EXHIBITIONS
奈良原一高「生きる歓び」
奈良原一高の個展「生きる歓び」がタカ・イシイギャラリー フォトグラフィー/フィルムで開催されている。
奈良原は1931年福岡県生まれ(2020年没)。46年に写真の撮影を始める傍ら、芸術や文学などにも関心を寄せ、54年に中央大学法学部を卒業後、早稲田大学大学院芸術(美術史)専攻修士課程に入学。55年には池田満寿夫、靉嘔ら新鋭画家のグループ「実在者」に参加。池田龍雄や河原温といった芸術家や瀧口修造らとも交流を深めると同時に、東松照明、細江英公らとも知り合い、59年には彼らとともにセルフ・エージェンシー「VIVO」を設立する(61年解散)。
その後、パリ(1962〜65)、ニューヨーク(1970〜74)と拠点を移しながら世界各地を取材し、多数の展覧会を開催。56年に「人間の土地」で鮮烈にデビューした奈良原は、欧米で繰り広げられた文明のあらゆる側面を独自の巨視的な視点でとらえ、詩情豊かな「パーソナル・ドキュメント」の表現手法で日本写真史における新時代を切り開いた。写真集も数多く出版。国際的にも高い評価を受けている。
本展では、1971年6月23日〜27日にかけてルイジアナ州マックレアで開催された、野外ロック・フェスティバル「Celebration of Life」に奈良原が参加した際に撮影された作品シリーズ「生きる歓び」より21点を展示する。
ディープサウスと呼ばれるルイジアナ州で開催された「Celebration of Life」は、米国全土から6万人を超える参加者を動員するも、地元当局の開催拒否や周辺住民の反対、衛生施設の不備に加えて酷暑に見舞われ、開催予定日から3日遅れてスタートするなど、大混乱を極めた音楽祭であった。
奈良原はそのなかで、人々が音楽という目的を同じくし、「平和の意思を持つお互いを確かめ合いたいと希望」しながら生活するさまを、同じ「参加者として生き」ながら丁寧な眼差しでありのままをとらえた。
現実社会から逃れ、音楽と「田園カントリーでの生活」を享受するために集い、数日後には消えゆくコミュニティでのびのびと生きる若者たちの姿に共感し、自由を謳歌する人々の営みを写し取った作品群は、70年代という社会と60年代後半から続いたロック・フェスティバル文化の黄金時代の情緒を色濃く写し出している。
奈良原は1931年福岡県生まれ(2020年没)。46年に写真の撮影を始める傍ら、芸術や文学などにも関心を寄せ、54年に中央大学法学部を卒業後、早稲田大学大学院芸術(美術史)専攻修士課程に入学。55年には池田満寿夫、靉嘔ら新鋭画家のグループ「実在者」に参加。池田龍雄や河原温といった芸術家や瀧口修造らとも交流を深めると同時に、東松照明、細江英公らとも知り合い、59年には彼らとともにセルフ・エージェンシー「VIVO」を設立する(61年解散)。
その後、パリ(1962〜65)、ニューヨーク(1970〜74)と拠点を移しながら世界各地を取材し、多数の展覧会を開催。56年に「人間の土地」で鮮烈にデビューした奈良原は、欧米で繰り広げられた文明のあらゆる側面を独自の巨視的な視点でとらえ、詩情豊かな「パーソナル・ドキュメント」の表現手法で日本写真史における新時代を切り開いた。写真集も数多く出版。国際的にも高い評価を受けている。
本展では、1971年6月23日〜27日にかけてルイジアナ州マックレアで開催された、野外ロック・フェスティバル「Celebration of Life」に奈良原が参加した際に撮影された作品シリーズ「生きる歓び」より21点を展示する。
ディープサウスと呼ばれるルイジアナ州で開催された「Celebration of Life」は、米国全土から6万人を超える参加者を動員するも、地元当局の開催拒否や周辺住民の反対、衛生施設の不備に加えて酷暑に見舞われ、開催予定日から3日遅れてスタートするなど、大混乱を極めた音楽祭であった。
奈良原はそのなかで、人々が音楽という目的を同じくし、「平和の意思を持つお互いを確かめ合いたいと希望」しながら生活するさまを、同じ「参加者として生き」ながら丁寧な眼差しでありのままをとらえた。
現実社会から逃れ、音楽と「田園カントリーでの生活」を享受するために集い、数日後には消えゆくコミュニティでのびのびと生きる若者たちの姿に共感し、自由を謳歌する人々の営みを写し取った作品群は、70年代という社会と60年代後半から続いたロック・フェスティバル文化の黄金時代の情緒を色濃く写し出している。