トグサとハラウェイ検屍官は、その人形に何を見るか? 逆卷しとね評 菅実花「The Ghost in the Doll」展
ラブドールを妊婦姿で撮影したアートプロジェクト「Do Lovedolls Dream of Babies?(ラブドールは胎児の夢を見るか?)」(2014〜)で注目を集めた菅実花の個展が、原爆の図 丸木美術館で開催された。本展では、19世紀のヨーロッパで流行した、故人を湿板写真で記録する「死後記念写真」の手法を用い、等身大の精巧な乳児人形「リボーンドール」を撮影した新作《Pre-alive Photography》を中心に発表。 本稿では、気鋭のダナ・ハラウェイ研究者が、押井守監督の映画『イノセンス』に登場するトグサとハラウェイ検屍官の対話のかたちをとり、本展における生命とゴーストの謎に迫る。
対話篇「胎児の義体/擬態」
トグサ(T):ご足労いただきましてどうも。本日診ていただきたいのは、こちらで展示されているヒトガタの写真でして。生存しているのか、死亡しているのか、そもそも生死の秤に載せてよいものなのか、写真からは判断がつきかねるところなのですがご意見をいただければと。
ハラウェイ検屍官(H):共同検査と現場検証はしない主義。けれども、電脳犯罪史上もっともユニークと評されたハッカー、あの人形遣いを超える人形遣いの案件と聞けば仕方ないわね。丸木夫妻の《原爆の図》(1950〜1982)連作を収蔵する原爆の図 丸木美術館。誘拐した人形の写真をここでメディアに公表する菅実花というのはどういう経歴の人形遣いなのかしら。
T:日本画出身のアーティストで、最近はセクサロイドのマタニティ・フォトを撮影・展示していたようですね。ちょいと失礼(ハラウェイの首の端子にケーブルを挿入)。データを電脳に送りますね。ああ、ロクス・ソルス社製タイプ2052ハダリ検屍の際はお世話になりました。
H:これはセクサロイドではない。ラブドール。眼球に走査装置が見られないし、肘の曲がり具合が歪だし、腹部の膨張もゴム製のボールか何かを詰めたんじゃないかしら。ずいぶん義体の偽装に詳しいようね。義体自体を検屍室に運びこんで調べてみなければなんとも言えないけれど……
T:……ゴーストがいるかもしれない。
H:セルロイドの人形に魂が入ることもある。いずれにしても相当腕の立つ人形遣いの仕業ね。何を企んでいるのかは知らないけれど。ところで、ここは禁煙かしら。
T:では早速、こちらから見ていただきたいのですが。湿板写真のアンブロタイプが9点、 3点ずつ3つの硝子の箱に収められている。感光版は硝子。コロジオンを始めとする薬剤が感光版の表面に淀みやムラを残していて、まだ濡れているようにも見えますね。上からの照明が当たって、台の上に反影をつくっている。まるで死んだ赤ん坊を永遠の眠りとして残すために撮られた19世紀の死後写真(Post-mortem photography)のようですね。被写体は赤ん坊の人形ですが、焦点が定まらない目を見る限り、まるで屍体のようだ。
H:「Ghost in the Shell」から「The Ghost in the Doll」へ。無冠詞だったGhostに定冠詞theがついているのは、それが特定の文脈を参照しているからね。つまり、丸木美術館の《原爆の図》第1部「幽霊」。屏風四曲一双「幽霊」のいちばん左端には妊婦がいる。被爆した妊婦が宿していた胎児のゴーストが、この写真の被写体である人形のなかにいるのかもしれない。ガラスのなかの像と台の上に映る像の二重写しはそういう惑いをつくる。人形遣いの企図はそんなところかしら。
T:それにしてもずいぶん楽しそうだ。調度品や玩具、衣装から赤ん坊に対する愛が伝わってくる。ところで、この《Pre-alive Photography》という作品名が気になりますね。死後写真はフェイク?
H:フェイクというよりは写真史的な文脈ね。でもここで重要な文脈は丸木夫妻作の「幽霊」の妊婦。あの絵の中の妊婦はまだ生きている。お腹の中の子は、亡くなったのではなく、まだ産まれてきていない。人形遣いは、丸木夫妻に表現されることのなかった生命以前の原‐生命、あるいはゴーストを撮影しようとしている。あなた子供は?
T:娘が1人。
H:子供は常に人間という規範から外れてきた……つまり確立した自我を持ち自らの意思に従って行動するものを人間と呼ぶならばね。では子供の前段階として母親の胎内に生きる存在とは何者なのか? 明らかに中身は人間とは異なるが人間のかたちはしている……
T:いったいなんの話をしているんです?
