書評:記述と観察が立ち上げる「庭のかたち」。山内朋樹『庭のかたちが生まれるとき 庭園の詩学と庭師の知恵』
雑誌『美術手帖』の「BOOK」コーナーでは、新着のアート本を紹介。2024年1月号では、山内朋樹『庭のかたちが生まれるとき 庭園の詩学と庭師の知恵』を取り上げる。庭師でもある著書が「庭のかたち」の発生を追い、目に見えない作庭のプロセスを観察した本書を、美術批評家・沢山遼が書評する。
記述と観察が立ち上げる「庭のかたち」
本書は、自身も庭師である著者が、京都府にある補陀落山觀音寺の庭園の作庭に際して、その始めから完成段階に至るまでの一連のプロセスを観察した書物である。著者は、庭師・古川三盛を中心とした職人たちの作庭現場に日々通い、その過程を詳細に記録することで「庭のかたち」の発生をとらえようとする。
庭に限らず、あらゆる造形芸術にはかたちがあり、そこにはそのかたちを成立させる造形的なプロセスが存在する。しかし、観察者にとって障壁となるのは、通常の意味での視認されるかたちの背後には、かたちに現れることのない無数のプロセスが潜在するということだ。目に見えるもの、現れたものは、形象を構成するものの一部分でしかない。その意味でむしろかたち(表象されたもの)は、多くの潜在的なプロセスを抑圧し、時にそれを覆い隠してしまう。
それに対して、本書が言うところの「庭のかたち」はそのようなものではない。庭には、設計図が存在しない。つまり庭は、「作者」の「企図」にしたがって進むものではない。また庭は、芸術家の「作品」のようなものでもない。本書が取り上げる古川の作庭は、作庭に先行してすでに存在する植生やそこに配置される複数の石、ほかの職人、クライアントとの会話といった複数のものたちの応答関係にその都度触発され、絶えざる修正を繰り返しながら、様々な意図や意識の絡み合いのなかで、可変的かつ動的に組み替えられていく仮設的な場として立ち上がる。著者は、こうした様々な作動主体の絡み合いから成立する作庭の現場を、「力の場」と呼ぶ。そこには実現した庭そのものには現れない、多くの潜在的なプロセスや人間と物質の別を超えたやりとりがある。庭は、人為的に造形されるものであると同時に、非人為的に生成するものでもあるということだ。
庭は、人間以外の植物や事物を含めた複数のものの混成体であり、そこで複数の物質の抵抗やエネルギー、主体の意図や行為が交錯する。著者が記述するのは、一連の物質と知性が交錯する、エコロジカルなネットワークとそのパフォーマンスである。繰り返せば、そのプロセスは、本書のような観察によってしか記述しえない。
だから「庭のかたち」とは本書におけるプロセス分析=記述そのものを指す、と言ってよい。記述することは、庭が造形され生成する過程を再び紙面上に立ち上げることであり、それは庭を本のなかで再びつくることに結実する。
(『美術手帖』2024年1月号、「BOOK」より)