「過去」との絶え間ない対話のために:《平和の少女像》をめぐって
あいちトリエンナーレ2019内の一企画だった「表現の不自由展・その後」。そのなかで展示されたキム・ウンソン&キム・ソギョンによる《平和の少女像》は、同展展示中止へと発展するきっかけのひとつとなった。大きな分断を可視化させたとも言えるこの作品について、小田原のどかが日韓関係を振り返りながら考察する。
「真の謝罪」とは何か
日韓関係におけるいわゆる「慰安婦」問題の解決には、100年近い時間が必要だといわれることがある。ここでの「100年」とは一体何を指しているのか。それは時間が解決してくれる、時間こそが怨恨の念を溶かす、というような消極的態度ではないだろう。ここにあるのは、被害を訴え出た方々が「全員死ぬのを待つ」という積極的態度ではないか。そうであれば戦後75年を迎えたいま、問題解決のための時間はもうわずかも残されてはいない。
とはいえこの問題の解決については、「女性のためのアジア平和国民基金」(以下、アジア女性基金)の「挫折」に鑑みて、「いつまで謝罪をすればいいのか」という戸惑いや怒りの声が根強くある。しかしそもそも、「真の謝罪・償い」とはどのようなものだろうか。
被害者が望む解決で重要な要素となる謝罪は、誰がどのような加害行為をおこなったのかを加害国が正しく認識し、その責任を認め、それを曖昧さのない明確な表現で国内的にも、国際的にも表明し、その謝罪が真摯なものであると信じられる後続措置が伴って初めて、真の謝罪として被害者たちに受け入れられることができる。
これは2015年開催の「第12回日本軍『慰安婦』問題アジア連帯会議」において決議された日本政府への提言文の一部である。この提言には、これまでの日本政府による謝罪は「真の謝罪」には当たらないということが示されている。では、なぜ「真の謝罪」はいまだ実現していないのか。日本政府から発された「謝罪」の主要なものを振り返ることから始めよう。
1993年 慰安婦関係調査結果発表に関する河野内閣官房長官談話 本件は、当時の軍の関与の下に、多数の女性の名誉と尊厳を深く傷つけた問題である。政府は、この機会に、改めて、その出身地のいかんを問わず、いわゆる従軍慰安婦として数多の苦痛を経験され、心身にわたり癒しがたい傷を負われたすべての方々に対し心からお詫びと反省の気持ちを申し上げる。
1995年 村山内閣総理大臣談話 植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えました。私は、未来に誤ち無からしめんとするが故に、疑うべくもないこの歴史の事実を謙虚に受け止め、ここにあらためて痛切な反省の意を表し、心からのお詫びの気持ちを表明いたします。
1998年 日韓共同宣言 小渕総理大臣は、今世紀の日韓両国関係を回顧し、我が国が過去の一時期韓国国民に対し植民地支配により多大の損害と苦痛を与えたという歴史的事実を謙虚に受けとめ、これに対し、痛切な反省と心からのお詫びを述べた。
2015年 日韓合意 慰安婦問題は、当時の軍の関与の下に、多数の女性の名誉と尊厳を深く傷つけた問題であり、かかる観点から、日本政府は責任を痛感している。安倍内閣総理大臣は、日本国の内閣総理大臣として改めて、慰安婦として数多の苦痛を経験され、心身にわたり癒しがたい傷を負われた全ての方々に対し、心からおわびと反省の気持ちを表明する。
日本政府はこのように、「お詫び」や「反省」を繰り返し表明してきた。加えて、村山内閣以降、橋下内閣、小渕内閣、森内閣、小泉内閣、第一次安倍内閣、福田康夫内閣、麻生内閣、鳩山由紀夫内閣、野田内閣、第二次安倍内閣まで、河野談話の踏襲が明言されている(ただし、第一次安倍内閣では「(談話を)変更するものではない」という表現である)。
