表現者・飴屋法水の演出を紐解く。
椹木野衣が見た、演劇『を待ちながら』
9月17日〜10月1日に「こまばアゴラ劇場」で『を待ちながら』が上演された。作を小説家の山下澄人が、演出を劇作家であり現代美術家でもある飴屋法水が手がけた本作を、椹木野衣がレビューする。
椹木野衣 月評第112回 『を待ちながら』作:山下澄人 演出:飴屋法水 家と転・生
取り上げたのは演劇だが、劇評のための場ではない。原作は小説家の山下澄人が書いたが、公演は飴屋法水の手で演出されている。表現者としての飴屋の意図が強く反映していて当然だろう。ここではそれについて書く。
全身血まみれで腸を引きずりながら一輪車に乗る少女の亡霊は、ブライアン・デ・パルマの映画『キャリー』を思わせ、誰の目にも衝撃的だ。しかし私は即座に別のものを連想した。映画作家、大林宣彦が東日本大震災後に発表した映画『この空の花 長岡花火物語』(2012)に登場する、空襲で死んだ一人の少女だ。
本作で飴屋の関心は一貫して大林へと、正しくは大林と深いつながりを持つ「こまばアゴラ劇場」へと向けられている。下見のため劇場へと足を踏み入れた飴屋が強い印象を受けたのは、楽屋に残されたままになっていた大林の16ミリ映画『廃市』(1984)の色あせたポスターだった。だからだろう。公演で来場者が導かれる動線はこのポスターの前を通過する。
実は、いまでこそ芝居小屋として知られるこの建物は、現在のオーナーである平田オリザの父、いまは亡き平田穂生(さきお)が、日本で初めての16ミリ専門の映画劇場をつくろうと思い立ち、大借金を背負って竣工した。建物は完成したが、興行上のしきたりで目論見は頓挫。その初回の上映候補が『廃市』だった。やむなく劇場は芝居小屋に転用され、時を経て穂生は亡くなり、やがて息子のオリザが継ぐことになると、ポスターだけがまるで念のように壁に残された。
穂生はなぜ16ミリにこだわったのか。若きオリザの父は1960年代初期、個人映画(インディペンデント・シネマ)の勃興期だった。彼らが一念発起して応募した作品群はベルギーの国際実験映画祭で揃って審査員特別賞を受賞する。大変な画期だった。しかし当時の日本に16ミリをかける場はない。穂生にとってその凱旋上映は、若かりし日の夢そのものだった。
そのとき穂生が出品した映画はタイトルを『家』(1963)といい、現在のこまばアゴラ劇場の前のさらに前に建っていた古家を取り壊す様子を16ミリ映画に収めたもの。所在がわからなくなり、幻となっていたこの映画を、飴屋は楽日までにベルギーから取り寄せようとしていた。もしも間に合ったなら、芝居の終盤で寝台の上に投影される空白の光は、この『家』になっていたかもしれない。
映画『家』は、やがて大林の商業映画デビュー作『HOUSE ハウス』(1977)へと「転・生」し、20年の時を経て「こまばアゴラ劇場」(1984開館)として復活した。そういえば、飴屋が長いブランクのあと劇場に復活した演目『転校生』は平田オリザの原作で、しかもオリザと大林は甥-叔父の関係に当たる。大林の代表作が心と体が入れ替わる=転生する『転校生』(1982)だったのは、果たして偶然だろうか。
結局のところ、『を待ちながら』を通じて、「こまばアゴラ劇場」では、いったいなにが待たれていたのだろう。私にはそれが、ベルギーから到着するはずの、かつてのおのれの姿であり、「(古里)映画」でもある穂生の『家』そのものであったように思えてならない。
(『美術手帖』2017年12月号「REVIEWS 01」より)