農業から見えるこの国の課題。保坂健二朗評「青森EARTH2019:いのち耕す場所 −農業がひらくアートの未来」
美術館で「農業」をテーマにした展覧会を行う。そんな試みが、青森県立美術館の「青森EARTH2019:いのち耕す場所 −農業がひらくアートの未来」だ。青森ERATHは、青森の大地に根ざしたアートの可能性を探究する、2012年に始まったシリーズ企画。この農業をテーマにする展覧会からみえてくる、この国の有り様とは何か? 東京国立近代美術館主任研究員・保坂健二朗がレビューする。
農業をテーマにした本展は、米でも野菜でもなく林檎をモチーフにした作品から始まっていた。これは興味深い事実である。
なぜ興味深いか。
もちろん、青森県にとって「農」と言えば、なにはともあれ林檎だ。県内の産出額(2017年度)をみれば、林檎は749億円。これは米の1.5倍ほどで堂々の一位。野菜のトップであるニンニクに比べれば約4倍だ。県立美術館が「農」を扱うならば、それはまず林檎で始めるべきというのは当然のことなのだろう。
また「アート」にとって林檎はなじみ深い農産物である。禁断の果実としてそれはキリスト教絵画の中に描かれ、そしてセザンヌ以降は、静物画においてもっとも重要なモチーフとなった。
となると、冒頭に林檎を持ってくることはそれほど興味深いことなんかじゃないだろうという指摘もなりたつ。
ならばなぜ私は冒頭で「興味深い」と言ったのか。それは、その林檎が絵画ではなくて彫刻によって、しかも雨宮庸介というアーティストによる、普遍的な林檎の制作をめざすプロジェクトの現段階の成果というかたちによって紹介されているからだ。しかも彼は、その普遍的な林檎を、クリーンなホワイトキューブの中央に置かれた無菌ボックスのような展示ケースの中に置いたのである。
ケースの中に入った林檎は、まるで本物の林檎のようだった。そして、そう見えればこそ、その空間は、アートの展示というよりは、SF映画に出てくるような、がらんとした科学実験室のように感じられた。その印象は、部屋の隅、より正確には部屋の壁の向こうに、少し雑然とした研究室のような空間が見えることで強化された。
ここで林檎の科学的事実を確認する必要があるだろう。おそらく一番大事なのは、日本で栽培されている林檎の多くは、自家不和合性(あるいは自家不結実性)を持っているということだ。たとえばフジとよばれる品種の林檎を結実させるためには、別の品種の林檎の花粉が必要になる。そのため、林檎の生産においては、事実上、人工授粉が必須となる。米とは異なり、林檎の生産のためには、おしべからめしべへの、第三者による授粉という営為が介在しなければならない。そしてそれは当然、人工授精という、性行為なき妊娠のための営為を想起させる(*1)。
そんなことは常識である青森県において、ひとりの男性が普遍的な林檎をつくろうとするプロジェクトが、あたかも科学の実験室のような設えで紹介されるとき、来場者は次のようなメッセージを暗に受け取ったと思うのではないか。つまり、この農をテーマにした展覧会は、性差(セックス)が隠しテーマになっているのだと。しかも、雨宮が普遍的な林檎をひとりでつくろうとしているように、性差の存在を無化するような地点における農の可能性を考えようとしているのだと。
穿った見方かもしれない。でも、穿った見方を補助線にすることで見えてくることがあるというのも事実だ。
雨宮の林檎に続く二つ目のセクションでは、詩人宮沢賢治や青森出身の思想家、江渡狄嶺(えど・てきれい)、そしてジョン・ラスキンの著作を紹介しながら、ジャン=フランソワ・ミレーや常田健、そしてザ・ユージーン・スタジオの作品が紹介されていた。
ミレーの作品は版画だ。たんに油彩が借りられなかったからかもしれない。だが結果として、来場者は、彼の作品をただ見るだけでなく、彼の作品は、版画というメディアによってこれほどまでに散種されることになったのだという事実にも思いを至らすことになる。
その流通によって何が起こったか。種を撒く人は男性であり、落ち穂を拾う人は女性であるという固定観念が生まれたのである。しかもその固定観念は、ミレー以上に人気を持つといってよいファン・ゴッホが、ミレーの絵に基づいた作品《種撒く人》をアルル時代に描いたことでさらに強化された。
実際のところ、種撒く人には女性もいた。ファン・ゴッホもズンデルト時代に素描で描いている。だがその女性の足取りは重そうに見えるし、種を撒くというよりは落としているように見える。つまり陰鬱である。だからだろう、その作品が有名になることはなかった。結果、種まく人には女性もいるのだという事実はなかなか伝わることなく今日に至る。
この固定観念を、本展に召還された常田健(青森出身で、NHKの番組を通して人気を誇る画家だ)の作品がやさしく揺さぶる。
展示室の中央には、ミレーの版画と常田の絵画が、展示ケースの中で文字通り横たえられている。ふたつとも眠る農民を描いているからいっそ作品そのものを横たえてみたということのようだが、見れば、それぞれにおける農民の在り方が異なることがわかる。ミレーのほうは、おそらくは女性であろう人物がひとり、藁の山に背を預けている。藁ということは畜産か(それも農業の一種に数えられる)。農用のフォークを手に抱えているから、作業の途中で倒れるように寝てしまったのかもしれないが、顔は見える。もういっぽうの常田の作品では、3人の人物と1匹の犬が地面に身を横たえている。人物の性別は、一番奥の顔の見える人物はおそらく女性だろうが、手前の顔の見えない2人は判然とはしない(ときどき常田の作品では性別の判然としない人物が描かれるのだがその事実もまた面白い)。枕元には一升瓶のようなものが見えるから、一杯やった後に寝込んだものと見える。
