日記という表現形式──音楽のエラボレーション
アルバム『12』には、坂本龍一自身の言葉として「日記」というキーワードが寄せられているが、彼が作品制作においてこの言葉を使用するのはこれがはじめてではない。本記事は、『12』を紐解くためのコラムの第一弾。坂本龍一の1980年代からの「パフォーマンス」を「日記」というキーワードとともに振り返り、『聴く』ことの音楽を論じる。
※去る3月28日に坂本龍一さんがご逝去されました。謹んでご冥福をお祈りいたします。本原稿は坂本さんの生前に書かれ、4月3日に公開予定だったものです。
日記のように、徒然に、何も施さない
2023年1月17日。坂本龍一のアルバム『12』がリリースされた。アルバム名は曲数で、全曲のタイトルは日付、2021年3月10日に録音された音源「 20210310」から始まる。坂本によれば、「折々シンセサイザーやピアノの鍵盤に触れては、日記を付けるようにそうしたスケッチを記録していきました」(*1)。「徒然なるままにシンセサイザーやピアノで奏でた音源を1枚にまとめたに過ぎず、それ以上のものではない(略)いまの自分には、こうした何も施さない、生のままの音楽が心地よい」(*2)と。
こうした音楽のあり方──日記のように、徒然に、何も施さない──について、「日記」をひとつの切り口に考えてみたい。坂本と日記について考えると、作曲家でピアニストの高橋悠治(1938年〜)に係わるエピソードが呼び起こされる。以下に、1980年代の坂本の発言を引いていくことになるが、あらかじめ断っておくと、こうした音楽のあり方に、現在にいたるまでの一貫性が見出せる、という主張をしたいわけではない。日記という、言わば散文による日常を強調した形式を借りて、その時々の自身の音楽表現を考えてきた坂本の発言や行為に注目することで、2023年現在の試行を捉える手がかりを得たいのだ。
ぼく自身のための日記
1981年、高橋の委嘱で、坂本は「ぼく自身のために」を作曲する。同年5月11日に初演された際は、「自分自身のために」という曲名だった。
僕は「現代音楽」はつくる気にならないし、「クラシック」音楽はつくる必然がないし、何の為のピアノ曲か、ということで随分悩みましたが、結局約1月半の間、日記をつける様に思いついたフレーズを積み重ねていきました。(*3)
アルバム『左うでの夢』(1981年)制作の時期と重なっていることもあって、「ぼく自身のために」の後半には、アルバム所収の「ぼくのかけら」が一瞬顔を覗かせる。ひょっとすると、「日記をつける様に思いついたフレーズ」のひとつが、「ぼくのかけら」になったのかもしれない。そして「自分」から「ぼく」へのタイトルの変更は、なんらかの私性の強調であっただろう。
村上春樹の小説における「僕」が、1980年代の幕開けを象徴し、1983年にはYMOのアルバム『浮気なぼくら』がリリースされ、その時代を象徴する新たな主体を体現することになるだろう。坂本が珍しく作曲のみならず作詞もした「ONGAKU/音楽」が収録され、ヴォーカルまで担当し、「ぼく」は「オンガク」と歌う。この主体は、社会学者の見田宗介が指摘した「虚構の時代」の寓意に満ちた「ぼく」だったはずだが、時を経てその歌唱に接すると、同時代に背を向け「オンガク」に自閉するジェスチャーにしか聴こえない。
小説としての日記
YMOの散開ツアー中に収録された、高橋と坂本の共著『長電話』(本本堂、1984年)に、「小説としての日記」という見出しがある。
日記書いてるときっていうのはさ、まあ発表を前提にしない場合でもね、もう一度読むとかさ、自分が。あるいは、誰かに読ませるとかさ、もう想定してるよね。(略)書くだけのために書くっていうことはさ、たぶんないよね。(略)なるべく事実をさ、何時にどこ行ったとかね、その事実を書いててもね、ちゃんと修飾しているわけね。なんていうかな、ある意味じゃ小説んなってるわけ。小説風になってるわけね。(*4)
高橋が主催する『水牛通信』に、坂本は、「「スター」日記」(1984年4〜12月月号)の連載をはじめる。『長電話』の通話が連載のきっかけであったかもしれないし、「小説としての日記」の実践であったのかもしれない。ある1日を引こう。
5月16日(水)朝6時、パルコの3m四方の壁に「長電話」の表紙、裏表紙を貼り始める。カメラマンの三浦憲治、デザイナーの奥村さん、本々堂の義江さん、アシスタントの富永君等。途中、休んだり、AKKOの作った弁当を食べたりして、完成したのは12時過ぎ。雨が降り出した。1時間ぐらいのヴィデオにするつもり。音響、ソロ、録音。が、録音にならない。疲れた。(*5)
『長電話』が刊行された日、坂本は「The Grey Wall.」と題した7時間に及ぶパフォーマンスを行った。ヴィデオ作品が作られることは無かったが、グラビアとして「THE GREY WALL」本をつくりそれを変形し別の用途に使う 坂本龍一の「書物の解体学」」(*6)や、『本本堂未刊行図書目録』の日比野克彦の装丁による「ビデオ・ブック」の予告と宣伝文が残る。