しかし現在においても日本政府は、1965年に日本国と大韓民国のあいだで締結された「財産及び請求権に関する問題の解決並びに経済協力に関する日本国と大韓民国との間の協定」(以下、日韓請求権協定)第二条1項の、日韓両国間の請求権問題が「完全に、かつ最終的に解決されたことを確認する」ことを原則として、個人請求権も含めたあらゆる補償問題は法的に解決済みだという立場を堅持している。
日本政府による被害者への見舞金支払いのための基金設立は宮沢政権期より検討されていたが、村山政権下でアジア女性基金による償い金事業として現実のものとなった。しかし、日韓請求権協定に記された「完全かつ最終的に解決」という原則のもと、日本政府による賠償や国家補償はできないという制約があった。そのためアジア女性基金は、国家賠償ではなく「道義的補償」として被害者への個人補償を行うことになり、基金の運営や事務経費は国庫負担、基金自体は国民からの寄付によるという「半官半民」のセミ・オフィシャルな機関として設立された。
そして民間からの寄付金5億6500万円をもとに、285人の台湾、韓国、フィリピンの被害者たちに「償い金」をいう表現で個人補償が行われた。また、97人のオランダの被害者には医療福祉支援費が支払われた。これはオランダ政府が請求権についてはサンフランシスコ講和条約で解決済みとして法的補償を求めなかったからである。インドネシアでは政府がプライバシー保護の観点から個人への償いを拒否したために被害者が入所できる高齢者福祉施設の建設が合意された。そして個人補償事業として、軍の関与のもとに女性の名誉と尊厳を傷つけたことに対してのお詫びと反省が明記された首相個人が署名入りの手紙が届けられた。
しかしこの償い事業には韓国から強い反発が起こる。当時の金泳三政権は、当初アジア女性基金を評価していたものの、支援運動団体が半官半民ではなく日本政府が公式に法的責任を認めたうえでの謝罪と補償と責任者の処罰を求めたこと、また被害者からも反発があったことにより、否定的評価に転じることになった。これにより基金を受け取った被害者7名は韓国国内で強いバッシングにさらされることになった。
アジア女性基金は2007年に解散に至る。ともに基金の立ち上げに深く関わった歴史学者の和田春樹と国際法学者の大沼保昭はそれぞれにアジア女性基金を次のように振り返っている。
和田はフィリピンとオランダでは成功を収めたとしつつ、いっぽうで韓国、台湾では「アジア女性基金は、(…)目的を達成することができず、国民的和解に貢献できませんでした」と振り返り、基金への批判を理解しつつ、「事業を受け止めて、心の安らぎをえた被害者がいることを無視して、アジア女性基金を否定することは正しいことではありません」と述べている(『慰安婦問題の解決のために』平凡社新書、2015)。
大沼は「『慰安婦』制度の犠牲者への償いという、日本政府と国民が果たすべき責任を果たしてきた。そのことは正当に評価されなければならない」と強調しつつ、「基金は発足以来、多くの過ちを犯した」と「失敗の要素はあった」とするが、「失敗は将来の成功の糧になるはずであり、糧にすることが失敗した者の責務」だと述べている(『「慰安婦」問題とは何だったのか』中公新書、2007)。
2015年の日韓合意では、アジア女性基金をふまえ、「日本政府は、これまでも本問題に真摯に取り組んできた」ことを示し、「日韓両政府が協力し、全ての元慰安婦の方々の名誉と尊厳の回復、心の傷の癒やしのための事業を行う」ことをもって、「この問題が最終的かつ不可逆的に解決」されたことが確認された。
そしてこのとき韓国政府からは「韓国政府は、日本政府が在韓国日本大使館前の少女像に対し、公館の安寧・威厳の維持の観点から懸念していることを認知し、韓国政府としても、可能な対応方向について関連団体との協議を行う等を通じて、適切に解決されるよう努力する」と表明されている。
