写真壁画

『アサヒグラフ』1943年3月24日号 個人蔵

「1943年の陸軍記念日前後に、《撃ちてし止まむ》という写真壁画が日本で初めて屋外に設置されました。いまの有楽町マリオンがある場所です。高さ13.6m、幅12.7mというサイズで、南方前線で塹壕から敵陣に向かって手榴弾を投げんとする日本兵のイメージです。

山端写真科学研究所が写真壁画の作成を請け負い、実際には国内で撮影した日本兵の写真に、足もとの星条旗や戦地を思わせる背景などをモンタージュして演出しました。また、下から見上げたときに迫力が出るように、頭のほうが大きくなるようにパースもつけています。そして写真を分割して引き伸ばすことで、巨大な写真壁画を制作したのです」(小原)

写真壁画は1943年、3月10日の陸軍記念日に合わせて制作されました。式典が行われ、多くの人々が集まっている様子がわかります。

この2年後、1945年の3月10日、同じ陸軍記念日に10万人以上が犠牲になったとされる東京大空襲が起こります。続く第3回では、敗戦後の写真家たちの仕事を紹介します。

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