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2020.11.1

ポスト資本主義は「新しい」ということを特権としない Vol.3:卯城竜太(Chim↑Pom)

いま必要なのは、「ポスト資本主義」ではなく「ウィズ資本主義」だ──。道具やスペースのシェア、見返りを求めない贈与的な活動、プロジェクトを通じた異なる階層の出会いの創出など、アートはそもそも経済的価値では測れない独自の芸術的価値を生きてきた。ひとつのシステムに「包摂」されない、こうした脱中心的な態度は、経済体制だけでなく、作家活動における「展覧会」の相対化、真に多様なコミュニティへの志向、人間を超えた「サブジェクトの多様化」など、アートの世界にさまざまに現れ始めている。「美術手帖」本誌10月号で「ポスト資本主義とアート」をめぐる対談に臨んだChim↑Pomの卯城竜太が、そこで語ろうとした思考の全容をあらためて綴る。

文=卯城竜太(Chim↑Pom) 編集協力=杉原環樹 デザイン=涌井智仁 リサーチ協力=ジェイソン・ウェイト、卯城公啓、東海林慎太郎、山本裕子

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公的なものを誰がどう統治するか

 集団の統治方法は、コミュニティだけではなく、ボトムアップな社会観でいえばそのうち機関や会社や国や公共圏や、地球環境そのものにまで関わってくる。

 資本に人格はない、と言われているけど、それでも経営者や株主といった1%を代表する人々が企業を統治しているのは事実だろう。将来、これがボトムアップな統治に変わるとしたら......資本主義後の社会のあり方をめぐる思索は、その「生産手段の社会化」についての問いを人類の頭にグルグル回らせたところから始まっている。工場や資本金など、企業がモノを生産するために必要な「資本」の所有権が、資本家から「みんな」に社会化されるという。搾取を無くす決定的な手段として19世紀に言われたけど、これが一体、どう為されるのかは、いまも最大の謎である。漠然とその企業の労働者たち全員に権利が移譲され、ボトムアップに現在の構成を受け継ぐといいな、と思う。

 経営陣はその才覚で会社の総意として選ばれて、報酬としてギャラも高い。しかし搾取は点検されるから、その計算のもとにすべての労働者のギャラもアップする。そんな姿を夢想するけど、この「生産手段の社会化」についてマルクスは、「自由な人間のアソシエーション(連合体)」や「協同組合的所有」と漠然と言うにとどめていたようだ。具体的な発言には慎重だったのかもしれないけど、「個人の自由」ファーストな点はいまっぽくて共感できる。

 いっぽうのエンゲルスは経営者らしく、「生産手段の社会化」への足がかりに、国有化だとか株式会社だとか、権力ありきの具体案をイメージしたらしい。国有化は一党独裁・官僚国家のソ連の壮大な実験失敗を経たいま、説得力が相当薄まっているように思う。この超絶トップダウンな政治体制を引き継ぐかたちで、冷戦後の世界を席巻しているのが中国である。資本主義国に対立しているように語られるけど、いまの中国の市場経済は、あくまで資本主義を踏まえた「国家資本主義」といえるものだ。

 そもそも国家と資本主義は相性がいい。国家の力が強いのは、中央集権的な信用がものを言わせているからだ。通貨の発行がまさにそれである。さらに国民の信用をビッグデータから計算して、国が管理・公開するという現在のデジタルレーニン主義は、その信用をかつてない規模で発展させる壮大なものだ。対して分散型の信用システムであるブロックチェーンが希望(ポスト資本的主義的にも)と言われたけど、デジタル人民元が中国人民銀行から発行されるとかいういまの時点では、それも理想論に聞こえてしまう。

管理が疎外する、無用の長物と価値を見出す眼

 ちょっと壮大に考えすぎた。話を小さくしてみる。まっとうに考えると、つまりこれは自治の話なのだ。

 フロンティアに地方自治が発達した昔のアメリカでは、数十人ほどが集まれば自分たちで自治体をつくれたそうだ。そのプラットフォームとして州政府ができて、連邦国家になった。だから保安官なんかはコミュニティごとに選ばれていたし、今でも警察組織とは別に州兵がいる。うっかり腕っぷしと信用があって、保安官を頼まれるなんて、自分に置き換えてみたら悲劇でしかないが、そこはマッチョな文化圏だから、栄誉だったのだろう。ということで道州制を求める議論は日本でも根強い。

