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2024.3.26

「大吉原展」(東京藝術大学大学美術館)開幕レポート。吉原で育まれてきた文化を通じて、遊女たちの生き方や置かれた環境に目を向ける

東京藝術大学大学美術館で、江戸幕府公認の遊廓であった吉原や、そこで育まれてきた文化にフォーカスする「大吉原展」が開幕した。会期は5月19日まで。

文・撮影=三澤麦(ウェブ版「美術手帖」編集部)

展示風景より、辻村寿三郎・三浦宏・服部一郎《江戸風俗人形》(1981)
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 東京・上野の東京藝術大学大学美術館で、江戸幕府公認の遊廓であった吉原や、そこで育まれてきた文化にフォーカスする「大吉原展」が開幕した。会期は5月19日まで。本展学術顧問は田中優子(法政大学名誉教授)、担当学芸員は古田亮(東京藝術大学大学美術館教授)。

 吉原とは、江戸時代につくられた遊廓街(*)。そこでは、絵画や浮世絵、文学、工芸、年中行事など様々な文化が生まれ育まれてきたいっぽうで、その経済基盤は、家族の借金のためにやむなく働いていた女性たちの売買春で支えられていたという両側面をあわせ持っている。本展事務局は当初展覧会タイトルを「大吉原展 江戸アメイヂング」としており、その広報の仕方が当時の女性たちに起こった人権侵害を軽視しているとSNS上で指摘が相次いだ。同事務局はその後広報のあり方を見直し、今回の開幕へ至ることとなった。

 3月25日に開催された報道内覧会では、記者らに対し、田中による「『大吉原展』開催にあたって:吉原と女性の人権」といった資料が配布された。以下、全文を掲載する。

 本日から開催する「大吉原展」は、吉原を正面からテーマにした展覧会としては初めてなのではないかと思います。もちろん、本日ご覧いただく喜多川歌麿の浮世絵などは、浮世絵展として展示されたことはありますが、それを吉原というテーマのもとに、遊女の姿や着物、工芸品、吉原という町、そこで展開される年中行事、日々の暮らし、座敷のしつらいなどを含めて、一つの展覧会に集めたことは、今までありませんでした。
 なぜかというと、吉原の経済基盤は売春だったからです。吉原を支えた遊女たちは、家族のためにやむを得ずおこなった借金の返済のために働いていたわけで、返済が終わらない限り、吉原を出ることはできませんでした。そのことを忘れるわけにはいきません。これは明確な人権侵害です。ですから、吉原をはじめとする「遊廓」という組織は、二度と出現してはならない場所です。
 江戸時代に「人権」思想はありませんでした。そして明治以降、解放令が出されたにも関わらず遊際は1958年に売春防止法が実施されるまで存続しました。その後も現在に至るまで、日本社会に売買春が存在する理由の一つは、吉原をはじめとする各地の遊廓が長い間存在し続け、それが、「女性」についての固定観念を作ったからだ、と認識しています。
 この展覧会では、吉原の町を満たす人々の声や音曲や唄が聞こえてきそうな賑わいを、絵から感じ取って欲しいと思います。一貫して丁寧に描き込まれているのは着物です。遊女たちは決してその身体を描かれるのではなく、むしろまとっている文化に絵師たちは注目しています。当時の人々が遊女たちの毅然とした品格に対して、ある種の敬意を持っていたことも、感じとって欲しいと思います。
 また、遊廓は書や和歌俳諧、諸道具、舞踊や音曲や生け花などの集積地でもありました。多くの文化人が集い、膨大な絵画や浮世絵、文学、各種の書籍などを生み出す場となりました。「吉原芸者」という一流の芸人たちも育ちました。遊女と芸者は正月、花見、灯籠が並ぶお盆、音曲と踊りがひと月の間毎日披露される祭などの年中行事を実施していました。吉原は日本文化の集積地だったのです。そこを拠点に、さらに狂歌や戯作など多くの文学が生まれ、出版されました。江戸時代の出版文化を支えた一つの拠点になったのです。
 遊廓を考えるにあたっては、このような日本文化の集積地、発信地としての性格と、それが売春を基盤としていたという事実の、その両方を同時に理解しなければならない、と思っています。そのどちらか一方の理由によって、もう一方の事実が覆い隠されてはならない、と思います。本展覧会は、その両方を直視するための展覧会です。
 ところで、この4月からは「女性支援法」が施行されます。これは、売春女性を「更生させる」という従来の考え方から、女性たちを保護するという「福祉」へ、制度の目的を変える法改正です。しかし女性が人権を獲得するには、それだけでは足りません。女性だけが罪を問われることは、一方的すぎます。北欧やフランスでは、「買春行為」をも処罰の対象とする法律が制定されています。日本もまたその成立を目指すべきだと思っています。
 私はこの展覧会をきっかけに、そのような今後の、女性の人権獲得のための法律制定にも、皆様に大いに関心を持っていただきたいと思っています。

