コレクションから考える美術館の機能。
鈴木俊晴が見た、「ヌード NUDE」展と
美術館のコレクション
イギリス・テートに所蔵される膨大なコレクションから選出された作品により構成される「ヌード」展。シドニー、ニュージーランド、韓国を巡回し横浜で開催中の本展を契機として、豊田市美術館学芸員の鈴木俊晴が美術館のコレクションと常設展のあり方を論じる。
「ヌード NUDE ― 英国テート・コレクションより」 “あいだ”と”台座”:ロダンの《接吻》と美術館のコレクション 鈴木俊晴 評
英国テートのコレクションによる本展は、これまで日本であまた繰り返されてきた海外美術館の名品展ではあるものの、こちらではあまり見る機会のないアカデミズム絵画、一級のピエール・ボナールやルシアン・フロイド、そしてエドガー・ドガ→ウォルター・シッカート→フランシス・ベーコンの系譜などなど、18世紀から2010年代までの高水準の作品群を「NUDE」を手掛かりに取り揃え、美術史的に過不足のないフレームを与えることによって、啓蒙的な姿勢と興行としての魅力をいずれも損なうことなく成立させている。ルイーズ・ブルジョワやサラ・ルーカスなど女性作家の作品が意識的に選ばれていることも見逃してはならない(とはいえ些細なことに思われるかもしれないが、2点出品されていたブルジョワの作品の両方ともに作品横の解説が欠けていたのは残念だった)。さらにいえば、新聞社が主催に入っているとはいえ、国際巡回展を単館で引き受けながら、たんなる集客目的の大規模展にするのではなく、例えば近年の「BODY/PLAY/POLITICS」展(2016)や「石内都 肌理と写真」展(2017-18)などとテーマを関連させつつ、同時開催のコレクション展も連動させて館のアイデンティティを打ち出していく横浜美術館の手堅さは特筆に値する。
キュレーションについてひとつ強調しておきたいのは、本展の目玉作品であるロダンによる大理石の《接吻》(1901-04)にたんなる客寄せパンダにとどまらない役割が与えられている点である。本作が引き連れてくる主題やエピソードは、ヌードにまつわる人間と社会のあれこれを物語るにふさわしいが、それだけでなく、ここでは口づけを交わす男女の、その“あいだ”の部分、あるいは、2人を支える台座のような部分に注目したい。この、艶やかな人体の仕上げとは違うノミの跡も露わな、しかし作品と同一の素材からなる、パレルゴンと呼ぶにはあまりに作品そのものでありながら、見落としてしまいがちな部分が、「BODY」でも「NAKED」でもなく「NUDE」だからこそ発動する、間―主体性や、あるいは、それらを様々に規定し/規定され、また支える/支えられる社会的な構造へと連想を誘い、ひるがえって他の出品作にもより深い考察へと導く。その意味で、このロダンの彫刻は本展の核としてしっかりとインストールされている。
このように既知の作品に新たな視点を付加するのはいかにもすぐれたキュレーションのしごとである。いっぽうで、それを可能にするのは、影に日向にそうした読み直しを促し続け、さらには、たんにお仕着せの教養に飽き足らず、わたしたちの生に踏み込むような視点をもたらすコレクションそのもののちからでもある。大切なのは、“あいだ”をどうつなぐか、であり、また“土台”をどう設けるか、である。美術館においても、そのコレクションにおいても、このロダンの彫刻が端的に示しているように。
ここのところ日本では美術館のコレクションの「活用」が強く望まれているが、例えば今回日本まではるばるやって来て日の目を見ているテートの出品のなかにも、普段は収蔵庫で長らく眠っている作品も多いだろうし、たとえ常設展に出ていたとしても、比較的賑わっているテート・モダンはともかく、イギリス美術の所蔵品を中心としたテート・ブリテンの、日本の平均的な美術館に比べてだいぶ広い、延々と続く、ほとんど人がいない展示室に架かっているものもある。それらは一見「活用」という観点からはまったく機能していないように思えるだろう。では、なぜそこにあり続けるのか。