 が、そのメリットは何かと蓋を開けてみれば、大型開発と言う人が多いようだ。これはアメリカのボトムアップな歴史には程遠い、トップダウンな経済政策である。いまは県か国の事業として行われている公益的な開発を、たとえば四国州ができて、徳島県や高知県を跨げれば、かつてない巨大事業になる、開発効果は莫大だ......と涎を垂らす親方がいるのである。これにもしも県が残らなかったらどうなるか、と考えてみる。州ともなるともう小さなものはフォローしきれないわけで、おそらく多くの市町村はシカトされ、合併の動きが加速する。

 そして、これが容赦ない新自由主義のもとで行われるとどうなるか、と考えてみる。これが議論の本命なのだけど、こうなると小さな価値観へのシカトスキルは想像を超えて上がりまくるだろう。いまもミヤシタパークなどのジェントリフィケーションが好例として語られるように、やっぱりご当地のものは商品価値のあるものしか残されないのである。もともとあったホームレスやストリートのDIY文化などは、リアルすぎてウケないから排除される。しかし、文化が必要ない、とは親方も領主も口が裂けても言えないわけで、代わりにと言ったら何だけど、縁もゆかりもない文化がキュレーションされて「連れてこられる」。現代アーティストによるパブリック・アートがそれだろう。上野公園にもミヤシタパークにも入り込むスタバの戦略もズバリそれなんだろう。

 まあ、アートやカフェなら好き嫌いの範疇だから、どうでもいいっちゃいい。気持ち悪いのは、その万人ウケのキュレーションの最終的なターゲットが、そこに集う人々の性質自体にあるということである。ワンパターンで、一周まわってオカルトのような、宗教的な包摂を感じる光景である。

 『公の時代』で、公園で弁当を食っていたら「入りにくい」と通報された、と共著相手の松田修が自嘲しているけど、そういうことは徹底的にエクストリーム化するだろうと思う。そこを入りやすい公園にするためには、異分子や当事者を限りなくゼロに近づけなければならない。「みんな」がそこに来るのは、そこに生産的なエネルギーがないからである。つくる側ではなく、消費する側......包摂された人々の無意識の動員は、そんな経営方針に沿って合理的にデザインされている。だから、ホームレスだ排除だと活動家的な物言い以前に、つまりは合理性のないものは、もう最初からどっちみち存在し得ないのである。

 「世にあるほとんどの商品は生産性のネットワークに組み込まれている」とは、赤瀬川(原平)さんがトマソンを説明する際に言った資本主義社会の前提条件だけど、つまりトマソンのように「役立たず」だったり、「そのネットワークの外側」だったり、合理性を持たずに存在してしまう無用の長物は、この経営方針には想定されていない。意味がないからである、とはまるでアート自体を説明しているときのような論理立てだけど、当の赤瀬川さん自身も、トマソンをアートのドッペルゲンガーとして見ていた節がある。トマソンに紐付けて、合理的でないものは棄てられてしまう世の中にあって、唯一の例外が、丁重に歴史に保存されてきた芸術作品であると語っている。この当たり前の視点が通用しなくなってきたところに、都市開発をめぐるアートのジレンマがあるように思う。

赤瀬川原平『超芸術トマソン』(ちくま文庫)

 ただ、その真の答えもトマソンに求めてみてはどうだろうか。芸術作品には作者がいて、意図があって芸術になる。いっぽうのトマソンなどの「超芸術」には、作品も意図も最初からない。じゃあ、それを芸術だと気づいて価値づけるのは誰かというと、散歩の途中でそれを見つけた発見者......つまりはミヤシタパークが失わせた、「消費者ではない大衆」の意識なのである。

自然の所有

 色々とお先真っ暗な部分が多い。暗いと人間は鬱になる。「資本主義リアリズム」で著名なイギリスの批評家、マーク・フィッシャーはうつ病を後期資本主義が産んだ病だと言って、自らも命を絶った。資本主義を論じて暗くなるのは、これが「ある場所の生態系を誰がコントロールするのか?」という命題を、都市やインターネット空間、国家や自治体という人間×人間の場で考えてしまうからだ。

 先述したように、ポスト資本主義の議論の大きな引き金となったひとつの要因は、ニッチもサッチもいかない環境問題である。トップダウンとかボトムアップどころではない。自然をコントロールする相手としてしか考え得なかった「人間中心主義」は、良くも悪くも新たな局面を迎えている。これにAIの登場や思弁的実在論(経験ではなく論理的に人間のいない世界を思考し、物や生命体という他者の実在をとらえ直す思想)など、人間以外の視点の台頭や人新世の議論なども加わって、ポストの議論は資本主義どころか「ポスト・ヒューマン」となり、なんなら「ノン・ヒューマン」へと加速中だ。

