友達アートの射程
じゃぽにか論②
近年、ネットを中心に目にする機会の増えてきた「友達アート」という言葉。「地域アート」批判でアートシーンに一石を投じた評論家・藤田直哉が、「炎上アート集団」じゃぽにかの現在進行形の活動を通して、同時代美術における「友達アート」の可能性をつかみ出す論考。全5回にわたって特別掲載する。
2. SNS時代の芸術(家)──「炎上」vs「友達」
「じゃぽにか」は、2013年にはじめての個展をArt Center Ongoing(東京)で開催した。2014年には「悪ノリSNS 『芸術は炎上だ!』」で、第17回岡本太郎現代芸術賞の特別賞を受賞。「じゃぽにか」とはグループ名であり、SNS上ではあたかも「じゃぽにか」という個人であるかのように振る舞う仮想の人格を用いている(ログインする権利は複数の人間によって持たれており、誰がどの書き込みをしたのかは明らかにはされない)。集団と個の輪郭が曖昧になるという、アニメ『攻殻機動隊SAC』(神山健治監督)において提示されたビジョンを実践しているようなグループである。近代的な「個人」の延長であるかのような、生身の身体の中に宿る一つの人格としての「作者」を問い直そうという問題意識を実践しているグループ=仮想人格であると言えよう。
このような「作者」を問い直すことが「アート」の名において行われているのは既に現実である。奥村直樹と実によく似た名前を持つ作家の奥村雄樹が2016年6月から銀座メゾンエルメス フォーラムで開催している「奥村雄樹による高橋尚愛」展(9月4日まで)には、偶然であるが、そのような作者の中にある創造性を関係性による創造性へと読み替え、開こうとする展示であった(たんに名前が偶然似ている作家であるのだが、行っていることに共通性があるのは、同時代性があるということであると解釈するべきだろう)。展示の冒頭に置かれている映像作品では、奥村が高橋についてリサーチし、その内容を血肉化し、高橋を演じるという、「作者」という概念が、「二人」の関係性の中で再編成されることを示していた。主催者であるエルメスは、その活動を明確に「アート」として捉えている。公式ホームページより引用する。
奥村雄樹は、美術史の再訪や、他者の作品解釈などから出発するプロジェクトにおいて、作者性や協働といった、今日的なアートの問題意識をベースとして活動しています。(...)「私」という主体やアイデンティティについての一貫した問いかけの実践でもあります。http://www.maisonhermes.jp/ginza/
ぼく個人が観た印象では、「高橋尚愛」が、ラウシェンバーグのアシスタントをしていたこと、様々なアーティストと協働していたことなどに力点を置いた展示であり、「高橋尚愛」という「作家」を、関係性の中で創造性を発揮した人間であると再解釈しようという意図が感じられた。同時に、それらをリサーチし、再解釈する「奥村雄樹」という主体も解釈の対象と不可分になり、この展示そのものが彼ら二人の複雑な関係性が創造・産出したものに見えるようになっていた。
じゃぽにかのSNSなどでの架空の人格の振る舞いも、このような作者性の別のあり方を問い直す流れのなかにある。ここでは、彼らを一つの例にとり、「友達アート」概念の可能性と限界、少なくともその概念に賭けるアーティストの夢を明らかにする作業を行いたい。そのために、まずは彼らの展示や活動を紹介しながら、検証していくことにする。
まずは、岡本太郎現代芸術賞の特別賞を受賞した「悪ノリSNS 『芸術は炎上だ!』」から言及を始めよう。
その展示風景は非常に素人くさい見た目である。彼らの作品に対し、アウトサイダーアートではないかという評も出ているほどである。しかし、実際には彼らは、美術のアウトサイダーではない。じゃぽにかのメンバーのうち二人、村山悟郎と有賀慎吾は東京藝術大学の博士号を持っている。村山や杉田陽平は、ソロでの活動では、普通の人が見ても「カッコいい」「アートだ」と納得するような作品を発表している。
ということは、この「ダサさ」「素人くささ」をわざとやっているということになる。
当人たちに、なぜわざとこういうことをするのかと訊ねても、それがカッコいいと思っている旨の発言をするだけで、ぼく自身が理解できるような答えではなかった。そこで、ここでは、そこにある「美学」を、彼らの作品や言動などから再構築することにする。
実際に「悪ノリSNS」という作品とそれに付随する彼らの振る舞い(展示会場にSNSの書き込みが表示されるというかたちでSNS上での彼らの振る舞いも作品に組み込まれているので、作品と振る舞いを弁別できるのか、疑問は残るのだが)を例に、彼らの行おうとしている「芸術」の質を考察していくことにしよう。
この作品では、いわゆる「バカッター」と呼ばれていた、冷蔵庫の中に入ったり餃子の王将で裸になったりした写真をネットにアップして炎上する現象を素材にしていた。たしかに、その写真は、周囲の人が被った迷惑などを度外視して無責任な立場で「鑑賞」すれば、面白い。異化効果もある。無償で行われているという純粋性も、どこかアートっぽい気もしないでもない。実際、ギャラリーに展示されていたら、作品と区別を付ける自信はぼくにはない。
