• HOME
  • MAGAZINE
  • NEWS
  • REPORT
  • 「フェミニズムと映像表現」(東京国立近代美術館)会場レポー…
2024.11.26

「フェミニズムと映像表現」(東京国立近代美術館)会場レポート。フェミニズム・アートを美術史のなかで語る

東京国立近代美術館(以下、東近美)ギャラリー4で、同館コレクションによる小企画「フェミニズムと映像表現」が12月22日まで開催中だ。ダラ・バーンバウム、出光真子ら8組を取り上げ、1970年代から現代までのフェミニズムに関わる映像表現を紹介。小規模ながら多角的で、複数のキーワードに該当する作品もあれば、作品同士の響きあいも楽しめる。企画は、同館の小林紗由里、松田貴子、森卓也、横山由季子。主担当の小林に取材した企画経緯などとあわせて展示作品を紹介する。

取材・文=白坂由里(アートライター)

遠藤麻衣×百瀬文《Love Condition》(2020)
前へ
次へ

個人的な声をダイレクトに伝えるビデオは、社会に問いを投げかけるメディアでもある

 まずフェミニズムとは何かという前提について、同展では「女性の生の可能性の拡大を求めると同時に、あらゆる性の平等をめざす思想や活動」としている。さらに、英語圏を中心とするフェミニズムの流れには4つの特徴的な波がある。第一波は19世紀末〜20世紀前半、相続権や財産権、参政権という公的な権利を求めた運動に象徴される。1960年代に始まる第二波は、男性が政治や経済活動を担い、女性が家事を担うという性別で活動領域を分ける伝統的価値観を問題視し、その構造の変革を目指した。第三波は、第二波の考えを引き継ぎながら、人種やセクシャリティなど性別以外の属性に基づく女性たちの間の差異や多様性を意識するとともに、外見や行動において「フェミニストならこうあるべき」と決めつけるのではなく、個人の自由を尊重する運動として展開した。第四派は2010年代以降、第二派、第三波のフェミニズムに学んだ世代を中心に、SNSなどのオンラインを通じて運動への参加や問題意識が共有されるようになっている。

 本展の参考文献のひとつとして、清水晶子『フェミニズムってなんですか?』(文藝春秋、2022)が挙げられているが、2022年に東近美に着任した小林は、大学院で清水ゼミに参加した経験を持つフェミニズムの歴史を学んだ第四波世代に当たり、周囲にもフェミニズムやジェンダーの視点から美術史・文化史研究や作品批評を行う学生が一定数いたという。通史として語るには東近美のコレクションはこの領域において手薄であることは否めない。年代が違う作品を緩やかに紐づけるため、「マスメディアとイメージ」「個人的なこと」「身体とアイデンティティ」「対話」という4つのキーワードを挙げた。フェミニズムやフェミニズムアートを学んだことがない人々にも入りやすいキーワードだ。

「フェミニズムと映像表現」展示風景 撮影=大谷一郎

 「企画のきっかけは、2022年度に80年代生まれの遠藤麻衣百瀬文の共作《Love Condition》が新収蔵されたことでした。ジェンダーやアイデンティティ、セクシャリティについて問いかける、様々な見方が可能な作品ですが、フェミニズムと映像表現という組みあわせを象徴する作品として見ることもできます。そこから当館のコレクションを調べてみると、当初はフェミニズムと映像という枠組でくくれる作品は少ないんじゃないかと思っていたんですが、1970年代前後に制作された映像作品のコレクションのなかにダラ・バーンバウム、マーサ・ロスラーなど、当時のフェミニズムの動向に影響を受けて制作された映像表現がいくつかあることがわかりました」(小林)。

 例えば1970年代の作品は第二派の時期に重なる。そこで「フェミニズムと映像表現の結びつきが70年代から現代までどう変遷してきたのか」「遠藤さんや百瀬さんのようなフェミニズムに関する現代の作品を美術史にどう位置付けて語れるか」を探るために企画を練っていったという。全員がフェミニズム・アートの担い手というわけではないが、いずれも自己と社会をめぐる課題に映像表現を通じて向きあっている。

遠藤麻衣×百瀬文《Love Condition》(2020)