H:ヒトはいつヒトとして認められるのかしら。ヒト胚が発生したとき? 堕胎されるものは人間かしら? 親によって産む予定に入れられるものだけが大切な子供なのだとしたら、それ以前のものは肉塊に過ぎない。だから掻爬されて捨てられる。
T:ヴィクター・フランケンシュタイン博士は複数の屍の部位を組み合わせて人間をつくろうとした。けれどもそれは醜く、名づけられることなく、怪物として捨てられた。
H:人形も同じようなものね。持ち主を得て、名前と魂を与えられて初めて人形は生命を得る。人間の形をしているけれども、誰かに所有されない限りはまだ産まれていないモノ。「幽霊」に描かれた、あの妊婦のお腹の中にいる胎児も、産む予定を断たれた人間未満のモノ。名づけられなかったフランケンシュタインの怪物や捨てられた人形によく似ている。人間未満であることの哀しみたるや、人間を超えている。その哀しみは人間のものではない。
T:実は、菅実花が誘拐した人形は、リボーンドールらしいのですが。
H:流産や不妊によって子供を授かれなかった親たちの依り代。複雑ね。彼らにとってリボーンドールはモノではなく、紛れもない子供。けれども、くだんの人形遣いはこのヒトガタを、出産を経た子供とは考えなかったようね。持ち主にとっては子供だったでしょうけど、これを盗んだ菅実花にとってみればどれもまだ産まれていない。まだ産まれていないものにゴーストは宿っているのか。生きているといえるのかしら?
T:だから湿板写真?
H:19世紀のスピリチュアリズムと写真の関係。流体やエクトプラズムのように、肉眼には映らないけれども、写真には映ってしまう真実。写真というメディアは誕生直後から、〈写す〉ということを通じて、目には〈見えない〉ものを〈見える〉ようにしてきた。死霊、彷徨える魂、人間の守護霊、妖精、そしてそこに未だ産まれていないもののゴーストが加わる。流れる途中で濡れたまま凝固したこの湿板写真のマチエールは、意想外に動くもの、人形のゴーストを写しているように見える。感光版は光を屈折させ、鑑賞者の目に被写体を二重写しに見せる硝子。でもこの9つの硝子はそれぞれ、この世にひとつしか存在しない、かけがえのないアンブロタイプであることは見逃せない。あなたは意志を持って自分のかけがえのないゴーストを支配していると言える?
T:鏡は悟りの具ならず、迷いの具なり。見つめれば見つめるほど、生きているのか死んでいるのか、産まれる前の存在にゴーストはあるのか、ゴーストがあれば生きていることになるのか、わからなくなる。
H:《Sleeping Baby》。プロジェクションね。白いおべべを着て横たわった赤ん坊がスクリーンに大写しになっている。
T:「眠れる森の美女(Sleeping Beauty)」か。
H:人間もまた生命という夢を織り成す素材に過ぎない。夢も知覚も、いや、ゴーストさえも、均一なマトリクスに生じた裂け目や歪みなのだとしたら。
T:誰の言葉です?
H:さあ、わたしのゴーストが囁くのよ。
T:この赤ん坊は生きているんでしょうか、死んでいるんでしょうか?