この展示と同時に、彼らは、SNSで自ら炎上する。それらの振る舞いから推測するに、彼らはアートとアートでないことを相対化しようとしている部分がある。両者の境界を揺るがして遊ぶアーティストであることを志向していると言おうか。SNSへの発表や、SNS上に仮想の人格をつくりアカウントを動かし続けるということそれ自体は、制度的には「アート」とは看做されない可能性が高いにもかかわらず、それを重要な活動として繰り返していることが、その傍証となるだろう。そのような「境界」を揺らがそうとする態度そのものは、デュシャンから続く、現代アートの「伝統的」な振る舞いである。
実際、彼らは第2回の個展を「じゃぽにかの誰でもデュシャン☆」(2014年、ギャラリー・バルコ、東京)と題しており、『地域アート』所収のぼくとの座談会も「日常化したメタ・コンテクスト闘争――「誰でもデュシャン」の時代にどう芸術を成立させるか?」というタイトルである。
SNS時代の作家としての彼らが「炎上」をテーマにしていることを考えるときに、カオス*ラウンジと、ネットのユーザーが行った「現代アート騒動」に言及することはどうしても必要だろう。詳細には言及しないが、カオス*ラウンジは、作家とネットの匿名の境界が曖昧になり、人間とネットが「一体となる」かのような「関係性」の新しいビジョンを「カオスラウンジ宣言」で提出したが、ネットにおける炎上に出くわし、そのビジョンの前衛性、ラディカルさを振る舞いとしては後退させざるをえない事態に至った。
「現代アート」は、デュシャンの時代以降、「アート」と「アートではないもの」の境界を揺らがしたり、コンテクストを操作することを、価値の中心の一つにおいてきた。アートが民主化し、制度的に「アーティスト」と看做されていない人たちにも、このような現代アートの「コンテクスト操作」「アートの枠の再設定」の技術が普及すると何が起きるか。「アートとは何か」の設定と再設定が「大衆化」していくのである。これは、アートにおける民主化と、デュシャン的なコンテクスト操作の技法が組み合わされば、論理的な必然として起こる。
これは「論理的な必然」ではあるが、「現実」にはならなかった。この裂け目が「騒動」の論点の中心軸になっていた。現実の「美術」は、制度や力学や人間関係や権力などによって動いているので、「論理的な必然」と必然的に齟齬をきたす。その「矛盾」の裂け目を露呈させるという点において、ネット住民たちが起こした騒動は、それ自体が一つの「アートっぽい」事象(問題提起的、コンテクスト操作的、制度批判的、境界壊乱的、無償的)であったとは言えそうである。
じゃぽにかは、この騒動を見て、知っている。じゃぽにかという、個にして集団であるというSNS時代の「人格」の振る舞いとしての作品を理解するためには、この騒動の苦い結末を受け継ごうとする意志を読み取らなければならない。
カオス*ラウンジは、作家の特権性を過激に解体するビジョンを提示しながらも、しかもなお自らは作家であり、ネットの匿名たちはアーティストになれないという現実的矛盾の中でその宣言を事実上放棄する必要に追い詰められた。
じゃぽにかの戦略は、そのような「コンテクスト」を組み替えるゲームへの参加権を、ある程度制限することにある。「友達」とは、普遍的・一般的にある法則が適用されるという論理的な地平の無限の拡大を防ぐためゆるやかな枠として機能している。彼らは、敢えてだらしない人間関係を構築することで、一般的な原理と自身が矛盾する事態を引き起こさないようにしている(だからこそ、彼らは炎上をテーマにしつつも、奇妙なまでに炎上しない。ネットの炎上は、ある論理なり倫理なりと矛盾している振る舞いが起こっているときに過激化しやすいが、彼らは振る舞いも発言もだらだらしているので、攻撃してもぬるぬると吸収されそうで、炎上させたい気持ちをなかなか発動させないのだと推測される)。
「炎上」は、一つの発言が、「公」に、コンテクストを共有しない人たちに向けて発信されることによって起こる。
じゃぽにかにおける「友達」という枠は、この「コンテクスト」として機能している。
実際に、彼らのメンバーには美術大学やギャラリーなどに属していない人間も混じっている。彼らは、アーティストと、アーティストではない人間との境界を、自らの集団の中においては崩すことに成功している。ここには、アートの民主化の夢を、限定された枠の中で試行しようとする態度が見て取れないだろうか。一挙に普遍的に、一般的に行う(カオス*ラウンジ)のではなく、身近で、少しずつ行っていく。ネット時代において、アートの「コンテクスト操作」という技法が大衆化していく状況における「境界」の問題を扱うにあたって、そういう戦術の違いが存在していると推測できる。
ネットにおけるアートが、炎上という現象に遭遇する際に「小さな関係性」の構築を行うことでその問題点を克服しようとしている作家集団である、とひとまず彼らのことを呼んでよいのではないだろうか。(第3回に続く)
PROFILE
ふじた・なおや 評論家。1983年北海道生まれ。SFジャンルを中心に、文芸、映画、アートなど幅広く評する。著書に『虚構内存在−筒井康隆と〈新しい《生》の次元〉』(作品社)。編著に『地域アート 美学/制度/日本』(堀ノ内出版)。共著に笠井潔との対談集『文化亡国論』(響文社)など。