 では、フェミニズムと映像表現はどのように結びついていったのだろうか。「1960-70年代にはテレビやビデオなど新しいテクノロジーが登場し、アーティストが作品に取り入れるようになりました。また、公民権運動やベトナム戦争反対運動など社会に対する異議申し立ての風潮が強まった時代でもありました。『個人的なこと』というキーワードで、“個人的な声をダイレクトに伝えるビデオは社会に問いを投げかけるメディアでもあるのです”と企画メンバーの松田が書いていますが、女性アーティストにとって、自分が目にしたものや自身の身体についてダイレクトに伝えられることが大きく作用しているように思います」(小林)。

1970年代から現在までのフェミニズムにまつわる映像表現

 それでは小林のコメントを交えながら4つのキーワードをたどっていこう。まず「マスメディアとイメージ」では、主にステレオタイプな女性像への違和感を表している。テレビの料理番組をパロディ化した、マーサ・ロスラー《キッチンの記号論》では、アルファベット順に調理器具を紹介しながら、家庭内労働や家父長制度への憤りが吹き出す。「当時のアメリカでは、テレビや雑誌、ドラマなどマスメディアに押しつけられる女性イメージと自身とのギャップについて議論する土壌が生まれていた、そうした時代の影響を受けているのではないかと思います」(小林)。

マーサ・ロスラー《キッチンの記号論》(1975) Courtesy Electronic Arts Intermix (EAI), New York

 また、テレビドラマ『ワンダーウーマン』を素材とした、ダラ・バーンバウムの《テクノロジー/トランスフォーメーション:ワンダーウーマン》は、お決まりの変身シーンを切り出し、テーマソングの歌詞とあわせてループ編集して見せることで、男性が潜在的に求めるヒロイン像に気づかせる。ちなみに筆者は、女性解放運動のヒロインとも言われた『ワンダーウーマン』の再放送を90年代にさして疑問も抱かずに視聴していたひとりだ。しかし今回の鑑賞で、美しさと従順さをあわせ持つヒロインの戦闘シーン+テクノロジー+星条旗の衣装という組みあわせに疑念を抱くようになった。

ダラ・バーンバウム《テクノロジー/トランスフォーメーション:ワンダーウーマン》(1978-79) Courtesy Electronic Arts Intermix (EAI), New York

 次のキーワードは「個人的なこと」。出光真子の《主婦たちの一日》は、4人の主婦が起床から就寝までの行動について、家の間取り図の上を駒を動かしながら語りあう映像作品。話者の姿は見えない。笑い声に小鳥のさえずりが重なる。小林は「字幕をつけるために皆でスクリプトを文字起こししているときに、出光さんの友人と思われる奥様たちが『また台所に自分は戻っていった。1日のうち台所にいる時間がなんて長いんだろう』などと気づく瞬間を映像で記録していることに気づいた」という。「ユング心理学を学んだ出光さんは、心理学的なセッションで自分を客観視する経験をされています。この作品でも、他愛のない日常会話のようですが、自分の行動を思い起こすおしゃべりのなかで、女性の1日のルーティンについて参加者それぞれに気づく瞬間があるんです」(小林)。

 また、固定化されたアングルで主婦たちの限定的な行動範囲を示し、“見えない家事”や“見えないケア”の多さを浮き彫りにしている。そのいっぽうで、近年の共働き夫婦においては、子供も含めて、家事やケアを生きる術として無理なく共有できれば、将来的にも協力しあう家庭観へとつながっていくのではないか。さらにその子供たちが成長した未来には、家庭や血縁に縛られない、新しい社会の助け合いの形が創出されるのではないだろうか。

出光真子《主婦たちの一日》(1979)

 さて、3番目の「身体とアイデンティティ」は同展の核となるキーワードだ。今回紹介する作家たちはいずれもパフォーマンスに近い、あるいはパフォーマンスを記録した作品としても位置づけられる。自分の存在について思考するためにビデオを用いるリンダ・ベングリスの《ナウ》という作品には、3つのベングリスの頭部が登場する。先に録画されたベングリスの頭部を映し出すモニターの前に立ち、その光景を映す映像の前にさらに立ち、「いま」「いまなの?」という声と同時に、現実と仮想空間のズレが示される。

 また、ジョーン・ジョナスの《ヴァーティカル・ロール》は、「オーガニックハニー」と名付けた、自分の分身でもある架空の女性を演じた作品。カメラとモニターの信号の周波数が同期しない場合に起こる画面のズレを利用し、一定の間隔で拍子木やスプーンのカンカンと叩く音とともに、ジョナスの身体の一部が垂直に落ちる。その様子もイメージの分裂を感じさせる。「女性の単一的なイメージを分解し、複数化したい欲求があるのかもしれません」(小林)。

