描かれた風景写真が追い求める「突然の無意味」とは? 中島水緒評 城戸保「駐車空間 / 絵画建築 / 案山子」展
郊外や住宅地などの身近な風景を対象に、鮮やかな色彩や陰影が形づくる構図が印象的な写真家、城戸保。 その4年ぶりとなる個展がHAGIWARA PROJECTSで開催された。絵画画面を思わせるその表現の背後にあるものとは? 美術批評の中島水緒が論じる。
無意味を構築する
ギャラリーに足を踏み入れた途端、色鮮やかで奇抜な写真群に四方八方を取り囲まれた。庭に打ち棄てられて植物に浸食されるがままの廃車、なぜか横倒しの状態で平面的な意匠を強調するパチンコ屋の看板、迷彩柄のごとくからだの白黒模様を周囲の景色に紛れ込ませた牛たち。どうやらカメラの目は人間不在の場に放逐されて経年劣化した事物──とりわけ廃車やトタン壁の金属的な錆つき──に向かいやすいようなのだが、古色の風合いだけでなく、植物のフレッシュな緑、底抜けの青空、ペンキ塗装の人工的な色彩なども好んで採集しているようだ。
どこか不自然で、ときに合成や加工かと見紛うようなイメージが、意表を突く取り合わせでドッキングされ、兎にも角にも過剰な明るさのなかでギラついている。そこでは自然と人工、作為と無作為がまだらに入り混じっているのだが、どの写真も一枚の画(え)としての構図の完成度を崩すことがない。「駐車空間」「絵画建築」、そして「案山子」。HAGIWARA PROJECTSにおける城戸保の個展は、近年、城戸が関心を持っているという3つの題材を扱うものであったが、テマティックな分類はさておき、写真家がどの程度まで画面構成をコントロールしているのかという作為の度合いに興味を惹かれた。ギャラリーが発布したプレスリリースによると、城戸は「突然の無意味」と自身が形容する「思いがけない風景や状況との出会い」に関心を持っているようだが(*1)、主体の意図を超えた「突然の無意味」とは、演出なしにこうも都合よく写真家の目の前に表れ続けるものなのだろうか。
以前、城戸は自身の制作態度についてある比喩を持ち出していた。写真家の自分がやるべきことは、「写真の本質」のストライクゾーン(ど真ん中)に、ただひたすら豪速球を投げ込んでいくことだけなのだ、と(*2)。なるほど確かに今回の展示を見ると、1点1点の完成度の高さから、そのつど手を抜かずに取り組む豪速球の連発ぶりが伝わってくる。おそらく城戸の制作のミッションは、主体の意図的な操作を離れたアクシデンタルな状況に全力で挑んでいくことにあるのだろう。しかし、写真作品の制作において、無垢に目の前の光景を受け止めるだけということはまずありえない。「突然の無意味」を求める制作態度は、「偶然に起こるはずのものを期待し続ける」といったどこか不純で相矛盾した動機を伴うのではないか。豪速球を投げ続ける行為がいつか隘路に陥ってしまうのではないかと余計な心配を抱いてしまうのだ。
疑念はすぐさま晴れる。というのは、城戸の写真が様々な技巧を尽くしてこの急所をオフェンシブに転化させているからだ。
偶然を迎え撃つ。あるいは、偶然を事前・事後的に構成する。アクロバティックなかまえを要求するこの難事に際し、鍵となるのは城戸の写真における「絵画性」だ。城戸の写真が絵画的な構成を持つことは、これまでも多くの鑑賞者が認めるところであり、そのルーツを画家の櫃田伸也に師事した愛知県立芸術大学時代に見出す説明はいくらでも可能だろう。いまさら指摘するほどのことではないが、それでも城戸の写真の「絵画性」に改めてふれておかなければならない。
例えば《抽象表現主義的な家》(2020)と題されたいかにもなタイトルの写真作品。トタン壁のストライプに抽象的なリズムを、《ドラム缶の水たまり》(2019)の廃棄物の錆びつきに絵画のマチエールに相当する物質性を見出すことは容易である。《影領域》(2020)のダイアゴナルに射し込む影がつくり出す端正な構図、《千華》(2021)の背景に現れる黄色と赤の絵具の塗りのような色面も、絵画的感性の賜物と言える。ただし注意が必要なのは、城戸が絵画表現の代替物として写真を選んでいるわけではないということだ。絵画で出来ることは絵画でやればいい。写真に絵画性が導入されるのは、写真を一点もののアウラを備えた「アート」へとロンダリングするためではないのだ。つぶさに観察すれば、そこには絵画的な物質性を惹起する色層とセルロイド質の透過層が干渉しあう複雑なレイヤー構造が見てとれるはずである。つづめて言うと、城戸の写真では絵画性と写真性とがどちらに主導権を渡すこともなく相克している。偶然性を導入する受動的態度と構築の意志が絶妙な配合で錯綜していると言い換えてもいい。これらの作品に見出せるのは、写真の写真らしさを絵画性の侵入によって問うメディアの自己批判的な手つきなのではないか。だからこそ逆説的に、城戸の写真は写真でしか成し得ない事態を創出しているように見えるのだ。