ここで言及されている「在韓国日本大使館前の少女像」の同一型の着彩タイプが、昨年開催された「あいちトリエンナーレ2019」の一企画である「表現の不自由展・その後」に出品された《平和の少女像》である。作者はともにキム・ウンソン、キム・ソギョンだ。昨年この彫刻はより多くの話題を集め、深刻な世論の分断を可視化した。
国際政治学者の熊谷奈緒子は、韓国国外で相次ぐ像の設置について、「和解とは加害者と被害者との間の平和的な関係の構築であり、その関係においてはもはや傷つけることも責め合うこともなく、将来同様の被害がないであろうとの期待のもとに信頼関係を結ぶことである」と和解の定義を確認したうえで、「少女像設置の動きは日本への圧力にこそなれ、日本との真の和解をもたらすとはいえない」と述べている(『慰安婦問題』ちくま新書、2014)。
じつのところ、筆者も熊谷とほとんど同じ意見である。しかしこの彫刻が、河村たかし名古屋市長が言うところの「日本人の心を踏みにじるようなもの」とはまったく思わない。この彫刻が世界中に普及した背景にあるものを、私たちは受けとめる必要がある。それはすなわち、過去の植民地支配を真摯に反省するということにほかならない。
むろん、大日本帝国と現在の日本国は異なる理念・価値観を持つ国である。これは国際社会にとっての自明の前提であり、日本に暮らす多くの人々の実感としてもそうである。なればこそ、日本政府が歴史修正主義に与することや、美術に携わる者がかの戦争について「しょうがなかった」という価値観を吐露することは、歴史観の後退というだけにはとどまらない。これはすなわち大日本帝国の植民地支配を肯定し、擁護することに等しい。
また、韓国の支援運動団体や被害者が、アジア女性基金や日韓合意が「真の謝罪」に当たらないと理解していること、またあいちトリエンナーレにおいて《平和の少女像》の展示を望んだ人々が、お仕着せの「和解」ではなく「真の謝罪」をという「圧力」をこそ求めていたということも承知しているつもりだ。
そして「少女像設置の動きは日本への圧力にこそなれ、日本との真の和解をもたらすとはいえない」と考える際に、この彫刻の設置は韓国政府が主導しているものではないということは、何度強調しても足りないことはないと考える。
在韓国日本大使館前に少女像が設置されたのは、「日本軍性奴隷制問題解決のための正義記憶連帯(旧称・韓国挺身隊問題対策協議会)」が日本政府に対して謝罪と賠償を求めるため毎週水曜日に行っているデモの開催1000回目を記念してのことだった。ここであらためて確認しておきたいのは、この団体は民間の支援運動団体であり、そしてまた、被害者ご本人たちが組織しているわけではないということである。
2015年の日韓合意では「日本政府は、韓国政府と共に、今後、国連等国際社会において、本問題[※筆者注:慰安婦問題]について互いに非難・批判することは控える」と明記されたが、これは市民運動や本件に関わる学術研究を禁止するものではない。つまり民間の運動団体が主導する像の設置もまた、基本的には政府間合意の枠外ということになる(ただし、日韓合意に照らせば「韓国日本大使館前の少女像以外の」となる)。
しかしながら、支援運動団体がいかに世論や韓国政府を動かしてきたかは刮目に値する。1992年1月から毎週開催されているこのデモ活動は、明確に韓国政府の風向きを変えた。それまで韓国政府は、日韓請求権協定に基づき植民地支配をめぐる問題は解決済みであると日本政府と立場を同じくしていたが、運動や世論に押されたことにより、従軍慰安婦問題を外交案件として俎上に載せざるをえなくなった。
しかし、木村幹が「四つのハードル」として指摘するように、韓国が日本政府に直接補償を求めるには、従軍慰安婦問題の法的構造が立ちはだかり、実現が非常に困難であった(木村幹『日韓歴史認識問題とは何か』ミネルヴァ書房、2014)。これにより、外交案件としての本問題は「空白期」に入る。