「大吉原展」開催にあたって:吉原と女性の人権
田中優子(本展学術顧問)

 上記の観点からも、吉原で育まれてきた文化が後世にしっかりと伝えられる機会はあまり多くなかったと考えられる。そういった経緯があるからこそ、田中は本展の開催意義を主張している。展覧会も、それらの多彩な文化を取り上げることが主目的ではありつつも、出展作品を通じて、遊女たちがどのように生き、周囲からどのような目線を向けられてきたか。吉原遊廓の発展から衰退までの流れとともにうかがい知ることができる内容となっている。

 会場は大きく分けて4つの展示室で構成されている。1階展示室の第1部では吉原の概要を、同フロア第2部では風俗画や美人画から約350年にわたって続いてきた吉原の歴史が紹介されている。

展示風景より。第1部では、明暦の大火以降につくられた新吉原の全貌が描かれた俯瞰図などがメインに紹介されている
展示風景より、福田美蘭《大吉原展》(2024)。本展キービジュアルは現代美術家・福田美蘭が担当した
展示風景より、左から喜多川歌麿《青楼十二時 続 亥の刻》、《青楼十二時 続 子の刻》。遊女の1日の様子が2時間毎に描かれている

 第2部の出展作品からは、第1部のような吉原の概要に加えて、遊女や客、その周辺を取り巻く人々といった、よりパーソナルな情報にフォーカスされていく。川又常正の《青楼遊客図》には遊女と客とのやり取りが情緒豊かに描かれているほか、鳥文斎栄之の大首絵や喜多川歌麿による「青楼七小町」シリーズからは、当時の絵師たちが遊女らに対しどのような目線を向けていたかを知ることができるだろう。

展示風景より、菱川師宣『江戸雀』第十巻(1677)。江戸時代最古の地誌であり、江戸の名所について詳細な記録がなされている
展示風景より、左から《白綸子地石畳将棋模様小袖》(17世紀、3月26日〜4月7日)、川又常正《青楼遊客図》(18世紀、前期展示)
展示風景より、鳥文斎栄之による大首絵

 作品の数々を見るに、当時の人々にとって吉原とは、少し現実離れした豪華絢爛で煌びやかな印象であったのかもしれない。いっぽうで、高橋由一の《花魁》からは、ひとりの人間としての花魁の存在が浮かび上がっているほか、河鍋暁斎は《吉原遊宴図》《薄幸物語》といった肉筆画を描き、吉原の理想と現実の両側面を浮かび上がらせている。1914年の東京大正博覧会では、20年ほど途絶えていた花魁道中を再興させ、遊客の呼び戻しを図ったが、見世物として歩かされるのは人権無視・虐待であるといった花魁側の主張は吉原の人々に大きな影響を与えることとなった。

