哲学者によるオーディオ・エッセイに見る「怪奇」の概念 仲山ひふみ評 マーク・フィッシャー&ジャスティン・バートン 『消滅する大地について』
加速主義の哲学者・批評家、マーク・フィッシャーが、哲学者のジャスティン・バートンとともに晩年に取り組んだ、テクスト読み上げと音響コラージュによる作品『消滅する大地について』。この夏、レーベル「Hyperdub」より発売された本作を、若手批評家の仲山ひふみが論じる。
マーク・フィッシャーの思弁的リスニング
静かに緩やかにグリッサンドで上昇していく合唱隊風のシンセサイザーの音色。ギターや口笛の単音がそこに重ねられ、曖昧で牧歌的なハーモニーが生じるとともにひとつの音響的な風景が開けてゆく。「それは4月、しかし夏のような暑さの日」という一文から始まるマーク・フィッシャーあるいはジャスティン・バートンの朗読は、落ち着いたユーモア、わずかな翳りを帯びたその声のトーンで、途中何度かの沈黙を挟みつつも最後まで続けられる。「明るい陽射しのなか、彼らは海沿いの道へと左折する。低い、傾いた崖の脇を進んでいく──北側の消失点にはおそらくヴィクトリア朝風のホテルか学校らしき建物が、木々の塊と小さな建物の集まりから突き出して陽光のうちに広がっている。右手には海が、そして速やかに下っていく浜辺が見える。フェリックストウの海岸通りがそこで終わりになる、地図上ではコボルズ・ポイントと表示された小さな岩がちの岬のほうに向かって、彼らはいま歩いているところだ。水平線はコンテナ船の巨大な矩形によって砕かれている」。
「彼らは」とみずからを三人称複数で指示し、現在の時制で語られるこの物語には初めからどこか、死者の視点で生者の世界を眺めているような不安定な印象が付きまとっている。語られるのは、イングランド東部サフォーク州の沿岸部、巨大なコンテナ港をもつフェリックストウから中世初期のアングロサクソンの遺跡であるサットン・フーまでの道のりを上記ふたりが歩いた、とある日の現実的な記録であるが、いっぽうでそれに付随して、この土地をめぐるより想像的な記憶、例えばデーベン川河口の元レーダー基地バウジー・マナーに関する語りや、M・R・ジェイムズの怪奇短編小説「笛吹かば現れん」(1904)とそのテレビドラマへの翻案、またジョン・リンジーの小説『ピクニック・アット・ハンギングロック』(1967)についての言及、ブライアン・イーノのアルバム『オン・ランド』(1982)との連想的なつながりなどが召喚され、当初の散歩の語りに重ね合わされてゆくことになるのである。
「消滅する大地について」と題されたこの奇妙な「オーディオ・エッセイ」は、2013年2月にロンドンのギャラリーShowroomで開かれた同名の展覧会にて、フィッシャーとその友人の哲学者ジャスティン・バートンの共作として発表された(*1)。ふたりはすでに数年前に『ロンドンアンダーロンドン(londonunderlondon)』(2005)と題された似た趣向の音響作品でコラボレーションを果たしていたが、言語的な語りの力や歴史的地理的コンテクストの参照だけでなく電子音楽的な素材のコラージュによって鑑賞者の想像力への介入を行うという点では、同展覧会のキュレーターを務めたオトリス・グループ(The Otolith Group)のコドゥウォ・エシュンによる「ソニック・フィクション」の概念もその作風に影響を及ぼしていたのかもしれない。エシュンが言うように、このエッセイには「侵入」(incursion)のテーマが繰り返し現れており(レーダー防衛や堤防)、またフィッシャーが晩年の著作で問うた「ぞっとするもの」(the Eerie)の概念がその全体で取り扱われていることは明らかだ。外部からの「侵入」はホラーの基本的モチーフであるが、『消滅する大地について』においては「侵入」は現実のなかだけでなく、虚構から現実への、土地と音(楽)を介した侵食というかたちでも起きていることになるのだろうか。ドゥルーズが言う「強度において旅すること」の、あるダークなヴァリアントがそこでは実験されているのだとも言えるかもしれない。
作品としての『消滅する大地について』は、その後『ロンドンアンダーロンドン』とともに幾度か上演される機会をもったようだが音声データとして流通することはなく、周知のとおり2017年1月には名声の絶頂にあったフィッシャーがみずから命を絶ってしまう。だからつい最近まで、それはいわゆる幻の作品だった──と言いたいところだが、朗読されるテクストに関してはそれを収録した論集がフィッシャーの友人ロビン・マッカイが運営する出版社アーバノミックから2015年にすでに出ている(*2)。その後、2019年7月にロンドンの電子音楽レーベルであるハイパーダブ(のサブレーベルとして新たに立ち上げられた「フラットラインズ」──なおこの単語は心電図が完全な直線になってしまった状態、つまり個体の生物学的な死の身も蓋もない静止性をも意味するものであり、フィッシャーの博士論文のタイトルにも含まれている鍵語だ)からレコードおよびデジタル音源として発売されたことで、私を含めた一般のリスナーはようやくこの作品の音楽素材の部分も含めた全貌を知ることになったわけである。朗読とインタビューの音声素材に時折かけられる変調が、全体のダークな印象を強めつつ語りのレイヤーと音楽のレイヤーを有機的に統合しえているのに加え、ジョン・フォックスのようなシンセミュージックの大御所から、ガゼル・ツインやレイムといった(当時の)新進気鋭のクラブミュージック系アーティストまでが参加したこの音源は、純粋に音楽作品としても高い喚起力とテクスチャの複雑さを備えた佳品となっている。