ブレイクスルーとなったのは、2011年8月、日韓請求権協定をめぐって両国のあいだで紛争があるにもかかわらず、韓国政府が具体的解決のために努力していないことは、被害者らの基本権を侵害する違憲行為であるとする違憲判決が韓国憲法裁判所から下ったことだ。ここで違憲判決を勝ち取ったことも、運動の大きな成果のひとつであろう。この判決により、韓国政府は日本政府に対して慰安婦問題を取り上げる義務を負うことになった。
そしてこれを後押しするように、同年2011年12月から《平和の少女像》の設置がはじまる。日本政府に謝罪と補償を求める民間主導の運動として、米国やアジア地域にも設置が相次いでいる。
《平和の少女像》をいかに論じるか
前置きが長くなってしまった。本稿は《平和の少女像》を論ずるものである。ここまでかの彫刻の設置背景に光を当てたのは、公共空間の彫刻を語るうえで、その設置経緯は決してなおざりにできないと考えるからだ。どういうことか。
主義や思想の宣伝と無縁の公共彫刻は存在しえない。ある彫刻が存在することと、その彫刻がどのような背景からその場に置かれるかは、別の問題系にある。だからこそ、彫刻それ自体と、その彫刻がどのような背景から設置されるかは論じ分けられる必要がある。
昨年、あいちトリエンナーレをめぐる騒動のなかでは、《平和の少女像》はプロパガンダであり芸術作品ではないといった声も聞かれたが、これは彫刻における「論じ分け」がなされていないゆえの意見であると思われる。また、プロパガンダである/ないということを彫刻の価値基準とすることに筆者には違和がある。ポリティカルな彫刻とノンポリティカルな彫刻があり、ノンポリティカルな彫刻のほうが芸術的価値が高いということだろうか。これについては、はたしてある彫刻に対して、そのような判断を根拠に価値付けができるのかと問い返す必要があるだろう。
あるいは、人々を扇動する道具立てとしての美術作品は価値が低いという主張は、その美術作品が存在する時間をあまりに短く見積もっているのではないだろうか。これは例えば「社会主義リアリズム」としてくくられる表現に対する、オリジナリティの欠如を根拠にした価値付けにも言える。ここでのオリジナリティがどのような価値規準から規定されるのかをこそ省みたい。
とはいえこれは、ある「教義」のもと政策として推し進められた芸術形式について、その排他性を肯定し、そこで抑圧された表現やアーティストたちをなき者としていいということではもちろんない。とくに公共空間の彫刻は、その彫刻がこの世に留まる時間と、それを見るわれわれの時間は位相を異にする。彫刻を軸に社会の変化を見れば、「私たち」がどれほどたやすく変化してしまうかがよくわかる。繰り返し引き倒される世界中の独裁者の彫像や、国内であれば、御所への礼拝の身振りを表す京都の三条大橋にある「高山彦九郎像」が、いまでは「土下座像」と呼ばれていることがその証左である。
さて、《平和の少女像》設置の背景はすでに書いたとおりだ。いっぽう彫刻制作はどのような経緯によるものだったのか。最初のきっかけは、2011年5月、キム・ウンソンが挺対協を訪ね、同団体の代表から水曜デモ1000回を称える記念碑建立のアイデアを知り、デザインの手伝いを申し出たことによる。当初団体が構想していたのは石碑だったそうだが、他の碑と差別化し「もう少し人々の関心を呼び起こせるように」と提案したことにより、少女の造形になったという。
キム・ウンソン、キム・ソギョンはこの彫刻の制作に深く関わった理由について、「二〇年前、ハルモニたちが『私は日本軍慰安婦だった』と明らかにしたその当時から、何かしなければならないと私たち夫婦は考えていました。なぜなら、日本軍の蛮行について幼い時から聞いており、大学に通った時期からこのような社会参与的な美術表現を少しずつやってきたから」と話す(*1)。
