第16回芸術評論募集
【佳作】大岩雄典「別の筆触としてのソフトウェア——絵画のうえで癒着/剥離する複数の意味論」
『美術手帖』創刊70周年を記念して開催された「第16回芸術評論募集」。椹木野衣、清水穣、星野太の三氏による選考の結果、次席にウールズィー・ジェレミー、北澤周也、佳作に大岩雄典、沖啓介、はがみちこ、布施琳太郎が選出された(第一席は該当なし)。ここでは、佳作に選ばれた大岩雄典「別の筆触としてのソフトウェア——絵画のうえで癒着/剥離する複数の意味論」をお届けする。
山本直輝の〈歯〉
1982年生まれの画家・山本直輝の絵画《実体のない風景としての人物》(2018)[図1]は、山本の主な制作環境であるAdobe Illustrator特有の挙動を画面上に残している。中央下には左端が画面上で垂直に削られたテーブル、そのうえに、およそ人体のようなもの(とさしあたり呼んでおこう)が描かれている。脚や手先などの断片、またそれらを塗るベタ塗りの、白色か黄色人種の肌を思わせる色、おおまかな配置やシルエットが、少なくともそれは人体を参照していることを明らかにする。もちろん山本のほかの作品と同様、それらの輪郭は切断され、それに伴うように肉の色さえ垣間見える。あるいは空間のどこに定位できるのか判断しがたい穴や、フェンスなどの線が画面上に横溢しているが、本稿が取り上げたいのは、中央付近に描かれた〈歯〉である。
「歯」もまた山本作品では頻出するモチーフであり、線や色面の分断と、それに伴う表象された人体そのものの断面によって提示される、人体そのもののレイヤー性の表現の一環である。人間の口とは、唇につながるその側の皮膚、そのなかに肉を経て、また口腔があり、歯茎と歯があり、さらに中に歯の内側の空間、舌……という多重構造になっている。この歯というモチーフや、部屋内の人物という状況、テーブルの形状や人物を囲う図形などからフランシス・ベーコンも連想されるが、とりわけ見逃せないのは、《実体のない風景としての人物》の歯が、上方から下方へ引っ張られたように見える点だ[図1-2]。
「引っ張られたように見える」と表現するときの「引っ張られた」とはまず、画面上で歯の表象を可能にしている、複数の線と白色によって構成された図形が、画面上の向きで上から下へ引っ張られているように見える、ということだ。つまりこの「見える」とはさしあたり、表象された歯という人体構造それ自体が空間内で引っ張られているのを指しているのではない。第一にそこで際立って見えるのは、図形が「引っ張られたように見える」という、あくまで画面上の水準であり、表象はその印象に引きずられて持ち出されるものの、しかしこの直線じみた移動の奇妙さを解消するわけではない。後述するように、これはたんなる図形ではなく、ある演算された図形なのである。
さて、「引っ張られた」「演算された」の「た」とは過去をあらわす助動詞だが、ある絵画に定着された図形に過去を見出すとはいかなることか。山本の「歯」を例にとって記述してみよう。
いまは画面中央付近にある(歯を表象する)図形が、もともとはより上方にあって、それがいまの位置まで移動されたように思われる。それはなぜかと言えば、とくに上歯茎の前歯2本にあたる2つの図形の形状に因る。まず、件の図形が全体的に歯を表象しているように見えるのは、それが端的に歯のかたちに類似しているからだ。下に5つ並んでいる白い小閉域は、下歯のように見える。だが上に並んだ図形では事情が異なる。たしかにそれは下歯と同じ色で複数個並んでいるが、とくに中央の2つ3つの図形は、通常の歯のプロポーションから大いにくずれ、上端がはるか上方まで至っている。この上端の位置が、〈移動前〉の位置のように思われるのだ。歯の図形を構成する上半分だけ、そこに取り残されたかのように。
例えばアニメーションの作画で、そうした表現が用いられることがある。物の激しい移動を示すために、輪郭を崩して移動前と移動後の形を混ぜ合わせるように描き、人間の通常の視覚に似た印象を持たせるのだ。それが動的な空間的な表象を実現するためのシミュレーションであるように、山本の描いた〈歯〉の図形の移動もまた、(部屋の輪郭やテーブルの立体感から見出すことのできる)空間に定位させて、〈歯が移動した〉状況の表象として把握することができるし、速度を感じ取ることもできる。だがわたしが取り上げたいのは、この形状が、Adobe Illustratorというソフトウェアの挙動に由来する、という点である。