ジョーン・ジョナス《ヴァーティカル・ロール》(1972) Courtesy Electronic Arts Intermix (EAI), New York

 かつてパフォーマンス・アーティストのマリーナ・アブラモヴィッチに学んだ塩田千春の初期作品もある。有機的な物質でもある泥をかぶるパフォーマンスは、人工的な都市のなかで身体の感覚を求め、アイデンティティを取り戻すための儀式のようにも見える。いずれの作家もイメージと現実のズレを逆手に取り、「見られる女性身体」のイメージからの逸脱や乖離を試みている。

 最後のキーワードは「対話」だ。4面スクリーンにそれぞれ映し出された都市の雑踏のなかを、自身を針に見立てたキムスージャが無言で見つめる《針の女》。「70年代のビデオアートに比して、空間で映像を見せることに重きを置くようになった2000年代頃の時代を象徴しているような作品だと思います。当館では2回ほど展示されていますが、以前に使った展示室よりやや小さめになるので、映像間の細かいサイズ調整などインストラクションを考えていただきました。自分自身も雑踏のなかに立っているような感覚になると思います」(小林)。筆者がかつて鑑賞した際には、川のように通り過ぎていく群衆のなかに一人で凛と立つその姿に、周囲と一人だけ意見が異なっても踏ん張るような意思の強さを感じた。いっぽう、同展の解説では、人々や風景を縫いあわせる行為のようでもあり、例え無言でも対話が生まれているようだとある。振り向かず、顔を見せないからこそ、鑑賞者それぞれに解釈を重ねられるのだろう。

「フェミニズムと映像表現」展示風景より、キムスージャ《針の女》(2000-01) 撮影=大谷一郎

 また、遠藤麻衣×百瀬文の《Love Condition》は「理想の性器」について粘土をこねながら対話を繰り広げた作品。そこから生まれた立体作品《新水晶宮》も展示している。議論に比べて軽視されがちな「おしゃべり」を掬い上げたという点で、先述した出光作品と共通点がある。「(出光さんの作品と比較して)遠藤さんと百瀬さんの作品では、問題を見つけてどう将来的に変革していくと自分たちにとってよりよい未来があるのかが対話の焦点になっていることに時代の違いを感じます」(小林)。出光作品の近所の友人関係と、遠藤と百瀬の友人関係には親密さの違いがあると思うが、小林の指摘は新しい世代の作品傾向としてうなずける。

「フェミニズムと映像表現」展示風景 撮影=大谷一郎

フェミニズム・アートを美術史の流れのなかで語る

 小林は、ニューヨークのニュー・ミュージアム・オブ・コンテンポラリー・アートで見たジュディ・シカゴの回顧展「Herstory」で、パワーを得ながらも、数世紀にわたる80名以上の女性/ジェンダークィアアーティストを紹介する最後の展示室で日本の女性作家がほぼ取り上げられていないことを目の当たりにし、研究や展示を通してもっと発信していく必要があるのではないかと感じ、その思いが企画のモチベーションにもなったという。

 今後の展開について尋ねると、「映像だけでなくパフォーマンスに関連する実践も含め、この企画を通してほかの重要な作家も見えてきたので、コレクションの拡充にもつなげていけるといいなと思っています。当館の特徴は、19世紀末から現在に至る美術史の流れのなかでこうした作品を見せられるということ。日本のフェミニズム・クィアにまつわる作品をこれからどう位置づけていくか、実験的な要素も含みながら今後もやっていければと思います」。

 会場にはほかにも当時の作家インタビューなどの資料も展示されており、一人で鑑賞して考えを深めても良いが、ほかの人と意見を交換することもおすすめしたい。自分が気づかなかったことや異なる意見に触れることで、作品とともにフェミニズムへの理解を深めることができるだろう。遠藤×百瀬の作品が示すようにフェミニズムは相手との関係性でもある。困難を伴っても、最後のキーワードである「対話」について、言葉以外の方法も含めたアイデアと行動の積み重ねがやはり必要なのだと感じた。12月15日にはトークイベントも開催されるため、ぜひこちらの機会も活用してほしい。