とはいえ、作者らは「被害者像」だけをつくっているわけではない。その一例がベトナム戦争時の韓国人による加害行為への悔恨を込めた《ベトナム・ピエタ》であろう。韓国軍がベトナム戦争時に行った民間人虐殺という加害の検証作業とベトナムへの謝罪において、退役軍人からの反発などの困難があったことが知られている(韓洪九著、高崎宗司監訳『韓洪九の韓国現代史2──負の歴史から何を学ぶのか』平凡社、2005)。
しかしやはり、自国の加害行為を悔い改める彫刻に、キリスト教のモチーフである「ピエタ」が使われていることについては、大きな問題があるという論点は示しておきたい。これについては、90年代前半のドイツにおいて、加害者のモニュメントとしての「ピエタ」がどのような論争を引き起こしたのかと接続されるべきであろう(*2)。
ところで、作者らが言う「社会参与的な美術表現」とは、韓国においては民主化運動を支えた「民衆美術(ミンジュン・アート)」と根を同じくするものだ。朝鮮美術文化研究者の古川美佳は「民衆美術は、日本の植民地からの解放後、(…)血を流しながら民主主義をかちとろうとした時代の表象である」と定義し、「80 年代を席捲した民衆美術は、その表現によって独裁政権を倒し、民主化をもたらす大きな力となって、社会を変革させることに貢献した」と唱える(古川美佳『韓国の民衆美術』岩波書店、2018)。《平和の少女像》は民衆美術の系譜にあるが、民衆美術が位置づけられる韓国近代美術史が「反植民地主義史観に基づく内在的発展論や抵抗民族主義に拘束されて」きたことに光を当て、近代国民国家を形成するなかで韓国近代美術史がいかに「民族性や伝統性へと内面化され、主体化されたのか」についての検証作業が始まっていることにも着目したい(洪善杓著、稲葉真以+米津篤八訳『韓国近代美術史──甲午改革から1950年代まで』東京大学出版会、2019)。そして仏教弾圧が苛烈であった韓国において、彫刻が必要とされてきた歴史は日本とパラレルではない。だからこそ、それらを比較検討する作業が必要だ。
また《平和の少女像》が世界各国に設置されている状況を、ロザリンド・E・クラウスによる「展開された場における彫刻」という論点から、ロダンと《考える人》に見られる拡散と同列に論じる向きもある。しかしロダンの《考える人》が母胎たる《地獄の門》から切り離され、当初の文脈から離脱したという点で、状況が大きく異なることはふまえておきたい。加えてロダンの彫刻に対する「熱狂」への要請と、《平和の少女像》が各地に設置されている背景にある「運動」は同列に扱えるものではない。これについても、そのような差異をこそ論じられるべきだろう。
この少女像の造形の細部にわたる意味性についてはすでに作者による細かな解説が存在するが、少女と鳥を軸にした図像学的分析を岡﨑乾二郎が行っている(*3)。また筆者が林道郎、松浦寿夫と公開討議を行ったなかで、両者から《平和の少女像》と古代エジプトの夫妻・家族立像にみられるジェンダー表象との連続性も示唆されたことも記しておきたい。
《平和の少女像》については、その造形が10代前半とおぼしき少女であることで、被害者の女性たちの実年齢との乖離が指摘されることがある。確かに性暴力被害を少女性に接続することには注意が必要である。とはいえ、この彫刻は特定の個人をかたどっているのではい。この彫刻の造形は、ある時代と自由を奪われたという訴えの具現化なのだということを理解すべきだ。
従軍慰安婦という構造は、天皇制国家である日本の家父長制下における性差別と民族差別を背景につくりだされている。そこでは、鈴木裕子が指摘するように、過去の日本の女性運動における売春婦蔑視の心性、そしてそこに根ざす加害国の女性としての加害者性の欠如も意識されるべきであろう(鈴木裕子「シンポジウム報告 女性・戦争・人権をめぐって」『女性・戦争・人権』創刊号、三一書房、1998)。
