EXHIBITIONS
播磨みどり「場と印刷 Prints/Places」
MAHO KUBOTA GALLERYで播磨みどりの個展「場と印刷 Prints/Places」が開催されている。
播磨は1976年生まれ。2000年に女子美術大学絵画科版画コースを修了した。01年に渡米し、05年から17年までニューヨークを拠点に活動し、現在は藤沢にスタジオを構え活動を行っている。版画や写真などの印刷物やさまざまなメディアを用いて、現代社会に溢れる視覚情報の断片を拾い集め、つなぎ合わせることで表象不可能な現代社会の問題を浮かび上がらせる手法を特徴とする。
播磨は、22年に藤沢市アートスペースで「裏側からの越境」と、23年にニューヨークのThe Shirley Fiterman Art Centerで「This is A Mirror」という2つの連続した個展を開催。ふたつの展覧会は、播磨の集大成的な位置付けにある展示であったとともに、今後アーティストが目指してゆく実践の序章を予感させるダイナミックな展開でもあった。
ふたつの個展とさほど時を隔てることなく計画されたMaho Kubota Galleryでの本展は、近年の播磨の探求をさらに一歩進めた内容となる。本展の中心となる映像作品は、特定性をもたない風景のイメージをシルクスクリーンで刷り、そのプロセスを逆再生することでイメージが繰り返し現れては消えていく。この作品を補完するように8mmカメラで撮影された映像作品がモニターで再生され、ライトボックスの作品が展示される。
播磨の言葉によると「それ自体が独自の時空間でもある」印刷物は、その上に物理的に提供された2次元上の時空間によって日々私たちに世界を追体験させる。2次元に展開される世界のあり方をとらえるには過去の経験やリテラシーが必要であり、限られた情報ではおおよそ再現できるはずもない世界を私たちは自らの記憶や残像で補うかのように無意識に解釈しているとも言える。播磨は以下のステートメントを発表している。
「見えるようになるものと背中合わせに見えなくなるもの、その膨大なブラインドスポットと見えていないという状態や構造を反転の入れ子状態にして可視化するために、見ることのできないプロセスや見えるまでの時間的遅延を持つアナログメディアを制作プロセスのうちに再度導入し、それらに翻弄されるかたちで作品を組み立てていった。見えないという状況や見えるようになるまでの時間的遅延は、見えないものを見ようとする能動性に、予測不可能性やそれによって引き起こされる偶然や失敗は、理解に先立つ行為や自分自身を組み変えていかざるを得ないような時に発動する主体性につながっている。
何かに対してリアリティを感じ、それがその人にとっての固有の経験となる時、自分自身や対象の同一性が揺さぶられて初めて発揮されるそのような主体性や能動性が関わっていると感じる。古いメディアや技術が失われ、状況や状況の解釈自体が目まぐるしく変わっていくなかで、人間の解釈にあわせて現実をつくり変えるのではなく、現実を前に人間の解釈やアウトプットがつくり変えられるということが、リアリティを問題とするフィクションの機能のひとつであると私は考えていて、その実現の場の一つとして印刷(物)をとらえている」。
播磨は1976年生まれ。2000年に女子美術大学絵画科版画コースを修了した。01年に渡米し、05年から17年までニューヨークを拠点に活動し、現在は藤沢にスタジオを構え活動を行っている。版画や写真などの印刷物やさまざまなメディアを用いて、現代社会に溢れる視覚情報の断片を拾い集め、つなぎ合わせることで表象不可能な現代社会の問題を浮かび上がらせる手法を特徴とする。
播磨は、22年に藤沢市アートスペースで「裏側からの越境」と、23年にニューヨークのThe Shirley Fiterman Art Centerで「This is A Mirror」という2つの連続した個展を開催。ふたつの展覧会は、播磨の集大成的な位置付けにある展示であったとともに、今後アーティストが目指してゆく実践の序章を予感させるダイナミックな展開でもあった。
ふたつの個展とさほど時を隔てることなく計画されたMaho Kubota Galleryでの本展は、近年の播磨の探求をさらに一歩進めた内容となる。本展の中心となる映像作品は、特定性をもたない風景のイメージをシルクスクリーンで刷り、そのプロセスを逆再生することでイメージが繰り返し現れては消えていく。この作品を補完するように8mmカメラで撮影された映像作品がモニターで再生され、ライトボックスの作品が展示される。
播磨の言葉によると「それ自体が独自の時空間でもある」印刷物は、その上に物理的に提供された2次元上の時空間によって日々私たちに世界を追体験させる。2次元に展開される世界のあり方をとらえるには過去の経験やリテラシーが必要であり、限られた情報ではおおよそ再現できるはずもない世界を私たちは自らの記憶や残像で補うかのように無意識に解釈しているとも言える。播磨は以下のステートメントを発表している。
「見えるようになるものと背中合わせに見えなくなるもの、その膨大なブラインドスポットと見えていないという状態や構造を反転の入れ子状態にして可視化するために、見ることのできないプロセスや見えるまでの時間的遅延を持つアナログメディアを制作プロセスのうちに再度導入し、それらに翻弄されるかたちで作品を組み立てていった。見えないという状況や見えるようになるまでの時間的遅延は、見えないものを見ようとする能動性に、予測不可能性やそれによって引き起こされる偶然や失敗は、理解に先立つ行為や自分自身を組み変えていかざるを得ないような時に発動する主体性につながっている。
何かに対してリアリティを感じ、それがその人にとっての固有の経験となる時、自分自身や対象の同一性が揺さぶられて初めて発揮されるそのような主体性や能動性が関わっていると感じる。古いメディアや技術が失われ、状況や状況の解釈自体が目まぐるしく変わっていくなかで、人間の解釈にあわせて現実をつくり変えるのではなく、現実を前に人間の解釈やアウトプットがつくり変えられるということが、リアリティを問題とするフィクションの機能のひとつであると私は考えていて、その実現の場の一つとして印刷(物)をとらえている」。