自宅隔離中の日本美術キュレーターが綴る「ホワイトキューブの日常」
世界でもっとも新型コロナウイルスの影響が深刻なアメリカ。同国の国立アジア美術館(フリーア美術館とアーサー・M・サックラー・ギャラリー)に勤務する日本美術のキュレーター、フランク・フェルテンズが、コロナ禍の自宅での日々を綴った。
学芸員という孤独な生き物
COVID-19による感染症の急速な拡大を受けて3月8日にルーヴル美術館が誰も予測していなかった休館に踏み切った。それから1週間以内に、ここアメリカでもメトロポリタン美術館と僕が勤務する国立アジア美術館(フリーア美術館とアーサー・M・サックラー・ギャラリー)を含むスミソニアン博物館群、そしてほかの多くの美術館・博物館が一斉にそのドアを閉じ、世界中のアートファンに大きなショックが広がった。いうまでもなく、各美術館が有するコレクションの管理者である我々キュレーターもそのショックを共有している。
その瞬間から、すべてが変わった。財政的な問題に直面し、スタッフを一時帰休させたり解雇したりといった苦渋の決断をしなければならなかった美術館もあれば、我々キュレーターの存在価値である美術品たちと離れて、自宅でのリモートワークに切り替えた美術館もあった。
僕自身にとって、家で仕事をするという「キュレーターのニューノーマル」は、奇妙なものでもあり、同時になじみ深いものでもある。結局のところ、学芸員というのは孤独な生き物 だ。僕たちの受ける訓練は何年にもわたる大学院での研究が主で、しばしば博士号取得へと至る。文献講読、思索と執筆に膨大な時間を費やしてきているわけで、その場所は、図書館や自宅、カフェ、ポーチ、公園、あるいはラップトップを持っていけるところならどこでも、とさえ言える。同時に、僕たちは外部の人たちと関わる職業でもあって、僕たちのオタクな研究テーマについて語り続けるのを聞いてくれそうな誰にでも、喜んで知識を共有していきたいのだ。
キュレーターというドリーム・ジョブに就くことができた僕たちは、ギャラリートークや、展覧会のオープニングや、寄付者とのミーティングといった外部に向けた公的な活動と、オフィス仕事や、収蔵品の管理や、アーカイブや図書館でのリサーチ活動などといった孤独な活動とのバランスのなかで仕事をすることになる。
僕たちのオフィスはしばしば自身のパーソナリティを映す鏡のようなものだ。例えば、いかにも学者っぽいきちんとしたオフィスは、本がテーマごとに──極端な場合だと本の色ごとに──本棚に並べられていたりする。僕も含むそれ以外の人たちのオフィスは、住人のヤバいレベルでの溜め込み癖を暴露するもので、そこでの「秩序」は「非システム」というべき、まさにそこに住んでいる人にしか意味をなさないロジックで存在しているのだ。
カオスが懐かしい。3月13日、美術館がパンデミックのために閉館すると知らされたとき、僕は次の企画展である「富岡鉄斎展」の準備をしていた。いつ僕たちがあの整理されていながらもごちゃごちゃしている各々のオフィスに戻れるのか分からない(僕がこれを書いているいまも、スミソニアン協会は今後の再開に向けてパンデミックの状況を注視し続けているが)。多くの人たちと同様に、僕たちは仕事の場所をホームオフィス、キッチンテーブル、ソファなどに移した。しばしば、おしゃべり好きな配偶者やにぎやかな子供たちやイライラしている猫がいる場所に。
ここには猫はいない。僕はホワイトキューブの家にひとりで住んでいる。4年前にこのアパートメントに引っ越したときに、美術館での慌ただしい日常のあとに自分の目を休ませるために、意図的に壁には何も飾らないことにした。パンデミック以前には、僕はほとんどの時間をワシントン中心部にあるナショナル・モールの地下で過ごした。そこは、サックラー美術館の貴重な中国の翡翠コレクションや、フリーア美術館の有名なピーコック・ルーム(孔雀の間)や、葛飾北斎や富岡鉄斎の作品がすぐ近くにある場所だ。