Adobe Illustratorとは、主にベジェ曲線を扱ってグラフィックを制作するソフトウェアだ。1987年にAdobe社が発表し、同シリーズは現在はAdobe Creative Cloudというサブスクリプションサービスで提供されている。Illustratorに限らず、Adobe社のソフトウェアは画像・映像制作の現場に浸透しており、広告商業だけでなく、一般企業、また芸術制作にも一般的に用いられる。事実、美術大学でもAdobe社のソフトウェアの使用法を学ぶ講義を持っているところも少なくない。さて、Illustratorにおいて画像制作の単位となるベジェ曲線とは、複数の点(アンカーポイント)をつないだひとつながりの線データである。それぞれのアンカーポイントからは曲率制御点(ハンドル)が伸びており、これを操作することで、点どうしをつなぐ線は、数学的に演算された自由な曲線となる。ビットマップ画像との違いは、ビットマップが、複数の色彩データと、それを条理上での配置するための情報からなるのに対し、ベジェ曲線によって構成されるグラフィック画像は、個々の点の座標とそれから演算した線からのみ構成されて提示され、ゆえに条理のような「解像度」を持たない点だ。
1本のベジェ曲線をIllustrator上では「オブジェクト」と言う。複数本のベジェ曲線をまとめてひとつのオブジェクトとして扱うこともできるが、ここでは説明の便宜のため無視する。さて、Illustrator上で図形を編集するというのは、このアンカーポイントの集合を編集するということだ。表示されているベジェ曲線=オブジェクトをクリックすると、それを構成している個々の点が線上に重ねて表示される。この線全体を移動させるというのは、点どうしの相対的な位置関係・距離関係を保ったまま、絶対的な位置を変えるということだ。たいして、図形の一部を編集することもできる。アンカーポイントをひとつ移動すればそれに結びついた線が変化するし、あるいは消去すると、それに紐付いていた両隣のアンカーポイントどうしが改めて結びつく。もしくは、そこだけ線が途切れて図形は閉域ではなくなる。
Illustratorにはそうした操作をGUI上で行う直感的なツールが用意されている。「選択ツール」とは主にオブジェクト単位で選択するツールで、それでクリック、ドラッグすることでオブジェクトを移動することができる。かたちは変わらない。たいして「ダイレクト選択ツール」とは、アンカーポイント単位で選択するツールだ。例えば正三角形のひとつの頂点だけを動かして、二等辺三角形や不等辺三角形にできる。もしくはハート型ならば、上部の2つの山だけを選択して上方に延ばすことができる。図形は不格好なウサギの耳のようになるだろう。
さて、件の〈歯〉はこのダイレクト選択ツールによる編集が加えられたかたち、もしくはそれを模倣したように見えるのだ。元々歯の形をしていたベジェ曲線を上方から下方に、あるいは下方から上方に移動させることで、この長く伸びている、ほぼ平行の、ほぼ直線のような三次曲線が得られる。ダイレクト選択ツールであるオブジェクトを移動させようとその全体をドラッグで選ぶとき、それが大雑把だと、端の一部のアンカーポイントだけ選択しそびれて、移動から「取り残して」しまう(下方向の移動に見えるのはそのためだ)。そうした経験は、Illustratorのユーザに共有される経験だ。
むろん、そうした印象は画面全体の複数の要素からコノテーションされたものだ。人体を囲う図形が画面枠に平行な矩形に限定されていることは、Illustratorのデフォルトかつ代表的ツールである「矩形ツール」を思わせる(これは立体感を思わせるベーコンの「空間枠」とは異なる特徴だ)。あるいはベタ塗りの色面や線太の一様さ、同じ線太の多用も同様に「Illustratorライク」である。決定的なのは、閉空間になっていない線の内側が塗られるとき、断絶部は、その両端の点を直線で結ぶように輪郭づけられている点だ。重ね合わせのもっとも奥に描かれたドット絵のような図像だけはIllustrator上で描くには手間がかかるが、それ以外のオブジェクトは、Illustratorを用いていれば比較的即座に、また簡単に得られるイメージである。山本は絵画制作でIllustratorを使用していることを公言しているが、それを画面上に結実するグラフィックのレベルで提示する点で、このソフトウェアが特有に生み出す図形の傾向に自覚的なのだ。
ソフトウェアの水準
