大山エンリコイサムが読み解くファイブポインツ裁判と捨象された匿名性
ニューヨーク市クイーンズ地区にあったエアロゾル・ライティングの聖地「ファイブポインツ」。その解体にともなう作品の消去を巡り、アメリカ連邦地裁がビルのオーナーに対してアーティスト21人に総額675万ドル(約7億2300万円)の支払いを命じた。エアロゾル・ライティングに対する価値を連邦法が認めたこの判決に関して、アーティストの大山エンリコイサムが考察する。
1970〜80年代の地下鉄を舞台に発展したニューヨークのエアロゾル・ライティング文化は、90年代に入るとプロダクション・ミュラル(集団で制作する大型の壁画)が主流のひとつとなった。その象徴が、2001年に発足し、メレス1(本名=ジョナサン・コーヘン)がキュレーターを務めたファイブポインツ・エアロゾル・アートセンターである。
クイーンズのロング・アイランド・シティにあったこのモニュメンタルな建物は世界中からライターが集まる「聖地」であり、1万9000平米の壁面には百数十ものピースがかかれ、また保護された重要ライターの作品以外は定期的にかき換えられていた。だが、2011年に同建物を所有するジェリー・ウォルコフが、新しく高層住宅を建てるため、その取り壊しを発表。計画停止を求める署名活動など様々な反対運動が生じたが、13年11月に壁面のピースは無残にも白く塗り潰され、15年1月には完全な更地となった。ここまでは都市再開発/ジェントリフィケーションによって文化遺産が失われる典型的なエピソードに過ぎない。しかし2018年2月、本件をめぐり継続されていた裁判の結果、VARAの通称で知られる「Visual Artists Rights Act」に基づき、被告(ウォルコフ)に対して、原告(ファイブポインツを代表する21名のライターたち)を受取人とする計675万ドル(約7億2300万円)の支払いが命じられ、再度注目を集めている。その判決文の全文は、次のURLで読むことができる。(https://assets.documentcloud.org/documents/4377823/Graffiti-Ruling.pdf)
歴史に残る内容となった「ファイブポインツ裁判」はいっぽう、ビル所有者を顧客にする壁画アーティストたちからの懸念を招いてもいる。同裁判がきっかけとなり、ビル所有者とアーティストの良好な信頼関係にヒビがはいるのではないかと憂える声を、筆者はこの数日で数回耳にした。作品の価値が認められた点でアート関係者からの肯定的な反応が多数を占めるなか、壁画制作の現場ではこれを手放しに喜べないとする意見が出るのも、インダストリーが成熟したニューヨークならではだろうか。しかし筆者は、様々な立場の現実に根ざした諸意見は切実なものと理解しつつ、より理論的な水準でファイブポインツ裁判が何を達成し、そして放棄しているのか短く考察してみたい。
目を引くのは、本件の支払総額675万ドルが、再開発で失われた45作品にそれぞれ法定損害賠償の上限である15万ドル(約1600万円)の賠償額を認めるという方法で算出されていることである。ファイブポインツの主要な壁面では、グリッドに区切られた構造の枠内にひとつずつピースがかかれていた。そのエリアでは、どこまでがまとまりをもった誰の作品かわかりやすく、それが21作家45作品という具体的な数字を導き出したと考えてよい。各作品は、枠の寸法を目安におよそ縦1〜1.5メートル、横3〜4メートルほどの大きさと推測できる。ところで、仮にこれら作家の同サイズの作品が個別にキャンバスにかかれたものであったら、どれほどの市場価格を見込めるか。ライティング文化やそのマーケットを多少でも知っている筆者の判断では、高くてもひとつ1万ドル前後のはずである。しかし判決では、約15倍の15万ドルが各作品に認められた。なぜか。それはそこで働くメカニズムが、同45作品が本来持つ個別価格への評価ではなく、ファイブポインツという「聖地」全体がもつ価値を金銭化する場合、想定される額を査定するための根拠とすべき式だからである。言い換えれば、ファイブポインツ全体の価格性をとらえるため、その壁面全体に展開された複合的なイメージの総体から、識別可能な45作品を取り出し、全体を代表=represent=表象させる手続きがそこにある。価格が15倍増したこの「飛躍」は、複合的なイメージの渦から特定の作品を選定する際にどうしてもこぼれ落ちてしまう「その他」の匿名的な価値を、「余剰」として45作品へ再分配することで可能になったと考えたい。
筆者はこの、こぼれ落ちてしまった匿名性にこそ、ファイブポインツがもっていた中心的な価値があったと考えている。先述のように、ファイブポインツの壁面には常時おびただしい数のエアロゾル・アートがかかれ、それらは周辺の建物にも飛び火し、作者性・作品性・建造物の区画すらもあいまいに解体する有象無象の匿名的創造力の繁茂または散乱として、ニューヨークのライティング文化におけるシンボリックな空間を形成した。それらは随時かき加えられ、また上書きされることで新陳代謝をし続けたという意味で、建造物よりも運動もしくは生成力としてとらえるべきである。グリッドに沿って整然とピースが並んでいた主要エリアは唯一かき換えられず保存され、歴史的な重要ライターたちの殿堂として貴重であったが、それは下部構造にあるこの匿名の動力と対になってこそ真価をもったはずだ。
しかし、匿名性とは原理的に数値化・定量化できないものである。客観性を求められる裁判の領域で、それは取り扱い対象にならず、21作家45作品という具体的な単位へと切り出していく必要があった。これは戦術として正しく、非難するつもりは毛頭ない。おそらく賠償金は21作家の私益ではなく、コミュニティ全体に再分配されることで、匿名的な利益にも還元されるだろう。それはよいことである。しかし、いくら675万ドルが巨大な額であり、連邦地裁によるライティング文化の画期的な価値認定を表すとしても、それはけっして、数値化・定量化できない匿名性を映し出すものでも、十分にその生成力を代償するものでもないことは、改めて強調しておきたい。むしろここで鮮明に突きつけられるのは、ライティング文化がつねに顕名性と匿名性のあいだをドライブし、またそこで引き裂かれていることの暴力と可能性にほかならない。ファイブポインツ裁判は身をもってそれを証明したのである。