 そもそも、「労働」は自然と人間の関係から始まったと言われている。生命体としてのヒトは自然からのエネルギーを循環させるだけだったが、道具を持った。自然を開拓し始めた。そして、他の動物のように生態系のなかにいることをやめて、その破壊から富を得るようになった。田畑の開拓とか建築程度に、破壊が抑制的だった内はまあいい。この欲望をエクストリームに爆発させて、超破壊的な倫理観を持つようになって、存続に関わるしっぺ返しをくらって、困ったのである。これを驚きのスピードで進めたのは、いうまでもなく資本主義である。なんせその見返りとして、石油だ木材だ開発だと、自然から得る富の分配を、資本は一手に独占できるようになったのだ。

 この分配のワンパターンを痛烈に批判したプロジェクトがある。今年のシドニー・ビエンナーレに参加した、「ArTree Nepal」というネパールのコレクティブによる《Not less expensive than gold》(ゴールドに負けず劣らず高価)だ。

 ヒマラヤというダイナミックな地形は、多くのレアな高山植物と、さまざまなハーブを育んだ。それらは伝統医療やシャーマニックな儀式に使われてきたそうだ。ビエンナーレでは、いくつもの金色の医薬品用のボトルと、アクティヴィストとしても活動した同国の外科医によるテキストを全身に書き写した男たちが、ストリートをねり歩く映像が展示された。

 その背景には、保険当局の民営化によって、それら地元の薬草が海外に流出し、製品化されて逆輸入されるようになったという実態がある。現地の人は、その「西洋の」薬品を、高額を払わないと入手できなくなっているそうだ。裸に書かれた文字は、私物化されたケアシステムについてである。そうして消えゆく共同社会の医療行為を、ArTree Nepalは皮肉まじりに「オルタナティブ・メディスン」とのパンチワードで呼んでいる。もっとも身近だった医療がオルタナティブになった、というアイロニーである。保険当局の民営化は、選択肢を増やすどころか一択に絞ってしまった。

 儲けを出すという理由のために存在するものはあっていい。だけど、それ以外の理由で存在するものだってあって良いはずである。ネパールのハーブと地域社会では、その「存在理由」と「存在方法」は、ずっと一致していたのだ。あちこちで野生し、いろいろな手によって育てられて、儀式や医療に使われる。存在する理由も方法もいくつもあって、自然とそれはマッチしていた。それが製品化という理由一本で所有権が資本に独占されると、もう、存在方法は製薬会社の開発基準に則るだけになる。もともと「ウィズ」として多様にあった存在理由には、もはや存在方法にマッチングがない。

若手の実践に見る、脱人間中心主義な志向

 結局のところ、「人間中心主義」的に環境問題を、というよりも生態系を理解しようとする時点で、人間は人間の論理に「包摂」されてしまう。この場合の「人間中心主義」は、ルネサンスなどの「神から人間へ」の運動のことではない。人間を歯車として見做す資本主義のことでももちろんない。ただフラットに世界があるなかで、人間に限らない幅広い他者の存在を人間の思考からしかとらえられないという相関主義的な「視点」のことである。

 先住民やフェミニズム、資本主義は人類内の話だけど、いまはその脱人間中心主義的な多様な視点の獲得が、「脱ヒューマニズム化した他者論」として、人間以外にも考えられるようになっている。それをリードしてきたのはメディアアートである。が、最近はテクノロジーだけでなく、植物や動物、菌などを使った現代アートと溶け合い出してきた。先日、神宮前の「FR田SH」で展示された秋山佑太のインスタレーションは、それをめちゃめちゃ考えさせる秀逸なモノだった。

 建築家としても活動する秋山は、コロナを機にセメントの産地である秩父に居を持った。展示空間の奥には秩父でセメントをガムのように噛み噛みし、唾で硬化させている映像があり、それによってできたセメントのオブジェが展示されている。それを、横の3Dスキャナーがスキャンし続けていて、3Dプリンタがせっせとコピーし続けている。中央には自身の排泄物を肥料として含んだ秩父の土が入ったコンテナボックスが積まれている。メッシュの穴の数々からは、土に混じっていた何かしらの雑草の種が芽吹き、成長を続けている。さらに左手にはぬか床と、そこで漬けられた野菜が作品として展示されていた。すべてが運動と連動を続けていて、「完成」なんてないようなインスタレーションだった。だからかつい深読みしてしまうような無限性があって、草の種類やプリンタの動きに見とれてしまう。まるで、それぞれが意思を持っているような妄想を掻き立てる、自然とテクノロジーと人間によるビオトープだった。