請求権協定が結ばれた1965年当時、韓国は非民主的な政体にあり、このため協定が国民に説明されることはなく、被害者が声を上げることも困難な状況にあった。韓国国内での女性運動は民主化とともに興る(李鍾元、木宮正史、磯崎典世、浅羽祐樹『戦後日韓関係史』有斐閣アルマ、2017)。
それまでの韓国社会では慰安婦問題はほとんどタブー視されており、家族の名を汚したといわれなき非難の対象となることを恐れ被害の公言はとてもできないという状況にあった(山下愛英『ナショナリズムの狭間から──「慰安婦」問題へのもう一つの視座』明石書店、2008)。そのような流れのなかで、1991年8月、金学順(キム・ハクスン)氏は日本軍の元慰安婦だったとして実名で名乗り出た。
そのようななか、女性の人権に関わる動向は、90年代に国際的に躍進した。93年にウィーンで開催された「世界人権会議」での「女性に対する暴力は人権侵害である」という決議が同年国連総会で採択された「女性に対する暴力の撤廃に関する宣言」へと結実した。2000年には女性国際戦犯法廷が開催されている。
キム氏が公開証言をした8月14日は、2012年から「世界慰安婦の日」として民間が主導する記念活動が行われてきたが、2018年からは韓国政府が定める「日本軍慰安婦被害者をたたえる国家記念日」となった。このようなメモリアルデーの制定もまた、彫刻設置を通じた運動の成果であるといえるだろう。
女性学者の山下愛英は『ナショナリズムの狭間から』において、本問題に関わる韓国の運動に見られた民族主義的アプローチがいかに女性差別的な視点を温存してきたかを明らかにしている。山下はそのようなアプローチを戦略として取らざるをえない必然性にもふれたうえで、ナショナリズムにからめとられず、女性に対する抑圧としてこの問題を再認識する必要を説いている。支援運動団体「挺対協」の設立に主体的に関わった著者だからこその深い洞察に根ざれた批判は真に迫るものがある(*4)。
韓国において支援運動団体が果たした役割を評価しつつ、被害当事者が組織しているのではない支援運動団体が「謝罪」の定義をハンドリングし、あまつさえ償い金を受け取った被害者へのバッシングに加担した側面があることを、筆者からの「運動」への懐疑としてここに併記しておきたい(*5)。
戦争犯罪と謝罪についてはドイツがよく引き合いに出されるが、ドイツは「記憶・責任・平和」基金を設立しナチスドイツ時代の東ヨーロッパの強制労働者に補償を行っている。熊谷がすでに論じているように、この「記憶・責任・平和」基金との比較などの検証作業を通じて、アジア女性基金の取り組みとその失敗を正面から受けとめ、躓きがいかに次に生かせるかを考えたい。
ところで、日本の公共空間に多く見られる裸婦像の起点は、ある軍人の騎馬像が掲げられていた台座を再利用して誕生している。その軍人の騎馬像とは寺内正毅元帥像である(*6)。1910年、寺内は朝鮮総督府の初代総督として韓国併合を強行した。これにより、大韓帝国は消滅し大日本帝国に併合され、以後植民地支配が35年間続くことになった。寺内が立役者となった韓国併合は現在でも日本の植民地支配の法的根拠となっているが、その実質が寺内の「一人三役の離れ業」によるものであったことが明らかになっている(和田春樹『日韓併合 110年後の真実』岩波書店、2019)。
そのような植民地支配に深い関わりを持つ人物と同じ台座の上に、戦後は一転して、裸の女性たちが「平和」や「新しい日本」の象徴として掲げられたことが意味することを、重く受けとめたい。戦後日本における平和がいったい何と連続性と持つのかがここには表れている。
公共をめぐるもうひとつの問題
