ミヤギフトシ連載13:「アメリカの風景」 何かに触れずに、それについて語ること
アーティストのミヤギフトシによるブックレビュー連載。今回は、『文藝』(河出書房新社)2017年夏季号に掲載された初めての小説作品「アメリカの風景」について、ミヤギ自身が語る特別編。小説の舞台でありミヤギが子ども時代を過ごした土地、沖縄・那覇の風景とともに、物語の背景を振り返ります。
今年の2月、「アメリカの風景」の校正を重ねていた頃、物語の舞台となった那覇を改めて歩いてみた。記憶違いがないか確かめたかったのはもちろん、久しぶりに小学生の頃少し住んでいた泊地区を中心に歩いて、その風景を写真に収めてみたかった。撮影には、LOMO LC-Aを使いたいと考えていた。LOMOは、二十歳の頃に僕が初めて買ったカメラで、それを使って住んでいた大阪の街や、帰省の際に沖縄の風景を撮っていた。ニューヨークに留学してからもしばらく使い続けていたはずだけど、いつの間にか見なくなった。あんなに大切にしていたはずなのに、一眼レフ、中判カメラ、そしてデジタルへと移行するなかで、どこに置いたのか、どうしたのかもすっかり忘れてしまった。
いまになってフィルムに戻るのも気が引けたので、LC-Aのレンズ部分がMマウントの交換レンズとなって発売されたロシア製のMinitar-1と、同じくロシアレンズであるJupitar 3の中古を手に入れ、それを手持ちのミラーレスカメラにつけて撮影することにした。撮影してみると、Minitar-1はLC-Aよりも周辺がだいぶ流れてしまう、かなり癖のあるレンズだった。Jupitarのほうはだいぶ大人しく、自然とこちらを使いがちになる。どちらも日頃使うレンズよりもずっと描写が甘くて、それが新鮮だっし、記憶とフィクションがないまぜになった土地を巡る散歩のお供としてはぴったりだった。
「アメリカの風景」の舞台は、1990年頃と1997年頃の那覇、そして2000年頃の大阪と2005年のアメリカだ。1990年代、僕が小学生だった頃、那覇には「天久開放地」と呼ばれるフェンスで囲われた広大な土地があった。ちょうど当時、開放地に隣接する泊に住んでいたこともあり、その風景はおぼろげながら覚えていた。でも、フェンスの向こうに何があったのかは、入ることができなかったので知りようがなかった。いまではその土地も新都心として開発がなされ、沖縄県立美術館・博物館やショッピングセンターなどが建ち並ぶ大きな街になっている。かつて、あのフェンスの中には何があったんだろう……。そう想像してみることから、「アメリカの風景」が広がっていった。かつてそこにあったかもしれない黄金の草原を想像することから始まり、クリスとジョシュというふたりの主要な登場人物が浮かび上がってきた。
歩いてみると、あらかじめわかっていたことながら風景はだいぶ変わってしまっていた。通っていた高校も新校舎になり当時とはまったく違う姿になっていて、久茂地川沿いに走るレールの高架もすっかり那覇の風景の一部に溶け込んでいる。何よりここ1、2年の間に国際通り周辺の風景は大きく様変わりした。タワーレコードの入っていたOPAも、那覇タワーも、大好きなカレードリアを出すレストランがあった三越もなくなった。希望ヶ丘公園や緑ヶ丘公園など、公園だけが当時とさほど変わらないままで残っていた。そこから眺める風景はもちろん変わっていたけれど。泊は、小学生の僕が思っていた以上に小さな町だった。なだらかに傾斜を描く細い道の向こうにはいまもあの頃と同じ姿のホテルが建っているけれど、パレス・オン・ザ・ヒルという名前は変わってしまった。それから泊港方面まで歩き、ルビーでBランチを食べた。量が多くて残してしまい、ちょうど小説内の「僕」が選んだようにCランチでも十分だった、と後悔する。お昼の後は、そのまま国道58号線を通って新都心を歩いた。
作中では言及されていないけれど、現在新都心となっている場所は沖縄戦の際、「シュガーローフの戦い」と呼ばれる激しい地上戦が展開した場所でもあった。日本軍にとっては首里防衛の要であり、日米双方に多くの死者が出たという。戦後、米軍に接収され兵士や家族の居住区として使われたあと、70年代から80年代にかけて段階的に返還され、僕たち一家が泊に引っ越した頃にはすでに開放地となって、建物は見当たらなかったように覚えている。シュガーローフの丘には現在、給水塔が建っており、たしかそれは新都心の開発初期から存在していたはずで、現在も新都心のいたる所からその姿を見ることができる。