デジタルではなくフィルムカメラを使用する城戸にとって、写真が感光によって像を出現させる光学的装置であるという前提は、作品の外観にも織り込み済みであるべきものなのだろう。いくつかの作品で確認できるのは、画面の絶妙な位置に干渉する自然のものではない光の帯である。極薄のフィルムを思わせる半透明の帯は、カメラの裏蓋を一瞬だけ開けてフィルムを感光させることで人為的につくり出す光学的なアクシデントの痕跡なのだが、撮影後に行われるこのような技巧もまた、作為と無作為がせめぎあう緩衝帯を探るための一工夫と見做せるだろう。興味深いことに、ほどよい具合にフィルムが感光するとは限らないため、城戸は同じ場面を撮った写真を何枚も用意しておき、光の帯がもっとも良い具合に走っている一枚を選んでいるという。城戸の写真を見るうえで、一枚の写真の背後に多数の失敗が潜在しているということ、鑑賞者のもとに届けられるのは選りすぐりの偶然であるという事実は見逃さずにいたほうがよい。なぜならそれは、「突然の無意味」を完全にコントロールはしないが、偶然を事後的に判断・選別するという主体的な意志と美的判断が存在することの証左であるからだ。
写真家の掌中で引き起こされる小さなアクシデント。写真が台無しになる手前までアグレッシブに構図を攻めていくこの実験が端的に示すように、城戸の写真に出現する偶然にはいくつものレベルがある。城戸の写真の要諦は、絶好のシチュエーションを引き寄せる天賦の才などでなく、写真に混ぜ合わされた「絵画性」の度合いをコントロールする構成力、すなわち偶然のハンドリング技術にこそ見出されるべきなのだ。
それにしてもなぜ、案山子なのか。「駐車空間」「絵画建築」という、二字熟語のペアをぶっきらぼうに連結しただけのタイトルが、城戸の写真のライトモチーフと密接に関わっているのはよくわかる。それらは「突然の無意味」が到来する舞台を端的に示す題材だ。他方、「案山子」の出現はあまりにも唐突である。ひとつは人間不在の光景における唯一のフィギュラティブな被写体であるという意味において。もうひとつは案山子がわざとらしさと紙一重のユーモアとペーソスをまとっている点において。
案山子は無能の象徴でもある。文字通りの「無脳」であった『オズの魔法使い』の案山子を引くまでもなく、本来、禽獣を追い払う役割を担う田畑の案山子は、動物たちの「慣れ」によって威嚇の力を次第に損なっていく弱点を持つ。城戸の写真に登場する案山子たちはつくりが質素で劣化が甚だしいものも少なくない。案山子をもはや虚仮おどしとしても通用しない機能不全の監視の目と見做すならば、無意味に無意味を重ねる乾いたアイロニーをこのモチーフに見出すことも不可能ではないだろう。屋外での撮影(とりわけ人の姿が写り込むスナップショット)がやりにくくなったと写真家たちがこぞって嘆く今日の監視社会において、案山子のような超アナログの(しかも無能の)監視役がフューチャーされる写真というのは、時代と逆行していてなかなか小気味よい。
加えて、写真が光と影の芸術であるという原点を思い起こし、太陽光との関係性において案山子を考えてみたい。遮蔽物のないだだっ広い場所にいつまでも駐留し(放逐され)、太陽光の直撃をもろに浴びてダメージを受けていく案山子は、いわば長時間の露光に晒され続ける「写真的」存在である。ピーカンの日、強い光があまねく行き渡る時間帯に撮影された案山子たちは、からっとしたユーモアを上澄みにあぶれさせながら劣化した外観に斜陽の気配をも宿す。案山子はいまや絶滅危惧種であるフィルムカメラと同様に、真昼の絶頂の光を一身に受けながら滅びを象徴するのだ。案山子は感光剤の化身である、と言い切れば妄想が過ぎるかもしれないが、案山子こそ城戸の写真をアイロニカルに俯瞰するメタ・モチーフなのだから、そこには写真家が目指す無意味のみならず、写真というメディアや写真装置そのものへの自己批判性も読み取れるはずである。
もっとも、特定の被写体への過度の依存は写真にマンネリをもたらす危険性がある。「突然の無意味」を求める態度に自己反復はそぐわないし、重要なのは「何を撮るか」ではない。光と影、写真と絵画の織り成す綾が次に捕獲するものは何か。「駐車空間」「絵画建築」、そして「案山子」。その先に待ち受ける新たなヴィジョンを知りたい。
*1──本展のプレスリリースを参照。
*2──2014年にHAGIWARA PROJECTSで開催された個展「ある風景」のプレスリリースを参照。