さて、あるソフトウェアが生成する傾向を持つ形状を画面に登場させるような実践は、同時代の多くの画家・写真家に見出すことができる。例えば1980年生まれの画家・今津景は、Photoshopによって画像群をコラージュ・編集した一枚の見え方をキャンバスに再現する(*1)。あるいは写真家・小林健太の写真作品も、Adobe Photoshopを用いて制作されている(*2)。2人に共通するのは、「指先ツール」を思わせる画面上の要素だ。
PhotoshopもまたAdobe社のソフトウェアであり、デジタル写真を主とするビットマップ画像を編集する。画面全体の色味や明度を調整する機能もあるが、例えば「ブラシ」ツールは、なぞった部分のピクセルを一様な色に変更する。「ぼかし」ツールは、なぞった部分のピクセルをその隣接どうしで混合することで、くっきりした輪郭などをぼかす。だがこれらは画像編集ツールにおいて比較的一般的なものだ。たいして「指先」ツールはPhotoshop特有のツールともいえる。ドラッグした方向にピクセルを移動させるようにぼかすため、その名の通り、まるで絵の具を指で伸ばしたたときのような効果が出る。
ところで重要なのは、この指で伸ばしたときのピクセルの「粘度」、あるいは混合の「減衰」の度合いを変更できる点だ。「指先」ツールの「強さ」というパラメータは、はじめ50パーセントに設定してある。この数字を下げると、こすってもピクセルは伸びづらくなり、粘度の高い絵具のような印象を与える。だが「100パーセント」に設定すると、ピクセルはなぞったぶんだけ延々と伸びていく。それはもはや物質的な絵具の粘度では発生しえないような、グラデーションのある線になる。おそらく今津も小林も「強さ」を高い数値にした「指先」ツールを用いているように、作品からは推測できる[図2][図3]。本来絵具で描かれている以上起きないようなストローク、あるいはレンズがとらえるべき物質的現実の見えにはありえないかたちの溶解を「指先」ツールが生み出している。それは描かれているものや写されているものという表象の次元に還元されないだけでなく、絵画や写真を物質的に成立させている支持体・顔料の水準からも離れている(*3)。
Photoshopの使用が強調された写真作品として、永田康祐はルーカス・ブレイロックやマーク・ドルフらの写真作品を検討する(*4)。例えばブレイロックの作品《Untitled(Deck Prism?)》(2009)では、同じ模様を繰り返す「スタンプ」ツールによる編集や、またレイヤー機能が露骨に用いられている。永田は、視差効果を用いてレイヤーの重なりを表現するジョー・ハミルトン《Indirect Flights》と並べながら、両者の作品におけるマルチレイヤー性とそこで表象される複数の可能な奥行きについて、スタインバーグが指摘した「面[平面性]と奥行きの間に起きる震え」という言葉を引きながら考察している。永田自身も作品《Theseus》(2017)[図4]で、Photoshopの「修復ブラシ」ツールを活用している。被写体はヘアライン光沢を持つ金属カップと、それを一度撮影・レーザー印刷した写真とが並んだ様子だ。つまり写真内写真である。Photoshopの「修復ブラシ」ツールは、画面内の類似した領域を流用して、本来はゴミなどを削除するために使用するのだが、このツールは、被写体であるカップと、その背後に置いてある写真(写真内写真)とを区別できないため、それぞれの質感が混ざり合ってしまい、結果として表象の内外が嵌入しあう。永田はブレイロックらに見出される奥行き関係のレイヤー性を、写真/実物という表象の構造へとパラフレーズしながら、Photoshopのツールの挙動をむしろ強調しているのだ。
ただし、永田はそうしたレイヤー性はデジタル画像においてはいずれも「シミュレート」されたものである点を指摘し、あくまで物質的な痕跡が積み重なっている絵画とは異なることを強調する。
つまり、デジタル画像は、自身が生成されたプロセスを把持しない無時間的なメディウムなのだ。例えば、絵画のメディウムにおいて、その描線や色面は、筆跡や色の重なりによって、それがどのように描かれたのかを同時に記録している。それは(中略)これらが物理的なメディウムに依拠する以上決して逃れられない条件である。 (中略) しかし、前言したように、デジタル画像はそのような時間性を失っている。デジタル画像において、操作の重なりはシミュレーションによって形成される。しかし、マノヴィッチが指摘するように、こうしたシミュレーションはもはや物理的な操作とは無関係である。私たちは作品の画面上に何らかの操作の痕跡を見ようとするが、そこに表示されているのは、無数の、しかし有限なピクセル明滅のパターンのうちのひとつにすぎない。物理的なメディウムにおいて保たれていた制作過程を画面へ係留する論理は、デジタルメディアの論理に換骨奪胎されているのである(*5)。