H:100年のあいだずっと眠っていて、そのあいだなんの記憶もないのなら、それは死と何が違うのか。死者が100年後に復活を遂げるなら、その100年間は眠りではないのか。
T:と言いますと。
H:50秒か60秒周期。複数のデジタル写真をアニメーションさせて、その間にこのヒトガタは9回呼吸する。8分24秒のループ。つまり腹部、肩、手、首、髪、目や口や眉もほんの少しずつ動いている。人形遣いは、デジタル技術と手間を惜しまず、スティル写真のヒトガタに息を吹き込む。一度撮影して、少し動かし、また撮影する。きめ細やかにケアをする。これは引き延ばされた人工呼吸ね。見える人には動いて見える。見えない人には動かないように見える。どちらが正解でもない。でも、動いているからといって生きているとは限らないんじゃないかしら。風になびく草木を人と見間違えるようにね。
T:動いていると感じることと、生きていると感じることのあいだには一定の相関があるが、ふたつの現実は同じものではない。家で待っている女房や娘が本当に居るかどうか、いやそもそも自分は未だに独り者で、どっかの部屋で家族の夢を見ているんじゃないか。そんなところか。
H:魂に相当する語は、古代ギリシャならプシュケー、古代ローマならアニマ。「いのち」の語源は、息吹く、霊、息の力、諸説ある。呼吸の連続が生命を幻視させ、誰かの息が世界を満たしてくれる。あなたも誰かが吐いた息を吸っている。なんであれ、この息苦しい世界の息をヒトガタに吸わせてみる。瞬間的に捨てたり拾ったりできる命を産むのではなく、ふいごのなかで収縮する命をじっくり育ててみるということなんじゃないかしら。ただ1回につき1分弱もかかる深呼吸を、命の物証とするのは根拠薄弱ね。わたしやあなたのように、自分のゴーストの存在を信じている、という程度のこと。それでも人形遣いは、ヒトガタにゴーストを吹きこむ。写真に生命を吹きこむ、つまり「永遠の眠り」をアニメーションにする。
T:最大の懸案はホワイトキューブの中の《Pre-alive Photography》。おそらくは先ほどの手のひらサイズの湿板写真をデータ化して入力し、デジタル技術で引き延ばしてインクジェットプリンタで出力したものでしょう。サイズは224.8×162.8cm。このだだっ広い部屋の壁のうち、左右に3点ずつ、正面に5点、計11点掲示されている。どれも平均的な鑑賞者の目線からはやや上方にセットされている。これは先ほどお渡ししたデータ、《ラブドールは胎児の夢を見るか?》の展示の企図と似ているんじゃないかと思うんです。大きなものが自分より上に存在しているとやや威圧的に感じる。そのスケールと見下ろしてくる圧から、被写体のドールを所有できるという感覚は揺らぐ。人形は誰かに所有されて初めて生命を得る、というテーゼに照らせば、これは生命のない人形であるように見えて、しかし所有できる人形ではない。
H:おそらく人形遣いの意図としてはだいたいそんなところじゃないかしら。まずアンブロタイプは1点ものだというところが肝心ね。世界にひとつしかない硝子板。その稀少さは所有欲をかきたてる。それが技術によって複製される。本来、1点ものの美術作品がまとっている近寄りがたさ、所有を拒むアウラを、複製技術は破産させる。いくらでも手に入るし、所有できる。写真はそういう所有の欲望と相性がいい。いわば被写体を狙撃(shooting)して、殺して、永遠に所有する。それなのに、わざわざ1点もののアンブロタイプを、所有できないスケールに複製し展示するという点に、深刻な転倒があるように思わない?
T:おまけに被写体はリボーンドール。失われた子供の代替物である人形の写真が、所有できない、いや未だ誰にも所有されていないかたちで複製されている。
H:リボーンドールを映した9点のアンブロタイプが11点に殖えているのは気になるわね。
T:会場のスペースの問題ですかね……9点では正面の壁を埋めるには足りなかった。
H:それなら、アンブロタイプのほうも11点揃えれば解決する。いずれにしても、この部屋の写真のうちいくつかはアンブロタイプを複製したものだけど、反対にアンブロタイプのなかにしかないものもある。オリジナルを欠いていたり、オリジナルしか存在していなかったりする。
T:盗まれた人形は9点だけではない、ということか……
H:盗まれなかった人形の写真もある、ということかも……なにもない宙空に向けてシャッターを切ったら映ってしまうものもあるんじゃないかしら。そもそも人形遣いと人形の違いはあるのか。完全義体のわたしと電脳化にとどまっているあなたの違いがあやふやなように。
T:人形に見えたり、赤ん坊に見えたりする。おまけに動かない人形に見えたり、生きている人形に見えたりする。
H:即ち鏡は、瞥見す可きものなり、熟視す可きものにあらず。湿板写真の質感自体がエクトプラズムや流体のようね。スペクトル(spectrum)、スペクタクル(spectacle)、 幽霊(specter)は同語源だし、写真は降霊術。玩具や調度品、服が寵愛の証であり、見えない生命の痕跡として迫ってくる。けれども生命は本来、現在という時間にエンバーミングを施す、写真というメディアのなかでは死ぬはずのもの。ロラン・バルトが平坦な死、スーザン・ソンタグが柔らかな死と呼んだ写真。でもそもそも産まれていないものを生きているように見せる写真は写真なのか?