一九八四年五月一六日、明け方、渋谷パルコ前にあらわれた坂本龍一は、次々にタイルらしきものを壁に貼りはじめ、幾何学模様が現出する。タイルは『長電話』の表紙である。出版にパフォーマンス性をもたらそうとする坂本龍一は、『長電話』における電話パフォーマンス、本の表紙を使ったパフォーマンスで書物という古典的概念を次々に解体する。七時間後、三七一枚の表紙を貼り終えた坂本龍一は壁を指さして、「これも本です」とだけ言った。(*7)
1984年。YMO直後の坂本の活動は、既存のメディアを絶えず異なるメディアに変換する試みとして行われ、これを「パフォーマンス」と称していた。このこと自体その表現史として振り返られるべきものである(*8)。実際の坂本の「日記」が「小説」になっているか(いたか)は措いて、プロフェッショナルで公的な文学の中心概念である「小説」と、アマチュアで私的な「日記」が相乗することを、一種のパフォーマンスと見なしていたことは間違いない。「小説としての日記」の実践云々よりも、この言い換えの言語行為こそが「パフォーマンス」であっただろう。
プロセスを与えるメディアとしての日記
音楽を書籍の枠組みにパッケージしたアルバムという習慣を、いまいちど逆手にとって『音楽図鑑』(1984年)と題したことにもパフォーマンスの意図があった、かもしれない(*9)。1983年1月に始まったレコーディングは、「シュールレアリズム的な自動筆記」を実践した「先入観無しに出て来るものを記録」することを意図した(*10)。この記録は「5月16日」にも行われていた。そして「音響、ソロ、録音。が、録音にならない。疲れた」と書かれた、音響ハウスでの録音は、2015年に発売された『音楽図鑑』の「デラックス・リマスター盤」に「マ・メール・ロワ -0014-02-MAY16」として収録される。オリジナルでは、ひばり児童合唱団、近藤等則によるトランペット、デヴィッド・ヴァン・ティーゲムによるパーカッションが加わるのに対して、「MAY16」はFairlight CMIによるシンセサイザー「ソロ」である(*11)。
音楽でも、僕の場合はそうなんですけれども、いつもつくるプロセスというのが一番おもしろい。メディアというのは、本当はうそをついていて、メディアを通して皆さんの聴くものというのは、結果でしかないけれども、僕たちが実際楽しんでいるのは、そのつくるプロセスなんですね。そのつくるプロセスを与えるメディアというのは、いまは余りないから、あいまいな形でパフォーマンスと呼んでいるんですけれども。(*12)
これも『音楽図鑑』を制作していた時期の発言だが、坂本の作品概念を考える上で重要なポイント、つまりこの作家の数少ない一貫性と言えそうな特徴がここに見られる。つまり、結果ではなく「プロセスを与え」たいのだ。この観点から振り返ると、「5月16日」午前中のパフォーマンスの「疲れ」を強調する逆説助詞「が」を置いて、「録音にならない」と修飾した小説化の真意は、別にあるだろう。「MAY16」について坂本は、「骨組みっぽいですね。(中略)鯨の骨みたい」と言う。そしてFairlight CMIによる「変な音」がいいと思った反面、結果=完成が見え、このままだと「ほころびがない」。それを「壊すために近藤君を呼んだ」とも言う(*13)。
2015年に2曲の「マ・メール・ロワ」が収録され、結果が見えた段階の「MAY16」と、それによって「ほころび」をもたらされたオリジナル版が対比されることになった。オリジナルが完成だが、完成とは予測された結果に対する抵抗版(カウンター・ヴァージョン)なのだった。すると「録音にならない」という言葉の真意は、予測された結果に対する苛立ちとして、小説から日記へと複号されるだろう。作家にとっての楽曲の完成から、マスへの発信を意図したスタジオ・ワークを重ねた完成のあいだに、多様な編曲と演奏のテイクのバリエーションが、プロセスとして挟まる。変奏し続けるプロセスへの意思表示は、日常のスタジオワークの意味を、音楽のエラボレーション(練成)へと向けるだろう(*14)。音楽家、坂本龍一の活動自体が「進行中の作品/ワーク・イン・プログレス」の性格で強調され、「行為遂行的/パフォーマティヴ」な意義がもたらされる。
「つくるプロセスを与えるメディア」という発言は、この直近ではコンセプトを掲げたライブ・アルバム『メディア・バーン・ライブ』(1986年)のリリースにつながった。これ以降も、オペラ『LIFE a ryuichi sakamoto opera 1999』が東京と大阪の演奏や、シンセサイザーによるモックアップのリリース、インスタレーション版などの変奏に展開する。また2009、2010、2011年には、iTunesを活用することで、ライブツアーが日記的に公開された。
聴くことの日記