スタインバーグが(物理的な痕跡を持つ)絵画について指摘するような「震え」は、デジタル画像においてはその物理的な平面表示とソフトウェアによる画面とのあいだだけでなく、その画面のなかの奥行きもまたシミュレートされたものでしかないために、その不確定で可能的にとどまる複数の奥行きのあいだでも起こりうる。
換言すれば「決まった奥行き」と「そのたび可能に見出される差そのもの」との違いもいえるだろう。前者は物理的で固定されており、そのため画面全体についてその折り重なりの関係を統一的に矛盾なく整理できる。だが後者は、視差効果や、操作の痕跡の逆算によって見出されるたびに前後関係を見出してしまうにとどまる。しかしそれがヒントとして全体に波及して、固定された順序を開陳することがない。個々の前後関係はしばしば不明瞭だったり、(ときに意図的に)矛盾したりしうるのであって、そうした「奥行き差」の個々独立した散逸が、「生み出されうる複数の奥行き」のなかの震えをうながすのだ。
山本や今津の作品は、IllustratorやPhotoshopのつくり出す操作の痕跡を、大きなキャンバスへと絵具で丹念に描き写している(今津の場合は、しばしば絵具独特の質をも加える)。そこに見出されるようなツール操作の痕跡もまた、永田がレイヤー関係について言うようにシミュレートされたものだ。「ダイレクト選択ツール」でアンカーポイントを取り残したまま下方向に移動したような山本の〈歯〉もまた、じっさいにどう描かれたのかはわからないし、表面を見ても、絵具としての描画の痕跡しか見られない。黒い輪郭線と白い色面は、Illustratorと異なり同時にプロデュースされたものではないし、一度描いてから輪郭を伸ばしてずらすことなど、乾燥した絵具ではできない。これは、ブレイロック作品における、一見はスタンプツールで「もとの画像に、加えるように、その一部の模様を借用して、その上に重ねた」という順序を持つ営為の結果に見える部分も、そう見えるだけで結局実際に表示されているのが「ピクセル明滅のパターン」に過ぎないことと同様だ。むしろ彼らは、ある来歴・奥行きのようなものを見出されるにすぎないデジタルな操作の結果とは異なる来歴を持ちうる絵具の作業をさらに〈重ねる〉ことによって、両者のそうした構造的性質の差異を浮き立たせているとも言える。
デジタル画像において「そのたび可能に見出される差そのもの」が矛盾しあうように、操作の来歴としてつかのま見出される前後関係は、実際の描画の手順とはえてして異なるのだ。今津が既存の絵画をその編集対象に選ぶことも、これに類比した射程を見出すことができる。オリジナルの絵画作品はその制作過程の筆致が残っていたり、もしくは丹念にそれが均されていたりしただろう。だがそうした情報もまた、限られた画素数の画像としてインターネットに出回るさなかに欠落する。インターネット上で見る絵画は、えてしてその物理的操作の来歴をたどることがむずかしい。もちろん昨今では、技術発展と美術館の積極的な取り組みにより、筆跡まで窺える高精細な画像が公開されている。だが重要なのは、そうした事実さえも、今津が「あらためてみずからのキャンバスに同じ図像を描く」ことで取り沙汰されるということだ。今津がドラクロワを描きなおした筆致がキャンバスには残っているが、はたしてそれはドラクロワ自身が行った筆致とは一致しないだろう。わたしたちは知的にその事実を推察することができる。
今津の筆致は、まずオリジナルの絵画が物質的に持つ操作来歴情報へのアクセスへの困難という情報環境と、またPhotoshop上で編集した画像を描き写すさいに求められる工夫という2つの要件によって、それが「今津によるこの筆致」であることを改めて強調する。つまり今津の絵画には、①アクセス不可能なドラクロワの筆致、②それをPhotoshop上で編集された操作・レイヤーのシミュレーションの水準、③それを今津が物理的にキャンバスに描く筆致、という主な3つの水準が重ねられており、そこに部分的奥行き差や一つひとつの操作がつかのま見出されるとき、その複数の水準がたがいに剥離した独立のものでありながら癒着していることを主張するのだ。