FL田SHによる「芸術競技」展より、秋山佑太のインスタレーション

 観ることは叶わなかったけど、若手キュレーター高木遊による、植物園を舞台にした展覧会「生きられた庭」や、若手アーティスト渡辺志桜里+渡邊慎二郎による、植物や雨や動物による循環そのものを生態系として展示した「Dyadic Stem」展も、同じく新たな世界のヴィジョンを示した例だろうと思う。

「生きられた庭」より、立石従寛《Abiotope》(2019) © Yuuki Yamazaki

 そして、その渡辺志桜里を含んだ現在開催中(10月4日に終了)のグループ展「ノン・ヒューマン・コントロール」(荒木由香里、齋藤帆奈、渡辺志桜里、キュレーター:西田編集長、TAV GALLERY)は、決定版とも言えるものだった。ギャラリー内には、生きた粘菌や金魚、藻、植物、みじんこ、切断面をスキャンされた石、人工物と溶け合う地層、プラスチックなどが、あるときはバラバラに配置されながらも関係しあい、あるときはアートピース的に配置されていた。しかし、そのピースも、素材となる菌が日々変化を続けるので、毎日色合いやデザインを変えている。八百万に神が宿るというアニミズムや、すべてのオブジェと人を等価に扱うオブジェクト指向存在論など、脱中央集権的な共生のあり方よりもさらに一歩踏み込んだ、人類絶滅後的なノンヒューマンという仮説が漂うラディカルな展覧会である。

「ノンヒューマン・コントロール」展示風景より、左から、荒木由香里《White》《White》《White》(ともに2013)、渡辺志桜里《Sans room》、《Green block Yellow block》(ともに2020)、齋藤帆奈《食べられた色 1-5 Eaten Colors》(2020)

 それによってギャラリーという実空間は思弁的(論理的)な空間へと変わる。しかし同時にこれがグローバル資本主義とウィルスによるコロナ禍という実世界へのレスポンスであったことに、皮肉なリアリティがあった。そして、このように商品になり得ない作品をコマーシャル・ギャラリーが扱い、販売の新たなパッケージを生み出そうと挑戦をしていることにも、ウィズ資本主義の試みとして僕は素晴らしいと思った。ちなみにこの脱ヒューマニズムとしての他者論は、落合陽一の最近の展覧会「未知への追憶」(渋谷モディ)では「計算機自然」と定義されていて、それはメディア・アート的に「一人称を消す」と語られていた。

 これを逆にヒューマニズムも交えてもっとも理論的に実践したもののひとつは、平井有太による「ビオクラシー」展だろう。平井は突撃取材で知られるライターである。その対象は、哲学者のアントニオ・ネグリ、欧州緑の党の議長ダニエル・コーン、世界一貧しい大統領として話題を集めたウルグアイ元大統領ムヒカ、ヒップホップのレジェンドであるアフリカ・バンバータ、前衛アーティストのダダカン、レゲエのリー・ペリー、そして数々の無名の市民など、ディープに、かつ縦にも横にも広がっている。3.11の後には福島の生協に就職して、大規模なスクリーング調査に参加。現在は自然エネルギーの生産者と消費者のマッチングを行う「みんな電力」のPRも担っている。

平井有太「ビオクラシー」(2016)展示風景より 撮影=前田ユキ Courtesy of Chim↑Pom and Yuta Hirai

 展覧会は、他者との対話を重ねてきた平井らしいものとなった。福島から取り寄せた野菜の直売店とか、ギャラリーの電力を東電から小規模生産者の太陽光にシフトするプロジェクトだとか。そしてほとんどの展示物を、キュレーションとして他者の制作物やコラボレーション、取材の記録で成立させたのである。この究極の「ウィズ」思想を展覧会と出版で宣言したのが、彼の造語である「ビオクラシー」である。これは「BIO(生)」による支配を、デモクラシーのポストとして宣言した、いわゆる「生命主義」だ。

 福島でのプロジェクトを自然のなかで行ってきた彼は、これについて、「あらゆる生命と共存するのに、『民』が『主』(デモクラシー)とはどれだけおこがましい態度なのか」と語っている。この思想がコロナ禍にさらにリアリティを持ったことは言うまでもない。