小高い丘に近づいてみると、上まで登れることを初めて知った。給水塔の周りには歩道が整備されていて、ぐるりと回ってみる。思ったよりも眺めがよく、首里方面の街並みが眼下に広がっていた。丘のふもとには森や草むらが少しだけれども残っていて、冬だったせいか、草むらは小麦色に枯れていた。LOMOレンズで撮影してみると滲んだような描写で、目の前の風景を記憶の靄で覆ったようなイメージになる。それはどこか小説内の草原をも連想させたし(夕暮れどきにはもしかしたら黄金色に輝いているかもしれない)、かつてフェンスの反対側から眺めていた開放地の風景とも似ているような気がした。
丘の上にはシュガーローフの戦いについて記述した小さな碑があるだけで、ここが戦跡であるとは一見わからないし、周りの風景も戦時中・戦後の記憶を留めているようには見えない。このようにして、薄れてゆく記憶が沖縄のいたる所にあるのかもしれない。天久開放地をネットで検索してもそれほど多くの情報や画像は出てこない。それならば、記憶の中の解放地を、そして那覇の街を記しておきたい。そのうちに、僕もそれらの風景を忘れてしまいそうだったから。
一通り小説の舞台となった場所をまわったあと、その日は旧パレス・オン・ザ・ヒルに宿泊することにしていた。子どもの頃、足を踏み入れることが叶わなかった丘の上の城。ホテルは、シュガーローフの丘や県立美術館・博物館があるあたりから歩いて数分、思っていた以上に近い場所にあった。部屋からは、泊、そしてその向こうに広がる那覇の街並みが見えた。反対側の部屋からは、かつて開放地の風景が見えたのだろうか。
一日歩いてみて、自分の記憶と自分が書いたフィクションが混ざり合ってゆくような不思議な感覚を覚えた。記憶の中の土地を歩きながら、またフィクションの中の土地を歩いていた。土地や建物などの記憶違いなどはさほどなく安心する。でも、ひとつだけ事実にはない場所があって、それはクリスとジョシュの住む赤い屋根のマンションだった。クリスもジョシュも実際には存在しないし、モデルとなった友だちがいたわけではない(「薬」と呼ばれていたクリスという男の子は、たしかにいたけれど)。彼らのような存在が当時いてくれたら……と想像しながら書きはじめ、彼らに導かれるように記憶をたどって物語を進めていった。そこに、《オーシャン・ビュー・リゾート》(2013)や《ロマン派の音楽》(2015)といった映像作品のリサーチやインタビューの記憶も混じりこみ、《いなくなってしまった人たちのこと》(2016)に登場したニルスが入り込んできたり、「American Boyfriend」の世界に、またひとつ新しい物語が立ち上がる感覚が確かにあった。
日が暮れて、夜になる直前の青く澄んだ空気と、暖色の灯がともり始めたコンクリートの建物群との対比がきれいで、この風景を素直にきれいだと思えるまでに、とても長い時間がかかったこともまた思い出す。 沖縄にいた頃は、いつも外に出てゆきたいとばかり考えていた。ここ最近は、「留まる」という選択肢についてもずっと考え続けている。それもまた勇気がいることなのだと、やっと気付いた。
「沖縄」と「セクシュアル・マイノリティ」という「American Boyfriend」のふたつのテーマは、「アメリカの風景」にも関わってくるものの、特に性については小説では直接的には触れず、とても曖昧な揺らぎとして描くことに留めている。自分なりに、なんとなく躊躇してしまった部分があるのは確かだった。僕自身、家族やかつての沖縄の友人などに、少なくとも直接的にはみずからのセクシュアリティを明かしてはいない。でも、小説はもしかしたら、そういう人々にも届くかもしれない。かつて僕がニューヨークや東京で、美術を通してある種のカムアウト(美術という表現があったからこそそれは可能でもあった)を行ってきたように、もう一度小説という媒体を通してそれをやり直している。書いている途中から、そんな意識を抱くようになっていた。まわりくどいかもしれないけれど、周辺からゆっくりと弧を描くように核心に近づけてゆけたら、と。きっと小説はこれからも書いてゆくだろうし、それがどのような展開を見せるのか、まだわからないながらも、とても楽しみでもある……。子どもの頃は入ることのなかった丘の上の城、思い切って入ってみたバーの雰囲気と酒にすっかり酔っ払いながら、そんな風に思っていた。