T:外見上は生きているように見える物が、本当に生きているのかどうかという疑惑。その逆に、生命のない事物がひょっとして生きているのではないかという疑惑。人形の不気味さはどこからくるのかと言えば、それは、人形が人間の雛形であり、つまり、人間自身に他ならないからだ。人間が、簡単な仕掛けと物質に還元されてしまうのではないかと言う恐怖。つまり、人間という現象は、本来、虚無に属しているのではないかという疑惑。
H:ときどきゴーストハックされることもある。あなたのゴーストもいま、人形遣いの写真にハックされている。
T:いや、電脳化以前からヒトはハックされる存在でしょう。陰謀、迷信、口車、洗脳。
H:死んでいない、産まれてもいない、産まれてくる前のゴーストを信じる?
T:宇宙霊魂(Anima mundi)のように、あるいは人類補完計画のように、母体に宿る以前、花鳥風月、万象、人間、機械、あらゆるものが融合している、ある種のハーモニーを織りなしているふるさとか。
H:産まれる以前の存在は生死を選べない。でも丸木夫妻の描かなかったお腹の中の子のように、誰かに思い出してもらう権利を手にできなかったものでも、こうすればいつか思い出になる。
T:それで検屍官殿のご判断は。
H:死んでいるか、生きているかはここでは問題では…う…そ…う…判断を宙…にして……どち…ないまだ産まれていない怪物をつくるのが人形遣い、菅実花の犯……でしょう。でも、まだ産まれたことのない、誰も見たことのない、怪物をつくる行為を罪に問える……でしょうか?
T:怪物、ですか。
H:わたしは逆らって生きてきました。人間という種に付された特権、男をモデルとした人間という虚構、与えられた性というスティグマ、一度分類してしまえばその分類基準が永遠に有効だという妄信にね。生物は生殖だけではなく、食や感染によって遺伝子を交雑させてきました。すべては垂直にも水平にも交ざる。生きとし生けるもの、純粋ということはありえません。わたしはその不純さを機械と有機体のハイブリッドであるサイボーグとして、次にお互いがひとつの肉を共有し学びあう伴侶種として提案してきました。……人間はなぜ、こうまでして自分の似姿をつくりたがるのかしらね……ヒトをほかの生物や機械とは異なる知的生命体として再生産し続けることができるという、つまらないおとぎ話の破壊。生きているものはすべて、生殖だけではなく、交雑と遺伝子の水平伝播を他の種とのあいだで繰り返しながら、予測不能の怪物を育成してきたのですよ。
T:あんた……
H:そのうえ生きているものはそれ単独で生きているわけではありません。生きているものはすべて怪物です。たとえば、ハチが一切いない場所にランが生き残っているとしましょう。ランに授粉をするハチは絶滅している。しかし、ハチはある種の思い出として残っている。なぜならランの花は、いまでもなおオスのハチを誘惑していた、魅惑それ自体を保っているからです。もちろん、ランの花はメスのハチそのものではありません。ランがつける花は、オスを誘惑するために、ランが独自に解釈したメスのハチのイデアなのです。人間から見れば、ランの花は全然ハチには似ていない。けれども、オスにはそれがメスに見える。ハチは絶滅していても、ランの花の擬態はまだ残っている。この擬態は、たとえハチが絶滅していても、互いの生が混ざっている、怪物として生き残っている証拠でしょう。
T:いったいなんの話をしているんです?
H:《原爆の図》は、メスのハチの魅惑をイデアとしてとどめたランのようなものでしょうね。でも「The Ghost in the Doll」展の写真は、死者を記憶しているわけではありません。むしろこの展示では、あの「幽霊」の母親が身ごもっていた、まだこの世に産まれていないはずの胎児が、死後写真という形式を介して、かつて生命のあった存在の思い出へと擬態しているのではないか、ということです。この写……生命がないはず……面影を感じる。生命未満のものが、かつて生命のあったものへと擬態するとき、生死や生物/非生物、魂の有無が揺らぐ。混じる。それは怪物になる。だから、まだ産まれていないPre-aliveな存在、赤ん坊として名づけられず、認知されていない存在を宿した義体に、わたしはゴーストを見る。そのとき、産まれることのできなかったなにかは、いのちあるものの擬態として、菅実花の写真に宿る。わたしのゴーストがそう囁くのよ。まだ産まれていないにもかかわらず、それは思い出になる。菅実花とその写真を見るわたしのゴーストの囁きとのあいだに怪物的な共同正犯が成立する。奇跡のようにね。
T:写真というメディアは誕生直後から、〈写す〉ということを通じて、目には〈見えない〉ものを〈見える〉ようにしてきた。
H:自分のゴーストと人形遣いのあいだに共犯関係が成立するかどうかは、ゴーストの存在を信じているかどうかにかかっている。でもその関係は揺らぐ。生きているか死んでいるかのあわい。このあわいにある揺らぎ、ゴーストの囁きの場を開いているのがこの「The Ghost in the Doll」展なのでしょうね。《原爆の図》だってそうでしょう。はじめて絵が発表された占領下の時代から、現在、そして未来にいたるまで、わたしたちの「生」を照らし続ける。絵は変わらない。でもそれを見る者の生はずっと揺らいできたし、これからも……