逆説めいた言い方をすれば、コレクションは「活用」される前に、いったん死ななくてはならない。パウル・クレーが自作についてほのめかしたように、それは「死んで、再び成る」。仮に美術館(博物館)が墓場であれば、作品はいったん美術館に入ると、現実からいったん切り離される。そうすることで、美術のみならず、わたしたちの生そのものに、もっといえば、これまで生きてきた人々の、これから生きるだろう人々の、それぞれの生に、多方向に、多面的に関わっていく可能性を秘めることになる(*1)。
しかし、墓には当然物理的な、あるいは経済的な限界がある。したがって、そこにどのような作品が入るかをめぐって、作家、ディーラー、批評家、コレクター、学芸員、美術史家、メディア、さまざまなかたちで美術を支えようとする市民、そして未来の市民である子どもたちを含めたあらゆる力関係が展開する。その椅子取りゲームによって駆動される競争原理や議論が、ひいては作品の価値をつくり上げ、美術の歴史を紡ぐ動因となる。
ひとたび形成された価値も、しかし、決定的なものではなく、時代の流れとともに、浮かんでいたものが沈み、沈んでいたものが浮かぶこともある。墓に入れればそれで「あがり」というわけではない。さらにそこからどのような有機的な関連を生み出し続けられるかが、時間をかけてつくられる常設展の展示のなかで今度は試されることになる。
美術館の展示においては教育普及活動もその一端を担っている。例えばテートやニューヨーク近代美術館が実践しているようなギャラリーツアーはたんなる展覧会の解説にとどまらない。そこでは、コレクションの展示のなかから、数点を選び、いわゆる「美術」に限らないさまざまなトピック(たとえば「女性であること」や「市民としての芸術家」)のもとで参加者とともに対話が行われる(*2)。これは末端の現場で行われている一例にすぎないけれど、そういった活動をとおして、たえず作品の今日的な価値を問い続けるのも美術館の役割だ。今回のヌード展もまた、調査研究をはじめ、教育普及や保存修復を含めた絶え間ないコレクションの読み直しによって積み重ねられたいく層もの下地によって支えられていることを忘れてはならない。
あるときには、誰もいないような展示室の寂しさや無理解に耐え、またあるときは、激しい議論や好奇の眼差しに晒されながら、作品は次第に作家や属していた時代から離れ、展示や研究の積み重ねによって不断につながりをつくり、いつかわたしたちの公共の財産となっていく。美術館において「作品の価値を高める」とは、ほんらい、そういったお金や数字には容易に換えることのできない、膨大な時間と多くの人々との協働によってなされるものである。
逆に言えば、自分たちの歴史を編み続け、その作業のなかで一つひとつの価値を確認し、つくり上げていく、その社会参加を促す装置が美術館である。そうしたとき、現世的な、主に金銭に基づいた作品の価値付けだけを取り上げて、その方向にばかり「リード」することを美術館に期待するのは、結果として日本の文化全般に対する弊害以外のなにものでもないだろう。
日本における美術館制度は、それなりの蓄積はあれども、どう考えても十分に成熟しているとはいえない。例えば今回のヌード展に比するような「コレクション展」をいつか実現しようとするならば、上述の機能を果たすべく美術館の所蔵品と常設展の、つまり収集と公開を充実させ、保存と普及の機能を全うさせていくのが、遠いように思えたとしても結果としては近道であるのは間違いない。
とはいえ、ここのところ話題となった美術館のコレクションについての議論は、遠からぬうちに美術(館)の問題どころではなくなるだろう。いま美術館のコレクションを通して問われているのは「公共性」そのものであり、わたしたちの「歴史」である。拙速なポンチ絵を描いている場合ではない。
*1――美術館と墓場については以下を参照のこと。枡田倫広「お墓でなぜ悪い?「これからの美術館事典」のユーザーズガイドに代えて」『NO MUSEUM, NO LIFE? これからの美術館事典 国立美術館コレクションによる展覧会』展カタログ(東京国立近代美術館、2015年所収)。
*2――狭義の教育普及活動のみならず、美術館のコレクションが教育と連動する可能性についてはテートによる以下の書籍が参考になる。ロンドン・テートギャラリー編『美術館活用術 鑑賞教育の手引き』(美術出版社、2012)。