たいして山本の絵画では、空間表象の水準がそうした剥離と癒着の運動にかかずらっている。今津におけるそうした運動はおもに筆致どうしの関係によるものだったが、山本においては、そうした筆致が何かの像に見えるという位相が、「震え」を触発する。今津と同様に整理すれば、山本の絵画では①部屋に佇む人物(をあらわす像)、②Illustrator上で編集した操作のシミュレーションとして見出される水準、③それを山本が物理的にキャンバスに描く筆致、という主な三つの水準が重ねられている。今津にくらべて山本の絵画平面はより平坦で、例えば筆のこすれなどは見られない。また、今津においては「指先ツール」が油絵具を思わせることでその物理的作業の水準へも注意を促していたのだが、山本の用いるIllustratorはそうした絵具のようなイメージをつくりづらい。山本の用いるアクリル絵具やペンのマットな質感もあいまって、そこでは②と③の水準はどちらかというと「癒着」している。だが例えば《sick girl》(2017)は、「物理的描画」が「illustrator上の編集」から剥離していることを間接的に示している。
注目すべきは2点である。ひとつは中央下部の「インクが垂れたような線」、もうひとつはもっとも背景にある「モザイク状の色面」である。とくに前者は、一様な太さの線からインクが垂れたように、垂直方向へ線が伸びている。もちろん実際に垂れた痕ではないが、絵が「物理的に描かれている」ことへと鑑賞者の意識を向け、一度は絵画平面を物理的な絵具としてまじまじと見させるだろう。同時にそれは、中央描かれたナイフに垂れる血液との相異をも強調している。かたや液体が「ナイフ」に垂れているのにたいし、かたや液体は「画面」に垂れている。そのうえ、「ナイフに垂れている」ことが描かれているのと同様に、「画面に垂れている」のも、実際に垂れているのではなく描かれている。山本は、個々の水準が自身ないし他の水準を強調するような仕掛けを平面内に多く配置することで、鑑賞者の知覚的および知的な「
アンドゥされうる/しうる表象としての操作
しかし畢竟、現象的な鑑賞の視点に立てば、絵画とはひとめに見られるものである。たしかに、絵画には複数の水準が見られうるし、そのような実践はモダニズム以降絵画の主たる実践に数えられるとは言えど、しかしまず絵画は、ひとめに、ひとつの、べったりとしたひとめの見えとして見られるのだ。それは平坦に見られるということではない。遠近が表象されてあるにせよないにせよ、レイヤーの重なりが見つけられるにせよ見つけられないにせよ、まず絵画は、いまだ水準の分節がなされてもいないし、ましてやその分節が混乱させられてもいないものとして提示される。わたしたちが絵画における表象や物理、あるいは画像制作過程としての操作といった水準を、たがいに剥離した/しえるものとして見出すためには、その構造への常識的で知的な理解と、またつかのま見出される「震え」が必要なのだ。
かくして前節で述べた「決まった奥行き/つかのま見出される差そのもの」は、たんに物理的絵画とデジタル画像とのあいだで構造的に並列したものではなくなる。固定された奥行きというのは、見出される差どうしが、およそそのヒエラルキーが統一される限りであらわれるにすぎない。物理的であるというのは、実時間がそのヒエラルキーを保証するということだ。たいしてデジタル画像は、永田が指摘するように「自身が生成されたプロセスを把持しない無時間的なメディウム」である。「
生成のプロセスの「把持」は、前節で取り上げた、今津の絵画における「既存の絵画の画像の使用」とも関わる問題だ。ドラクロワの絵画生成プロセスがウェブ上の画像には引き継がれず、その画像を操作した編歴もまた、キャンバスに描き写されるために最終的に確定した画像には引き継がれない。デジタル変換を経由した生成プロセスは、もはや見出されがたいものとして、物理的な生成プロセスの痕跡である画面の裏側に、かつて-起きた-はずのものとして空疎に張り付いている。だがここでいま一度、冒頭で触れた、山本の〈歯〉が「かつての場所からいまの場所に移動させられた」という過去を垣間見せる点について思い出そう。あるいは今津や小林の用いる指先ツールが、どちらからどちらに伸ばされたのか、少なくともどの方向にカーソルないしタッチパネル上の指が移動したのかを想像させる点について思い出そう。
