【今月の1冊】沈黙期の斎藤義重が記した「作品未満」のテキスト
『美術手帖』の「BOOK」コーナーでは、新着のアート&カルチャー本の中から毎月、注目の図録やエッセイ、写真集など、様々な書籍を紹介。2016年12月号では、美術家・斎藤義重が活動休止中の十数年間に書き溜めたノートをもとにした『無十』を取り上げた。
『無十』 斎藤義重=著、千石英世=編 沈黙の10年あまりの間に綴った言葉の群れ
戦前から抽象美術に取り組み、20世紀後半には国内外で高い評価を確立した斎藤義重(1904〜2001)。1920年代にロシア未来派や構成主義の影響下から出発し、当時としては先駆的な抽象絵画と立体作品を手掛けていたが、1945年に空襲を受けて家財と全作品を消失すると作家の生活は一変する。経済状況の悪化と病気による困窮の日々。制作を中断した斎藤がふたたび美術界に戻るには、日本国際美術展において《鬼》《作品I》が連続受賞し、「五十三歳の新人あらわる」と報じられる57年まで待たねばならなかった。
戦後のこの沈黙の十数年間、斎藤は何をしていたのか。49年に未亡人・園子と結婚、2人の息子をもうけるも、54年に離婚。千葉県浦安の知人宅に身を寄せ、隠遁の日々を送っている。そしてこの時期の前後、斎藤が傾注していたのは美術制作ではなく文章を書くことだった。日々の覚え書きをただ断片的に綴るばかりではない。斎藤は日記の一部をみずから清書し、一冊のノート「無十」としてまとめていたのだ。
本書は54〜55年に書かれた「無十」と、その素材となった「無十」周辺のノート群からの抜粋で構成される。「周辺」のノートが日常の出来事や書物からの引用を主とする雑多な記録であるのに比べ、「無十」は日記と私小説のあわいを漂うテキストだ。そこでは離婚後に2人の息子を養育施設に預けた経緯が淡々と語られているのだが、離れて暮らす子どもたちへの哀惜の念と厭世的な人生観を繰り返し語る「周辺」をあわせて読めば、この乾いた筆致の陰に深い苦悩があるのは明らかである。
では「無十」は斎藤の苦悩を昇華したテキストなのかというと、そうは言い切れまい。「私の心領するものは文学であった。そういう表白の方法でないと意に満たなかった」(148頁)。「周辺」に綴ったこの一文が何故か斜線で打ち消された意味を勘繰らずにいられない。おそらく斎藤は、文学を希求しながらもその手前で踏み留まり、制作中断の現状の中で、実生活を襲う繰り返しの苦悩に耐え続けた。文学への断念として、また作品化という安易な突破口への否定として、作品未満のテキスト「無十」が生まれたと見るべきだろう。なすべきは「扉開く」ことと語りながらその不可能性に直面し、斎藤は「無十」で次のように書く。「今その壁の前にあり、全部を賭けて、でき得るかぎり速かに、「この繰り返し」に集中している」(34頁)。戦後の無時間的な沈黙の正体がここに凝縮されている。
もし斎藤が作品化=昇華の方向に振り切っていたら、美術家・斎藤義重は戦後に再登場しなかったかもしれない。このことを思うと、斎藤の文筆家としての半身が封印された「無十」の希少さがいよいよ際立ってくる。
(『美術手帖』2016年12月号「BOOK」より)