最後に《平和の少女像》に関わる諸問題のひとつとして、文化庁の補助金全額不交付についてふれておきたい。2019年9月26日、文化庁は「補助金適正化法第6条等に基づき、全額不交付とする」と、あいちトリエンナーレ2019への補助金の全額不交付を通達した。結果的にこれは一転し、2020年3月23日に「補助金適正化法第6条等に基づき、交付決定する(交付決定額6661万9000円)」と全額不交付は撤回されたが(*7)、ここで可視化された問題は依然として残り続けると思われる。
2019年10月5日、6日に行われたJNN世論調査では、「慰安婦を象徴する少女像などが展示されたことに脅迫や抗議が相次いだ『あいちトリエンナーレ』について、文化庁は交付予定だった7800万円あまりの補助金を払わないことを決めました。あなたは、文化庁の決定が適切だったと思いますか、不適切だったと思いますか?」という質問に対し、適切だった…46パーセント、不適切だった…31パーセント、答えない・わからない…23パーセントという結果が出た(*8)。
一度決定していた補助金の全額不交付という前代未聞の出来事に対し、様々な団体から断固反対の声明が出され、その後、不交付は撤回されるに至るわけだが、世論調査では「適切だった」という声が「不適切」を上回った。むろん、ここからはそれぞれの声に含まれる多様性を読み取ることはできない。そのようななか、社会経済学者の松原隆一郎は「『表現の不自由展・その後』は展示全体が左派的な作品に偏っていたので、公費で運営される場での展示としては政治的だと感じられても仕方なかったと思う」と述べている(*9)。このように、「偏り」のある展示に公費を投じるべきではないという意見は、一般市民のなかに根強くあると思われる。
しかし、昨年の不交付決定において文化庁は、展示の内容それ自体を問題にしたわけではなかった。文化庁は「補助金適正化法第6条等に基づき、全額不交付とする」とした理由について、補助金申請者である愛知県が「展覧会の開催に当たり、来場者を含め展示会場の安全や事業の円滑な運営を脅かすような重大な事実を認識していたにもかかわらず、それらの事実を申告することなく採択の決定通知を受領した」ことなどを挙げ、「申請手続において、不適当な行為であった」ことにより不交付に至ったとしている(*10)。
「安全や事業の円滑な運営を脅かすような重大な事実」が何を指すのかについては後述することにして、本件で注目すべきは、あいちトリエンナーレへの補助金の全額不交付が決定された9月26日の翌日、文化庁所管である独立行政法人日本芸術文化振興会が、文化芸術活動助成の交付要綱を改めていることだ。ここでの変更とは「公益性の観点から不適当と認められる場合」に内定・交付の決定を取り消すことができるようになるというものだ。
注意すべきは、内定・交付取り消しの事由として加えられた「公益性」という言葉である。2012年4月、自民党憲法改正推進本部が発表した「日本国憲法改正草案」において、「公共の福祉」が「公益及び公の秩序」に修正された。「公共の福祉」はこれまで論争の的になってきたが、それはこれに反するという理由で、言論・結社・身体の自由をめぐる基本的人権の制限が正当化できる調整原理だからだ。ここでの憲法改正草案と日本芸術文化振興会の交付要綱の修正は方向性を同じくしている。
主流の学説では、「公共の福祉は、人権相互の衝突の場合に限って、その権利行使を制約する」とされてきた。自民党の「日本国憲法改正草案Q&A」では、「公共の福祉」を「公益及び公の秩序」に改めた理由について、従来の「公共の福祉」という表現は曖昧であると唱え、「その曖昧さの解消を図るとともに、憲法によって保障される基本的人権の制約は、人権相互の衝突の場合に限られるものではないことを明らかにしたものです」としている(*11)。