展示風景より、手前は高橋由一《花魁》(1872)。洋画家・高橋由一は、吉原が培ってきた花魁の姿を記録すべく、当時全盛であった花魁・小稲の肖像画を依頼された。その姿が克明に描かれているものの、錦絵の美人画特有の理想化されたビジュアルとは異なっていた。完成作を見た小稲は「私はこんな顔じゃありません」と泣いて怒ったという
展示風景より、河鍋暁斎《吉原遊宴図》(1879〜89、前期)。暁斎は吉原の華やかさのみならず、痩せ衰えた遊女が新吉原から追い出され悲惨な末路をたどる《薄幸物語》を肉筆画で残しており、吉原における理想と現実を描いている
展示風景より、写真絵葉書。東京大正博覧会の際に記録として撮影され、販売や新聞雑誌への掲載もされた。当時、花魁・白縫が花魁道中は人権無視・虐待であると訴えたことは、「デモクラシー女史」であると評価されるいっぽうで、花魁道中が遊女にとって名誉であると考えていた吉原の人々に大きなショックを与えた

 3階展示室の第3部では、吉原の一角の街並みが再現された空間で、その様子を伝える浮世絵や同地で育まれたファッション、工芸、年中行事などの独自の文化が紹介されている。吉原というある種の別世界に足を踏み入れるような体験ができるいっぽうで、そこが女性の人権侵害の現場であったことを考えると、この展示空間に対して嫌悪感を抱く人も少なくはないかもしれない。しかし、そこで展示される作品や資料が示すものは、鑑賞者がそういった吉原の様々な側面について考える機会を与えてくれるものでもある。

3階展示室 展示風景より
展示風景より、手前は歌川広重《名所江戸百景 浅草川首尾の松御厩海岸》(1857)。吉原の街並みが再現された展示空間の手前には、市中から吉原に向かう道のりが描かれた広重の浮世絵が並べられている
展示風景より
展示風景より、歌川国貞《北国五色墨》(1815、前期)。吉原の5種の異なる職分の女性たちを描いたもの
展示風景より、「伝 玉菊使用三味線」。才色兼備で三味線の名手でもあった遊女・玉菊は吉原で愛された人物であったが、わずか20数年でこの世を去った。玉菊を偲んで店先に飾られた灯籠は、いつしか吉原の年中行事となった
展示風景より、手前は結髪雛形

 さらに3階奥の展示室には、人形師・辻村寿三郎、檜細工師・三浦宏、江戸小物細工師・服部一郎らによる《江戸風俗人形》(台東区立下町風俗資料館 蔵)が紹介されている。職人らの手によって細部までつくり込まれたこれらの人形や調度、建物からは、遊女たちのリアルな生活が目に浮かぶようである。360度から見ることができるため、ぜひ細部までじっくり見てみてほしい。

展示風景より、辻村寿三郎・三浦宏・服部一郎《江戸風俗人形》(1981)

 報道内覧会にて担当学芸員の古田は、「本展広報に対して様々なご指摘をいただいたものの、展示内容は基本的に変えていない。しかし、つくり上げてきた展示内容が人権に対して間違ったメッセージを出していないか? などを見直すきっかけとなった」と話す。実際会場には、絵画・浮世絵などの平面作品から工芸、文学、写真、人形、街並みの再現といったものがバランスよく紹介されており、それらを通じて吉原の遊女たちの生き方や、人々からどのような眼差しを向けられていたのかといった、吉原を取り巻く個々の人生から大きな歴史までを、ミクロとマクロの視点で見ることができる内容であったと感じる。

 なお、会場は展示作品に加え、膨大なテキストによるキャプションで構成されているため、じっくりと鑑賞する際には時間に余裕を持って足を運ぶことをお勧めしたい。

*──1618年(元和四年)に日本橋葺屋町に開設された幕府公認の遊廓。その40年後には都市整備による移転計画があり、1657年明暦の大火直後に浅草寺北の日本堤に移転してからは新吉原と呼ばれている。本展では総称して「吉原」を使用する(本展図録より一部抜粋)。