僕のアパートメントの壁には北斎はおろかどんな美術作品もないが、視覚的な気晴らしはいろいろある。最近夢中になっているものといえば、ソーシャル・ディスタンシングのルールを無視して窓辺にやってくる雀たち。あとはデスクの上にある、本とか、殴り書きをしたノートパッドとか、飴とか、かなりの数のペンと鉛筆とか、友人からの贈り物でその友情のために残してある現代アートの彫刻とかのこまごましたものを、チェスボード上で動かすように整理してから仕事に取り掛かる。
キュレーターの多くの仕事は、オフィスにいるときであれ家にいるときであれ、僕たちの頭のなかから始まる。論文、展覧会、本の執筆の全体は、それがそうしたかたちになる前に、僕たちの頭のなかにあるシネマ・スクリーンから制作される。このほとんど常識はずれな仕事の進め方が、キュレーターの仕事の本質、そしてすべての知的な仕事の本質なのだと僕は思っている。
自宅に閉じこもって頭のなかにあることを持て余しながら、僕はいままで膨大な時間をかけて実際に観てきたアート作品について新たな発見をしつつある。デスク上の「画狂北斎展」の図録から、北斎が80歳のときの筆さばきや、90歳のときの震える手で描いた線など、作品の詳細な部分に気づくようになった。
ラップトップのなかの「富岡鉄斎展」の画像を観ながら、歴史の流れゆく記憶について考えさせられている。鉄斎は、存命中は世界的に知られた画家だったが、いまは多くの作品が忘れ去られている。こんなふうに、静寂のなかで考えて、観察して、制作するということの贅沢。これがどれ程贅沢なことかを僕は理解したし、それはこの巣ごもり生活を、アイディアを培養するシャーレのようなものにしてくれている。そのシャーレからは、アジア美術に親しんでいたりいなかったりする来館者のためのヴァーチャル・プログラミングも生まれてきた。例えば国務省職員向けに日本美術・日本文化のレクチャーをしたり、コネチカ ット大学の学生に教えたり、北斎の肉筆画を紹介する新しいヴィデオをつくったり、春画についてのポッドキャストを配信したりしている。すべて、僕のホワイトキューブの自宅から生まれたプログラムだ。
しかし同時に、キュレーターとは群れをなす生き物でもある。ひとりのキュレーターの頭のなかにあるシネマ・スクリーンはある程度のところまでしか行きつけない。僕は美術館のコレクションや、ミュージアム・ファミリーというべき仲間のキュレーターたち、保存修復師たち、教育普及担当者たち、フォトグラファーたち、事務方たち、施設スタッフたち、ボランティア・ ガイドたちとインターンたちに会いたいと思う。美術館のにおいや、館内でたまたま出会った誰かとの会話とそこから生まれるインスピレーションが懐かしい。数限りないヴァーチャル・ミーティングやウェビナーで自分自身の画像を眺め続けながら、ある同僚のマグカップに書いてあった言葉を思い出したりする。そんなマグカップの言葉とか、そんな同僚とか、何年ものあいだ一緒にいて、もはや友人のようになったアート作品などのなかに、慰めを感じる。
このホワイトキューブの自宅から、自宅ではない自宅ともいうべき自らの場所に戻れる日を待ち望んでいる。そうした元の日常に戻った後、いつかこのアートのまったくないシンプルなアパートメントで過ごしたことを懐かしむ日が来るだろうか? 間違いなく、来るとは思う。しかし、北斎や鉄斎の肉筆画に囲まれたギャラリーのなかにいること、そして僕にある決して忘れられないような瞬間に訪れる美術品への深い理解を、来館者と分かちあうこと、それを僕はこのホワイトキューブで過ごす日々と交換することはないだろう。