一般に、公益とは国家または社会公共の利益を指すとされる。さらに日本国憲法改正草案Q&Aでは、「公の秩序」とは「社会秩序」のことであると明記されている。ここでの「社会」とは、個別の人間がともに生きていくなかでの差異や、それにともなって必然的に生じる衝突を自明のものとする多様性の場という意味ではないだろう。Q&Aには、社会秩序とは「平穏な社会生活のことを意味します。個人が人権を主張する場合に、人々の社会生活に迷惑を掛けてはならないのは、当然のことです」と続く。
これは一見もっともらしく聞こえるかもしれないが、集団の利益が個人の人権よりも優先されるということだ。むろん、権利の主張は無制限に認められるものではないし、だからこそ「人権相互の衝突」を調停原理とすると解釈されてきたわけだ。つまり本件における最大の問題点は、「平穏」や「迷惑」を決めるのは誰なのかということである。この判定に「公益」、すなわち「国家の利益」が顔をのぞかせる。つまり自民党の「日本国憲法改正草案」における「公共の福祉」の「公益及び公の秩序」への書き替えとは、国の利益を判断基準に、個々人の人権が制約されるということと等しい。
日本国憲法改正草案において前提とされている「公共の福祉」の「曖昧」さとは、「公共・公」という概念の曖昧さに由来すると考えられる。日本において、「公」とは何かを考えることはつねに困難とともにあった。どういうことか。そもそも「公」とは西洋の概念を受け取れば、public、すなわち人民を意味する。一方、日本に根づいていた「公」とは、国家であり天皇を意味する。人民と、国家・天皇。ほとんど正反対の概念がひとつの言葉に重ねられてきたにもかかわらず、その内実を鍛えるための論議は尽くされてこなかったと言えるだろう。
先にふれたJNN世論調査における多数派の声には、偏りがある展示に公金を使うのはいかがなものかという意見のほかにも、ネット上でも散見されたような、迷惑を掛けてはならない、迷惑をかけるほうに問題がある、というものもあると想像する。昨年の文化庁の全額不交付の事由にも同様の響きがある。前述した「来場者を含め展示会場の安全や事業の円滑な運営を脅かすような重大な事実を認識していたにもかかわらず、それらの事実を申告」しなかったという文面は、脅迫を含む大量の抗議が押し寄せることを認識していたにもかかわらず、とも言い換えられるからだ。しかし言うまでもなく脅迫は犯罪である。脅迫を受けた側の責を問い、集団の利益のために犯罪行為を擁護することがあってはならない。とはいえ、そのような全体主義的傾向がすでに個々人に内面化されはじめているとすれば、これは本当におそろしいことだ。
全額不交付は撤回されたとはいえ、これは芸術文化振興だけの問題にとどまらない。科学研究費申請などの学術研究においても、「公益性や公の秩序に反する」という理由で制約がかかる近い未来が目前まで迫っている。公益性に反するものは私費で、という意見ももちろんあるだろう。しかし、そもそも公益性という全体の利益が判断基準にされ、最も優先されるということに問題があるということを見過ごすべきではない。
いままさに、「公共」が「公益」に置き換わらんとするさなか、あいちトリエンナーレ2019がこれほど大きな騒動になったことをある意味でチャンスとして筆者はとらえたい。なぜなら、いまいちど「公共の福祉」や「公共」について考える契機になると考えるからだ。公共彫刻という、「公共」を冠された芸術形式を検討することも、その一助となろう。
イギリスの政治学者E・H・カーは「歴史とは現在と過去との絶え間ない対話である(An unending dialogue between the present and the past)」と述べている。勝者が記述する歴史においては、往々にして輝かしいものばかりがすくいあげられるが、真に重要であるのは失敗や躓きのほうである。公共彫刻に躓きはつきものだ(*12)。だからこそ、彫刻に内在する呼びかけに応えたい。それこそが、過去との絶え間ない対話となるだろう。