ところで『ロンドンアンダーロンドン』(2005)がロンドンという資本主義の中心地をメディウムとして選ぶことで、いわば資本それ自体の精神地理分析の試みといった内容をもち、したがって『資本主義リアリズム』との結びつきが強かったとすれば、『消滅する大地について』は未邦訳の『怪奇なものとぞっとするもの(The Weird and the Eerie)』との結びつきをより強く見せていると言えそうだ。実際、同書にはまさしく「消滅する大地について──M・R・ジェイムズとイーノ」と題された章が収められてもいる(*3)。「怪奇なもの(ウィアード)」の概念については近年、思弁的実在論のグレアム・ハーマンをはじめとして哲学の側からの注目が高まっていることが知られているが、晩年のフィッシャーは「ぞっとするもの(イーリー)」という言葉によって、さらに何か別の、より精妙なホラー的カテゴリーを掘り当てようとしていたらしい。フィッシャーいわく「〔…〕ウィアードはある現前によって、何にも属さないものの現前によって構成される」のだが、「イーリーは反対に、不在であり損ねることあるいは現前し損ねることによって構成される。イーリーの感覚は何もないはずのところに何かがあるか、何かがあるはずのところに何もないときに生じる」(Fisher 2016, p. 61)。ウィアードがラヴクラフト的怪物譚に対応するとすれば、イーリーはM・R・ジェイムズ的幽霊譚、ジャック・デリダによって「憑在論」と名指されたもののよりホラー的で、実在論的な展開に相当するものを含んでいると言えるのではないか。「〔…〕イーリーはウィアードの本質的特徴ではない思弁やサスペンスの諸形式を必然的に伴う」(ibid, p. 62)。つまりイーリーはある種の推理もの的構造を必要とするのだ。もちろん打ち捨てられた建物、不自然なまでに何もない風景といったものも、そうした「ぞっとする」感情の実在的緊張によって貫かれた推理の時間を提供してくれるはずである。
『消滅する大地について』の聴取経験は、土地そのものが廃墟へと変貌していくより大きなスケールの自然史的時間について思弁するよう、リスナーに促す。自然史的時間は文化史的時間を、怪奇なものは「不気味なもの」を包摂する。現前と不在があべこべになってしまった、どこかの街、建物、道、海岸線などとの出会いは、イーリーな思弁のための非−人間的な(すなわち人間の範囲を少しだけ踏み越えた)想像力を要求するだろう。ブライアン・イーノの創始したアンビエントミュージックの聴覚的浸透力が、小説や映画などの物語的想像力によって覆われた土地(そのような想像力の侵食を受けた風景は、日本の文脈ではアニメ文化における「聖地巡礼」の対象として言及されることが多い)の知覚様態に深く関わることについての示唆など、『消滅する大地について』周辺のフィッシャーらの仕事にはより踏み込んで考えてみるべき論点がまだいくつも潜んでいるが、それらについてはまたいつか別の機会に取り上げることにしたい。一度の聴取ですべてを聴く=理解する必要はないのである。フィッシャーとバートンが試みた歩行しつつの思弁の表現も、そのような意図された散漫さ、人間的思考の余白を目指したものだったとすれば、なおさらだ。
B面の6’03”あたりで「イーリーは沈黙、空虚、間隙への、未知なるものの侵入である」という哲学的定式化の言葉らしきものが聞こえてくる。「空虚は真昼の日差しのなかでの荒野の広がりでもありうるし、夜中の街中の放棄された不動産でもありうる」、そして「未知のものは不可知なものでもありうるし〔…〕可知なる未知なものでもありうる」と。不可知でも可知でもありうるようなものとは、少なくとも不可知であると知ることさえできないという意味で高次の不可知性を表現していると受け止めてよい。イーリー、それは一見したところ怖いものであることも怖くないものであることもできるものなのだ。だからこそ、それはただの怖いもの、つまり怖いということがあらかじめわかっているものが与える怖さとは異なった種類の怖さなのである。思弁的怖さ。この定式化の言葉が読まれる箇所での、合唱隊風のシンセの音響はまさしく、怖いとも怖くないとも言えないようなものになっているではないか。それを検知するためには、聴かねばならない──ただ聴くというのがどれほど恐ろしいことだとしても。『消滅する大地について』の朗読は次の言葉とともに終わる。「レーダーよ、未知のものに数クリック、送れ。/そして返ってくるものを見よ」。レーダーは電波を、波を「見」る、つまり聴く。轟く低い金管の音色、アリア風の断片、金属製のワイヤーが衝突しあうようなノイズ、変調された「そして返ってくるものを見よ(See what comes back)」の響きの反復。それらが海のように溶け合い、深い、夢見る音たちの海底へと沈んでいく……。
*1──Mark Fisher, The Weird and the Eerie, London: Repeater Books, 2016, pp. 76-81.
*2──Justin Barton and Mark Fisher, “On Vanishing Land”, in Robin Mackay (ed.), When Site Lost the Plot, Falmouth: Urbanoic, 2015, pp. 271-280.
*3──初出年については2012年というものもあるが、それはコミッションが開始された年と取り違えたものだろう(https://www.theshowroom.org/exhibitions/mark-fisher-and-justin-barton-on-vanishing-land 最終アクセス:2019年8月27日)。また語りの中心となる「散歩」がいつ行われたのかについては、2006年と2005年というふたつの情報があり確定しきれなかったが、いずれにせよ『ロンドンアンダーロンドン』(2005)発表の前後に実行されたと見て間違いないだろう。