『async』(2017年)は、リリースと同時に、自らのスタジオと同じスピーカーを用いた「設置音楽展」に展開した(*15)。これはこれで「つくるプロセス」である日常、スタジオに聴衆を招き入れるようなあり方であった。リリース直後に行われたライブでは、「坂本龍一 PERFORMANCE IN NEW YORK: async」と題され、映像化されたことも注目したい。さらに多くの音楽家の参加を得て『ASYNC - REMODELS』もリリースされている。音楽のエラボレーションは、自身を一聴衆でもある音楽家に再配置するだろう。映画音楽を始めとする、マスメディアに対する音楽活動を通じて制作を続けながら、坂本は、自身の作品概念の核心に係わる部分において、挑戦を続けているのだ。メディアの報道を介すると、「病を得て」と語られてしまう部分に、実は意識的な実験が潜んでいる。
2023年1月にリリースされた『12』は、スタジオ・ワークではない。「MAY16」以上に、原典を持たない、自分自身を聴き手とする無観客ライブの記録だ(*16)。言わば「音楽以前」(*17)の「つくるプロセスを与える」日記なのだ。『美術手帖』2017年5月号のインタビュータイトルそのままに、「あるがままのS(サウンド)とN(ノイズ)にM(ミュージック)を求めて」そのものがここにある。
音楽には、作曲したり、演奏したりといった要素があるわけですけど、「聴く」ことも音楽だっていうところに到達しないといけないわけです。やっと10代で知り合ったジョン・ケージの思想に触れた(笑)。「聴く」ということがすこしわかってきたかな。いまは弾くことよりも「聴く」ことがとても大事だと思っています。(*18)
演奏者である坂本の呼気や、楽器の発するノイズもふんだんに記録されている。演奏する身体であるよりも、坂本自身が「聴く」ことに集中していることが窺われる。
2015年の『音楽図鑑』は、過程がたどれないくらいに化粧を施し「音楽以上」となった商品を、いかに作品へと解体し、聴衆に分有するのことに取り組んできたかの告白であった。予想される完成から引き算したことを、「骨組み」の共有に託した。『async』に対する「 PERFORMANCE」や『REMODELS』においても、「プロセスを与えるメディアとしての日記」が続いた。
『12』では、「聴く」ことに自らの位置をシフトしているだろう。言わば、坂本自身が演奏しているのでは無く、「聴く」心地に身を置こうとしている。弾いている音を聴いているのか、聴いている音を弾いているのかが分からない、荘子の『胡蝶の夢』のような境地ではないだろうか?
坂本の言葉をいまいちど引いておこう。「折々シンセサイザーやピアノの鍵盤に触れては、日記を付けるようにそうしたスケッチを記録していきました」。「徒然なるままにシンセサイザーやピアノで奏でた音源を1枚にまとめたに過ぎず、それ以上のものではない(略)いまの自分には、こうした何も施さない、生のままの音楽が心地よい」。
このアルバムは、「聴く」ことの日記なのだ。
*1──『新潮』2023年2月号、165頁
*2──同、166頁
*3──坂本龍一「ぼく自身のために」「作曲者のことば」(「現代日本ピアノ音楽の諸相(1973 - 1983)」DENON COCO-6269、1990年
*4──『長電話』(本本堂、1984年、197頁)
*5── 坂本龍一「「スター」日記」(3)(『水牛通信』VOL.6, No.6、1984年、5頁)
*6──『平凡パンチ』(第21巻第22号、1984年6月11日、3-8頁)
*7──坂本龍一『本本堂未刊行図書目録』(朝日出版社、1984年、214頁)
*8──松井茂、川崎弘二「坂本龍一インタビュー」『情報科学芸術大学院大学紀要』第11巻、2020年、176-189頁。
*9──アルバム発売後、1985年に本本堂から書籍版が出版されている。
*10──『キーボード・マガジン』(第37巻第2号、2015年Spring号、31頁)
*11──同上。
*12──シンポジウム「21世紀の音楽文化に向かって─声・楽器・メディア」(『音楽芸術』第42巻第8号、1984年8月号、42頁)
*13──『キーボード・マガジン』同上
*14──副題にも掲げた「音楽のエラボレーション」は、サイード『音楽のエラボレーション』(みすず書房、1995年)を参照している。サイードは、演奏家であるグレン・グールドの分析を通じて、同書のなかで変奏曲の意義を積極的に論じた
*15── 2017年の設置音楽展については、『美術手帖』2017年6月号所収の坂本龍一インタビューを参照
*16──坂本自身によれば「トラック8、9、11以外は一筆書きです。 8、9、11は推敲しています」(https://shop.mu-mo.net/st/special/ryuichisakamoto_12/)と述べている。逆から言えば、全12曲のうち9曲は、聴衆同様、自ら初めて聴いた音なのだ。
*17──音楽評論家、山根銀二(1906〜82年)は、武満徹(1930〜96年)が作曲家としてデビューした際、その作品を「音楽以前」と酷評した。実際には、既存の音楽と異なる新たな音楽の登場であったことは言うまでもない。その言葉を敢えて使った。
*18──「あるがままのS(サウンド)とN(ノイズ)にM(ミュージック)を求めて」(『美術手帖』2017年5月号、23頁)