このふたつが並べられることで、見る者は、なぜ寝ている農民に女性という性が与えられたのかと考えることになる。そして、農業における女性の存在が気になり始めるだろう。
日本の農業における女性の就業率は高い。全体においては半数以上、50~64歳の階層においては男性を上回っている(農林水産省による資料に基づく*2)。しかし、農業委員や農業共同組合における女性の役員の割合はともに直近のデータで7.2パーセント。これが意味することはあまりにも明白である。男性は女性の声を、権利を、奪っている。
そしてその現実は、続く三つ目のセクションにおいて、丹羽良徳の三面スクリーンによる新作の映像作品が、ほとんど偶然と言ってよい形で映し出される。
今回丹羽は、耕作放棄地のリサーチを通じて、土地の所有という問題を浮上させようとした。プロジェクトのメインとなるのは、丹羽=アーティスト=部外者と、農地の管理に従事する農業委員会のメンバーや行政のスタッフによる座談会。しかも丹羽は、催眠術師の力を借りて、各人がそれぞれの意識を交換することで新たな議論を生み出そうとした。当然、様々な失敗が生じ、それも含めての作品=映像となっている。
すぐに気づくのは、その座談会に女性がいないことだ。催眠術師も男性。映像の中に女性が皆無だというわけではない。映像の後半、催眠術を受けた丹羽が美術館の中を歩くシーンで、スクリーンのひとつに女性が登場する。彼女は、丹羽が書いたテキストを、マイクを通じて美術館内に放送する。彼女の声は広まるが、しかしその言葉は自らのものではない。
興味深いことに、丹羽の映像作品には、農業従事者を主要な支持者としていることで知られる政党の党首も映り込んでいる。選挙活動で青森に来ていたのだろう。党の職員や現地の政治家らしき人もいる。もちろん全員男だ。そしてBGMはもちろん、あのウグイス嬢と呼ばれる人の声。
農によって支えられている(はずなのだが結果としては農を支配する権力を持つことになっている)システムにおいて、いかに女性がその正当な権利を、声を剥奪されてきたかについて、来場者は考えることになる。
この国は、農という営みにおいてすら、事実上の性差別を保持し続けるつもりなのだろうか(*3)。性差や土地の所有から自由になったところで農を営むことはできないのか。
そうした問いに対する回答を、本展は、後半に、きちんと用意している。オル太によるインスタレーション、浅野友理子による、救荒植物の栽培に基づく絵画、そして大小島真木による大型絵画である。
とりわけオル太は、位置的にも意味的にも本展におけるターニングポイントの役割を与えられていると言ってよい。
オル太は、井上徹、川村和秀、斉藤隆文、長谷川義朗、メグ忍者、Jang-Chiの6名からなるアーティスト・コレクティヴである。彼らは2019年の米づくりの季節に、千葉県北東部にポータブルな小屋を建設した。そこは、農作業を行うとともに、土器や版画の制作を行う場所となった。そして収穫が終わった後、その家は解体され、燻蒸を経て、美術館に運び込まれ、再び展示室内に建設された。
そんな彼らの作品が投げかける問いを解釈するためのポイントは、(1)彼らが家族という血縁関係にあるのではなくてコレクティヴであること、(2)小屋が建てられたのが、いわゆる不耕作地であり、かつまた彼らはそこに永住するつもりはないこと、(3)彼らの版画制作のモチーフはあくまでもそこでの生活に基づいていること、(4)そこで「大嘗祭」という名の祭りが行われたように、彼らは日本の祭りをサーヴェイしてきたこと、にある。とりわけ、(1)と(4)のポイントは、本展の流れ、すなわち農における性差の問題を超克する可能性を検証しようとする流れの中でより深く考えることができるようになっている。私なりの解釈を以下にあげておこう(各番号は先のポイントに対応している)。
(1)家族という社会においては、性差による役割分担が発生しやすいが、コレクティヴという集団が農を行う場合は、それを回避できるのではないか?
(2)仮説の小屋を移動させることによる一過性の農業が認められるのであれば、土地の所有や小作権といった問題を回避する形で、不耕作地という全国的な問題を解決できるのではないか? 遊牧民ならぬ遊農民という生活形式を考える必要があるのではないか。
(3)生活を自然へと再接続することが、芸術の再生につながるのではないか?
(4)現在の多くの祭りは、農業をはじめとする伝統的なムラの在り方に根ざしているがゆえに性差による役割分担を補強しやすいが、それを打ち崩すためにも、新しい祭りを創出することが必要ではないか。
これらの問いをあえて一言でまとめれば、いまこそ、まつりごと(政)を個人の手にもう一度取り戻すべく、農と現代美術、それぞれのフィールドが培ってきた叡智を、交換し融合させる必要があるということになるだろう。そして、そのきっかけを、ひとつの美術館のひとつの展覧会がつくった。この事実を見逃してはならない。
*1──もっとも最近の青森では、人工授粉からマメコバチによる授粉にシフトしていて、それは本展でも、塚本悦雄の作品を介して紹介される。また余談だが、人工授粉に用いられる機器のうちポピュラーなものの名前は「ラブタッチ」という。
*2──以下の資料に掲載されたデータに基づく。http://www.gender.go.jp/kaigi/senmon/jyuuten_houshin/sidai/pdf/jyu02-1-6.pdf
*3──前の註であげた文献が示すように、農林水産省自体は、農業他における女性の地位の向上について明確に問題意識を抱いている。