T:どうもご協力に感謝します。
H:まだ産まれていない存在はイノセントでしょう? 有罪でも無罪でもない、そもそも善悪が存在しない、そして生死の別さえ存在しないアダムとイヴのイノセンスの世界。これは命を得たイノセントな存在たちの思い出。だから鑑識の立場から言うことではないことだけど、これは既存の罪には問えないのではないかしら。罪つくりではあるけれど。
T:ああ、メイキング映像が展示してある小高文庫に向かう前に、不躾な質問で恐縮なんですが……
H:わたしは子供を産んだことはないし育てたこともないけれど、生物・非生物の区別なくすべてを次世代として育成する仕事をしてきた。ちなみに卵子バンクには登録していない。
T:どうも有難う。ミス……
H:ハラウェイ。ミスもミセスも要らない。
[引用・参考資料]
・Dery, Mark. “Ghost Babies.” https://boingboing.net/2011/03/25/ghost-babies.html
・Haraway, Donna J. Staying with the Trouble: Making Kin in the Chthulucene. Duke UP, 2016.
・xkcd. “Bee Orchid” https://imgs.xkcd.com/comics/bee_orchid.png
・安藤麻矢「まるで本物の赤ちゃん人形「リボーンドール」、必要とする人々の切実な事情」 https://newsphere.jp/national/20180712-2/
・「命」語源由来辞典 http://gogen-allguide.com/i/inochi.html
・岡村幸宜 『《原爆の図》全国巡回 占領下、100万人が見た!』 (2015、新宿書房
・押井守監督『イノセンス』(2004)
・---. 『GHOST IN THE SHELL / 攻殻機動隊』(1995)
・菅実花HP http://mikakan.com/
・菅実花Instagram https://www.instagram.com/387mika_kan/
・菅実花2019年7月4日18:10のツイート
https://twitter.com/387mika/status/1146707899554697216?s=20
・菅実花 個展「The Ghost in the Doll」
http://theghostinthedoll.mystrikingly.com/
・原爆の図丸木美術館HP http://www.aya.or.jp/~marukimsn/
・逆卷しとね 「喰らって喰らわれて消化不良のままの「わたしたち」――ダナ・ハラウェイと共生の思想」『たぐい』vol. 1(2019、亜紀書房)、55-67頁
・櫻井圭記+瀬名秀明 「オリジナルとコピーのはざまで─ゴーストが宿る場所─」http://sci.digitalmuseum.jp/project/gis/mayfes/
・澤村徹「甦る古典撮影技法 湿板写真館がオープン」
https://camerafan.jp/cc.php?i=351
・志賀信夫「非生命との境界から探る生と死の境界――菅実花とリボーンドール」『人形たちの哀歌』トーキングヘッズ叢書No. 79(2019、書苑新社)、69-73頁
田村和彦「ハンナ・ヘーヒの庭」『理』45 (2016) 、10-13頁
http://www.kgup.jp/files/ko_web_45.pdf
・「天使のリボーンドール」 http://www.reborn-doll.net/
・浜野志保 『写真のボーダーランド X線・心霊写真・念写』 (2015、青弓社)
・ダナ・ハラウェイ『猿と女とサイボーグ 自然の再発明』新装版(2017、青土社)
・藤木直実「迂回路を通って「死を思う」ということ」 丸木美術館ニュース2019年7月15日、7頁 http://theghostinthedoll.mystrikingly.com/#gallery_4-4
・リュック・ボルタンスキー『胎児の条件 生むことと中絶の社会学』(2018、法政大学出版局)
・丸木位里+赤松俊子 「八月六日」(後原爆の図 第1部「幽霊」)日本美術会「日本美術会のあゆみ2 反動攻勢のなかで 1950年~1956年」
http://www.nihonbijyutukai.com/nichibi/ayumi/ayumi3/
・安友志乃「人々の歩み アンブロタイプのはじまり 第四章 アンブロ期 ①」http://shuffle.genkosha.com/special/studies/people/7725.html
・山崎明子+藤木直実編著 『〈妊婦〉アート論 孕む身体を奪取する』(2018、青弓社)