ミヤギフトシ連載19:宇多田ヒカル『宇多田ヒカルの言葉』歌詞が見せる風景と新宿
アーティストのミヤギフトシによるレビュー連載。第19回で取り上げるのは、歌手の宇多田ヒカルがデビュー20周年に際して発表した歌詞集『宇多田ヒカルの言葉』。ミヤギにとっては新宿の風景と結びついてきたという、宇多田作品にまつわる記憶をたどる。
宇多田ヒカルの音楽を聴くようになったのは、沖縄の高校を卒業して大阪で暮らすようになってからだった。ちょうど「Wait&See 〜リスク〜」や「For You/タイム・リミット」が、少し置いて「Can You Keep A Secret」、そしてアルバム『Distance』がリリースされた時期だ。大きな街で暮らし始めた私に、PVの写す近未来的な渋谷の風景や、歌詞で描かれる人混みの様子はしっくりきた。しかしその時点で私にとってそれは心地よい、またはかっこいいだけの音楽だった。
いろいろなポップソングで歌われる男女の(だと勝手に当てはめて解釈していた)関係や恋愛は自分に無関係のことだと諦めていたのだろう。いま振り返れば、少し残念な十代の過ごし方だったのかもしれない。そのような音楽に対する態度に変化が起きたのは、ネットを通じてセクシュアル・マイノリティの人たちとつながり始めた頃だった。当時ネットを介して知り合った人たちの多くは、宇多田ヒカルの音楽に夢中だった。自らの境遇や人間関係を彼女の音楽に重ね、歌詞について言葉を交わしていた。
つられるように『Distance』を買って、聴いた。「Can You Keep A Secret」や「For You」の歌詞風景が鮮明になった気がした。それから、アルバム『First Love』も聴いた。表の世界から隠れるように、会ったこともない誰かとネットを介して交流している自分に、彼女の歌詞が見せてくれる秘密めいた夜の室内の風景は、居心地が良かった。
ファーストやセカンドアルバムではモノクロームの夜や灰色の都会風景、寂しげな部屋を思い浮かべることが多かったけれど、『Deep River』の頃になると風景は色味を増してゆく。「Travelling」や「東京NIGHTS」、「プレイ・ボール」が想像させる夜の風景もきらびやかだ。ちょうどその頃、誘われるままに、ネット越しに交流していた人たちに会いに東京を訪ねて夜の新宿で遊んだ。ある人は「DISTANCE」の歌詞について熱っぽく語り、初めて行ったクラブでは、小学生時代の友人とすれ違った気がした。人違いだったかもしれない、確かめなかったからわからない。その記憶をもとに書いたシーンが、「アメリカの風景」という小説にある。主人公は、「ハイスピードカメラで撮られた映像のように妙にゆっくりと光が消えてゆく様子を、宇多田ヒカルのPVみたいだと妙な感想を抱きながら見ていた」。私の作品にやたらとタバコが登場するのも、この『First Love』の影響が少なからずあるような気がしている。いつの間にかに、二十歳ごろの自分と奇妙な結びつきを持ってしまった音楽。
ある音楽をイヤフォンで聴きながら、例えば車窓からの風景を眺め、その風景と音楽が結びついたと気づく瞬間がある。以降、その音楽を聴けばその風景を思い出す、というような。東京への旅をしてから、彼女の曲を聴いて私が思い浮かべる街は新宿になってしまった。きらびやかな夜の街、または、仕事に向かうきれいな格好をした人々が行き交う早朝の新宿駅前……。1泊ほどの滞在で見たその風景の記憶が音楽と結びつき、ごく個人的な音楽を聴くという行為を豊かなものにした。
とはいえ、その後アメリカに留学したため、次に発表された『ULTRA BLUE』は聴く機会がなかったし、『HEART STATION』は買ったけれど、当時は引っ越してきた東京での暮らしに馴染むことに精一杯で、その歌詞が描く情景にうまく溶け込めないところがあった。なんとなく彼女の音楽と距離を保ちつつ、東京に来て10年近くが経った頃、『Fantôme』がリリースされた。その音楽の静かな佇まいに、懐かしさを覚えた。改めて過去作を聴いていると、彼女の歌を聴いて思い浮かぶ東京は2000年頃のそれではなく、引っ越してきて以降のものが増えていた。東京で最初に住んでいたのは阿佐ヶ谷と荻窪の間くらいの場所で、中央線もよく使っていた。新宿駅を出ると見えてすぐにビルに隠れてしまう風景が好きだった。当時は新宿三丁目にジュンク堂もまだあって、近くのディスクユニオンや新宿武蔵野館などとあわせて通っていた。音楽を聴きながら、東京で眺めてきたそのような風景を思い浮かべる。
