「演劇」以外で演劇をつくる実験。国枝かつらが見た「渚・瞼・カーテン チェルフィッチュの〈映像演劇〉」展
4月〜6月にかけて熊本市現代美術館で開催された、「チェルフィッチュの〈映像演劇〉」展。あらかじめ撮影された役者の演技の映像をプロジェクションで投影し、演劇の上演を行う〈映像演劇〉。岡田利規の発案によるこの美術館での「演劇作品」の上演について、キュレーターの国枝かつらがレビューする。
「渚・瞼・カーテン チェルフィッチュの〈映像演劇〉」展 フィクションを喚起する〈映像演劇〉 国枝かつら 評
チェルフィッチュの岡田利規は演劇を表現形式としてだけではなく、考え方の形式にまで拡張してその原理をとらえようとしている。その方法論は『新潮』(2018年6月号)に掲載された「〈映像演劇〉宣言」に詳しく言及されているが、そのなかで岡田は、演劇の考え方に基づきつくられたものは、それが「演劇」であろうとなかろうと演劇ととらえてみると宣言している。それはつまり「演劇」以外でも演劇をつくる実験である。
映像デザイナーの山田晋平とともに、映像というメディアを使って演劇を行うこの試みは、熊本市現代美術館で「渚・瞼・カーテン チェルフィッチュの〈映像演劇〉」展として開催された。いわゆる通常の展覧会と様相が異なるのは、岡田が脚本と演出を務める演劇カンパニー・チェルフィッチュによる「上演」という認識に基づいてつくられている点にある。会場は6つの映像プロジェクションと、岡田によって執筆された3つのテキスト「渚」「カーテン」「瞼」で構成されている。会場入口には「(以下は、あなたに与えられたセリフです。)」から始まるテキスト「渚」が置かれ、観客は岡田の言葉に導かれながらそれぞれの映像を巡ることで上演の時間を過ごす。
《The fiction Over the Curtains》は、〈映像演劇〉の本質が端的に示されると同時に〈映像演劇〉とはなんたるかを岡田自身がパフォーマティヴに思考するうえで重要な作品であったことが推測される。等間隔に並べられた4枚のスクリーンには、演技をする7人の俳優たちのシルエットが実際の背丈と同じサイズで投影されている。俳優たちは4枚のスクリーンを横切りながらフェードイン/アウトし、スクリーンから遠ざかったり近づいたりする。彼らが台詞を発する声や息づかい、足音や服が擦れ合う音は、床置きされたスピーカーから出力され、実際の会場で聞こえてくる会話や足音と断続的にシンクロナイズする。スクリーンの後ろにまわり込むと、映像を投影しているプロジェクターと照明機材が、がらんとした空間に置かれているのが見える。観客はここで、この場所に生身の俳優達は本当にいないのだと、あらためて確認することになる。
この場所に俳優達が「いる」ように感じられる感覚を喚起する仕組みが、会場構成によって明らかにされているにもかかわらず、それでも彼らが実際に「いる」ように錯覚してしまうのは奇妙な経験である。視覚的なイリュージョンとしてではなく、フィクションであると認識しながらも、同時にそれを現実の事象であると感じる観客の想像力とも言いうるものだ。「わたしにとっては演劇は、ある場において行われる上演が生じさせる、現象としてのフィクションのことだ」とは、現段階で岡田がたどり着いた演劇の原理であるが、映像演劇が演劇の上演(現象としてのフィクションを喚起する)として作用しているのは、岡田の演出の力に拠るところが大きい。
会場に入ってすぐの映像作品《A Man on the Door》では、閉じられた非常口の向こう側の光景について男が観客に語りかける映像がある。「このドアを開けたら、向こうには海岸が見えます。海岸は見えるけど海は見えません。というのも海岸に大きなコンクリートの壁が建っているからです。高さが12メートルある長い壁です……」。観客がいる場所とドアの向こうにある場所が地続きであるというフィクションは、同時にリアルでもある。熊本市現代美術館が被災したこと、その目と鼻の先にはいまも再建中の熊本城があること、そしてこの場所に観客がいるということ。上演のフィクションは、その場所のリアルと密接に結ばれ、渚や瞼やカーテンのように揺らぎながら観客のなかにリアリティを立ちあげる。
(追記)
熊本地震から2年経過した今年、熊本市現代美術館は『地震のあとで 熊本地震記録集』を発行。そこには、2016年4月14日の前震からの美術館内の様相がレポートされ、美術館職員がその活動を模索し実践してきた/いるかが収められている。