 また、自然物ではなく、人工物を使うことで人間の視点を脱却した、涌井智仁の「Long,Long,Long,」展も究極的な展覧会だった。個展の期間中、自身の作品を二進法に変換し、電波として、そのデータを北極星に向けてアンテナから宇宙の何者かへと発信し続けたのである。人間どころか地球にすら留まらない、想像力を極めたプロジェクトであった。

 僕はこの一連の流れを、じつはかなり革新的だと勝手に考えている。産業革命後、資本主義の高度発達期、その価値観が揺らいだ時代に、デュシャンは《泉》で、便器という商品に噴水という見立てを与えて、「オブジェクトの見方の多様化」という革命を起こした。オブジェという観客の視点に取り囲まれる「中心的」なものに対して、いま起きているのは、むしろ逆に「サブジェクト(主体)の多様化」とも呼べそうな、後期資本主義的な価値観の転換なのだ。

 中心を無くし、「存在し得るすべての視点」を一部として主体化させる方に多様化の対象が移ったパラダイムシフトを目の当たりにして、「誰が公的なもの(生態系、政治、世界、宇宙、コミュニティなども対象とする)を統治し得るのか」という「包摂」をめぐる問いは、ようやくただの社会論に回収されない、複雑なもの(しかし明快なものと)として現れてくる。ここでは、マーケットがどうだ、こうだ、という典型的な資本主義をめぐる経済論は議論の中心にはない。そもそも「中心性」というものがないのである。あるのは、データ、宇宙、植物、文化、人間、菌、動物、人工物、ウィルス、エネルギーなど、すべてを主体化する「ウィズ」の無限の可能性なのである。

サブジェクトの多様化

 ウィズだフェミニズムだノン・ヒューマンだと、いろいろなワードで語ってきた。他にも探せばキリがない。ウィズなんだから、何でもありになる。とにかくこの「中心が唯一の主体である」かのような幻想、包摂を脱しようとする生態系的な視点は、もうすでに登場しているということだ。その実践が率先して行われている場こそが、現在のアートなのである。

 しかし、この多様性革命が資本主義に代わる経済体制を産むとは、楽観していない。そのことは付け加えておきたい。多様性自体が経済において中心的な問題ではない限り、資本主義はそれすらも搾取する。多様性が進んだとしても、資本主義のパラダイムは続くだろうし、経済は人権すらも商品化するかもしれない。しかし、だからこそある論理が唯一の正解ではないという、「脱包摂の社会体制」がまずは必要になってくる。僕らはその社会をまだ経験していないのだから。

 考えてみれば、この脱包摂の思考自体は、アーティストにとっては新しくもなんともない。アートの鉄則のようなものでもある。それをここまで蒸し返すのは、やはりこの議論をアートから「一般」へと接続する必要を感じているからだろう。その想いはある二人の友人の言葉から、確信に変わった。

 ひとつは、安西彩乃によるカオスラへのパワハラの告発文を読んだ、僕の彼女である。この話題を、僕がアーティストや経営者のみと交わしていることを横目にして、彼女が泣いたことがあった。話の内容にではなく相手についてである。結局、どんなに頭で理解している人たちでも、個を立てて生きられている人間には、会社のなかで弱い身に起きていることを肌では理解できないでしょ、という僕への悟しである。

 彼女自身は告発文を読んで、「なぜあのとき嫌だったことを嫌だと言わずに、笑ってやり過ごしたのか」と、自分が経験した職場でのいろいろを思い出して、言葉にならない感情が呼び起こされたという。被害と加害が入り組んでいるこの問題に、具体的に何かを言うつもりはない。だけど、彼女の言葉は胸に刺さって耳が痛かった。そして、彼女・彼らが抱く「感情」に、作品や論文とは違う、リアルで強靭な力を感じずにはいられなかった。

 ふたつ目は重要な論旨を与えてくれた、友達のキュレーター、ジェイソン・ウェイトからのLINEのメッセージである。本稿は、彼とのやり取りからの影響が大きい。それを最後に引用して、終わりにしたいと思う。

 「ポスト資本主義の社会は、必ずしも『新しい』ことを特権とするものではないでしょう。資本主義的ではない存在や、それと関連する方法は、長い間存在してきました。未来は、それらが繁栄し続けることを受け入れています。ポスト資本主義は単数ではありません。そういう意味では、現在も、つねにポスト資本主義であると認識する必要があるのです」。