『宇多田ヒカルの言葉』(エムオン・エンタテインメント、2017)に掲載された、「Never Let Go」から「あなた」までの歌詞を読んでいると、ふたりの関係、その距離感を探っているような初期作では、みんなについて歌っていても、多くの場合ふたりはいつもそのコミュニティに馴染めずにいるようだ。そこから離れようとする。この馴染めなさに、二十歳の頃から共感を覚えていたのだろうと改めて感じる。『ULTRA BLUE』や『HEART STATION』では社会や生活の断片が見えるけど、『Fantôme』では、様々なふたりの関係が強く意識させられる。私とあなた、僕と君といういくつもの関係が歌われ、時にその関係は「私たち」へと引き継がれる。
書かれた順に並べられている本書、『Fantôme』収録曲を見ると最初にできたのは「桜流し」、次が「真夏の通り雨」らしい。それからさまざまなふたりの物語が書かれ、「道」は最後から2番目にでき上がったということを知る。IやYouがほとんど出てこない今作で、Iが使われ、「You are every song」と歌われる。このIとYouは、私・僕・あなた・君などを経た末にたどり着いたのかな、などと制作のプロセスを想像してしまう。
広がる風景の鮮やかさやふたりの距離の物語性は、本書の最後あたりに掲載されている「大空で抱きしめて」の歌詞からも強く感じられた。冒頭に主語はなく、次に僕が君に向けて語り、そして私があなたに向けて語っている。僕と君は出会うことがないし、私とあなたも出会わない。改札口から空の見える場所、そして空への移動を想像させるこの曲の「晴れた日曜日の改札口」という歌い出しを聴いた途端、私はまた新宿駅を思い出す。東南口あたり、少しひらけた広場。
そういえば東京に引っ越してきて以来、新宿の写真を意識して撮ったことがないな……と気づき、カメラを持って新宿に出かけた。夕方、雨が降ったり止んだりしていた。二十歳頃の自分もカメラを持っていて、1泊2日の滞在中に東京の風景を撮影していたはずだけど、何を撮ったか思い出せないし、ネガがどこにあるのかもわからない。あの頃から、そして東京に越してきた頃から、新宿の風景もずいぶん変わった。かつてはよくゴールデン街で飲んだし、二丁目に行くこともいまより多かった。でも、田園都市線沿いの町に引っ越して新宿からは足が遠のいてしまった。好きだった新宿の風景をたどるため、まず新宿タカシマヤに向かった。たしか、高層階から線路や新宿南口あたりが見下ろせたはず。でも、上層階の庭園に出てもそのあたりは見えない。そして思い出す。私が好きだったその眺めは、男子トイレからの眺めだった。11階にあった映画館で映画を観た後、そこから夜の風景を見ていた気がする。さすがにトイレでカメラを取り出すこともできず、タカシマヤを後にして東南口のあたりに向かう。ごちゃついていた印象の南口周辺もだいぶすっきりしていた。東南口広場の風景はそんなに変わっていない。歌舞伎町あたりは東宝のビルが聳え近未来然として見える。点り始めた明かりが雨に濡れた道路に反射して、いつもより街をきれいに見せていた。
歩きながら、言葉が見せる風景についてぼんやり考える。最近は長めの物語を書く機会も増え、執筆する際に頭の中で映像を組み立て、その光景を文章にしてゆく、という感覚を得るようになった。その光景は、読む人それぞれが思い描くものとは異なるだろう。そしてきっと、映像作品をつくるときも似たようなプロセスを経ている。物語の筋がぼんやりと浮かび、それに近い風景を探し撮影して、スライドショーのようにつなげ、物語を仕上げてゆく。三脚に固定され動くことのないカメラで撮影された映像の、フレーム内に写っていないものをどう観る人に想像させるか、などと考えながら。書かれたこと、写されたことの外に広がる風景。例えばそれは私にとって、宇多田ヒカルの音楽が見せてくれる新宿なのだろう。本書の前書きには、こんなことが書かれていた。
大人になるにつれて、自分の経験がより直接的に歌の題材になることが増えていっても、作詞というプロセスの中で自分を「とある風景」の中の「とある人物」に落とし込むことに変わりはない。 宇多田ヒカル『宇多田ヒカルの言葉』(エムオン・エンタテインメント、2017)
高いところからの眺めを諦められず、初めて都庁の展望室を訪ねた。すっかり夜になっていて、これが「東京NIGHTS」の東京か……などと考えたりする。雨のため、遠くのほうは霞んで見えない。室内照明の反射と格闘しながら、外の風景を撮影した。窓に流れる雨粒にマニュアルでフォーカスを合わせると、後ろで夜景が滲んだ。