櫛野展正連載:アウトサイドの隣人たち ⑨8人目のビーナス

ヤンキー文化や死刑囚による絵画など、美術の「正史」から外れた表現活動を取り上げる展覧会を扱ってきたアウトサイダー・キュレーター、櫛野展正。現在、ギャラリー兼イベントスペース「クシノテラス」を立ち上げ、「表現の根源に迫る」人間たちを紹介する活動を続けている。彼がアウトサイドな表現者たちにインタビューし、その内面に迫る連載の第9回は、独学で自分の才能を信じ続ける芸術家・福永普男を紹介する。

福永普男のアトリエから一望できる《女神》。女神像は全部で7体ある
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埼玉県と東京都をまたぐ加治丘陵。東京近郊で気軽に森林浴やハイキングを楽しむことのできる人気のスポットとして知られている。丘陵の曲がりくねった山道を登っていると、高さ5メートルほどの真白な裸婦像が脇に立ち並ぶ建物が現れた。近づくと、その巨像の足元で豊かな無精髭をたくわえた仙人と見まがう風貌の男性が、手を振っている。彼こそが、この地で創作活動を続ける芸術家・福永普男(ふくなが・ゆきお)さんだ。

福永の自宅兼アトリエと、道沿いにたたずむ《女神》のうちの1体

福永さんは1942年に6人兄弟の5番目として、高知県高岡郡窪川町(現在の四万十町)で生まれた。父親は戦前に蹄鉄売りをしていたが、戦争で馬がいなくなったため、戦後は炭焼きの仕事に従事。家は貧乏のどん底で、福永さんが小学校に上がる前までは、炭焼き小屋で暮らしていたこともあったそうだ。小さいときから絵を描くことは得意で、中学3年生のときには絵画展で特選になったこともある。「絵を描くことは、好きというよりも天才的に才能があったね。でも絵描きになるとは思ってもなかった」と当時を振り返る。

中学卒業後は工業高校へ通っていたものの、「自分の肌に合わないから」と3年生のときに定時制高校に編入。夜に学校へ行きながら、高知市内の木工所で住み込みとして4年間働いた。高校を出たあとは、「高知では働くところがないから、東京でサラリーマンにでもなろう」とあてもないままに上京。兄と共同生活を送りながら、1年間の浪人生活を経て図書館職員養成所(図書館情報大学の前身、現在は筑波大学に統合)へ通い始めた。

「大学へ行こうにもお金がないから、学費があまりかからないところを選んだ。図書館の職員ってのは語学ができんといかんから、英独仏の3か国語が必須だった。それがのちのち役に立ったよね」と語る。卒業してからは、就職試験に11回落ちたのち、最終的に埼玉大学の図書館に勤務した。しかし、中学卒業以降はまったく絵を描いていなかったにもかかわらず自分の潜在的な才能を確信し、図書館をわずか1年で退職して絵描きを目指した。立て札を持ったサンドイッチマンやビル清掃の仕事をこなしながら、24歳のころからは美術教室の新宿美術研究所に通い絵を学んだ。そこで知り合った男性から、「ソ連の美術大学では、立体把握のために、絵を描く学生にも最初は彫刻をやらせるらしい」と教わった。福永さんはその言葉を受けて、目黒の鷹美術研究所に移り、等身大の彫塑制作を始めた。

当時住んでいたのは、東京都文京区にあった三畳半の部屋。そこで描いていた油絵は、福永さんの原点としていまも家に大事に飾られている。やがて、中野区の四畳半の部屋に引越して、そのアパートの管理人の紹介で中学校の警備員として11年間働いた。1日おきの勤務のため、絵を描く時間も十分にあり、モデルを雇えるようになるくらい生活も安定してきた。管理人から許可をもらい、アパート前の空き地にアトリエ小屋を建て、そこで制作に没頭。そして31歳のときには2歳下の女性と結婚、やがて3人の子どもを授かった。

初個展は35歳のとき。埼玉県所沢市中富の知人宅の庭を借りて、7体の女神の石膏像による野外彫刻展を開いた。以後、30回以上の個展を開催。その当時制作した女神像は壊れてなくなったため、99年に5年の歳月を経て再制作した。今度は3体をFRPで、残りの4体は発泡スチロールを削ってつくった。そして翌年には、故郷の高知県を流れる四万十川の公園に7体の女神像を設置し、その前で舞踏・朗読・音楽・照明による大規模なパフォーマンスを行った。

手をしばられて日の丸に向かって君が代を歌わされる人間 1990頃 紙に炭
福永のブロンズ作品《アマゾネス》(2002)

画家であり彫刻家でもある福永さんのもうひとつの肩書きは、紙漉き(かみすき)作家だ。彫刻を始めたのをきっかけにそれまでとデッサンのやり方が変わり、力強い鉛筆の筆圧に耐えることのできる紙を探すようになった。自分に合う和紙を求めて、全国の和紙生産地を行脚するうちに、楮(こうぞ)や三椏(みつまた)など和紙の材料になる枝を自ら仕入れ、砕き、使用する桶をつくって、独学で紙漉きの技術を学んでいった。79年には借家の庭地を使って、和紙研究所を設立。多くの生徒を迎え入れた。83年になると、妻と子どもたちを両親に預けて単身メキシコやアメリカに3か月間わたり、地元の大学などで紙漉きの実演を行った。

その後、家族を連れて山梨や高知など移住を繰り返していたが、「田舎では自分の技術は伸びない」と再び関東に戻ってきたのは、88年 、46歳のとき。現在は、2003年に購入した築40年のプレハブ小屋で静かに暮らしている。あの7体の女神像は、引越しの際にこの敷地に運んだ。7体のうち道路沿いにある1体は、「道行く人たちに楽しんでもらえるように」と手動で回転する仕掛けになっている。女神像が取り囲んだ敷地は野外劇場としてイベントなどに利用可能で、福永さんがセルフビルドで増築した雰囲気のあるアトリエから一望することができる。都会の喧騒から離れ、芸術家が表現行為を行うには、素晴らしい環境が整っている。

美術の歴史に名を残したい」と、74歳を迎えたいまでも福永さんの芸術家としての誇りは気高い。絵も彫刻も手漉き和紙も、芸術家である自らの可能性を広げるため、誰もやらないようなことに挑み続けた。そんな波乱万丈の人生を支えてきたのは、8体目の女神である妻の存在だ。「警備員を辞めてからは働いていない。食えないから嫁さんに負担かけたね」と、71歳で他界した最愛の妻の遺影に向けて福永さんは手を合わせ、そっと線香を手向ける。

東京近郊にあるアトリエの様子

PROFILE

くしの・のぶまさ 「クシノテラス」アウトサイダー・キュレーター。2000年より知的障害者福祉施設職員として働きながら、「鞆の津ミュージアム」(広島) でキュレーターを担当。16年4月よりアウトサイダーアート専門ギャラリー「クシノテラス」オープンのため独立。社会の周縁で表現を行う人たちに焦点を当て、全国各地の取材を続けている。

http://kushiterra.com/

遅咲きのアーティストによるグループ展が10月15日から開催!

50歳を超えた4名のアーティストによるグループ展「遅咲きレボリューション!」が、10月15日〜2017年1月29日、クシノテラス(広島県・福山)で開催される。年齢にとらわれず挑戦し続ける作家たちの作品を通じて、年齢に伴うイメージの既成概念に問題を提起する。出品作家は、糸井貫二(ダダカン)、長恵、西本喜美子、マキエマキ。

kushiterra.com