繰り返すが、もちろんそれはシミュレーションであって、そのような操作が〈あったかもしれない〉ことを、ソフトウェアの標準的な挙動、ツールの簡便性やなじみ深さにもとづいて想像さえやすいにすぎない。デジタル画像を経由するとは、単なる明滅に置き換えられることなのだから。だが、そうした原理的な視点は、そこに何らかの操作の痕跡、プロセスの存在を想像させるようデザインされているという表象・記号の視点と矛盾するものではない。
松永伸司の整理によれば、「表象(representation)」は、表すものたる「記号(symbol)」と、表される「内容(content)」の二要素からなる(*6)。犬がいるという内容を、「犬がいる」というテクスト記号が表象しているし、この文章は表象に関する文であるという内容を、「この文は表象に関する文である」というテクスト記号が表象している。記号や内容は必ずしも明確に分節されるものにかぎらず、絵画においてはそのモチーフが内容、絵具によってつくられたある色彩のまとまりが記号として対応している。
こうした区別は、ジェラール・ジュネットの「物語言説(discourse)/物語内容(story)」という区分を思い出させるだろう。ジュネットの『物語の詩学』訳注に簡潔な整理があるので、それを一旦引用しよう。
物語内容は、物語によって報告された内容、すなわち語られた出来事の総体を指し、(中略)物語言説はそれらの出来事を喚起する言説(テクスト)を指す(*7)。
内容を言説が表象する。ジュネットはこの二層関係についてさまざまな観点から着目しているが、とくに時間について確認しよう。「物語内容時間」とは、複数の「語られた出来事」が、その物語の世界で起きる時間を指す。たいして「物語言説時間」とは、物語言説であるテクストが読まれる(あるいは聞かれる)時間を指す。さらにジュネットはこの時間について、出来事/記述の「順序」、「持続」(相対的な長さ)、「頻度」(発生回数)の点から分析するが、本稿で取り上げるべきは順序だろう。通常語られる「ももたろう」において、言説の順序はそのまま、内容の順序と一致している。だが、まず鬼ヶ島に着いた記述から始まり、それから老夫婦がももを拾う記述が続くような場合、内容と言説の時間は不一致になる。なぜなら、記述がそうなったからといって、「桃太郎が鬼ヶ島に着いてから老夫婦がももを拾う」という話になるわけではないからだ。順序が不一致になる技法をジュネットは「錯時法」と呼んだが、はたして時間の不一致は、ここまで論じてきた絵画の複数の水準の問題にも見出せるだろう。
山本の〈歯〉に再び戻ろう。
〈歯〉の一部が取り残されていることで、「ダイレクト選択」ツールによる操作が行われたことが、ソフトウェアにたいする鑑賞者のリテラシーから想像できることはすでに指摘した。そこには、状態の差分、順序を見ることができる。まず歯の図像がアンカーポイントで描かれてから、それは移動された。原理的にそれはシミュレートされており、画面に定着されるさいに実際の制作プロセスを引き継げてはいないとしても、ともあれ〈そのように〉シミュレートされているからこそ、そのように想像することがアフォードされているのだ。
Illustratorを含む多くのソフトウェアには「アンドゥ」機能が搭載されている。「アンドゥ」すると、「ひとつ前の操作を取り消す」ことができる。もし山本の〈歯〉を「アンドゥ」すれば、もともと十全な歯の図像へ戻るだろう[図5]。上方から下方へ移動したのか、あるいは不自然だが下方から上方へ移動したのかは確定しがたいにせよ、何らかの来歴、操作の順序がそこでは表れている。
さて、「
ここで急いで、「まず絵画は、いまだ水準の分節がなされてもいないし、ましてやその分節が混乱させられてもいないものとして提示される」ことを思い出そう。まず先に安定した三水準があるのではなくて、たがいのヒエラルキーに還元できない諸々の水準差を感じ取ることで、そこに水準のミクロな分節が見出され、この分節がまとまっていくことで、ひとつの統一された水準になるのだ。表象は、分節になりうる。例えば空間を持つ内容が集まって具象像の水準となるし、記号としての絵具が見出されていくとそれが物質的な性格によって成立している水準が見出される。本稿がとりあげているソフトウェア的操作とは、デジタル変換をつうじて一度生成プロセスがリセットされる位相を経由しつつ、さらにソフトウェアの代表的ツールへのリテラシーによって、物質的に成立した色面に表象されながら、しかし絵具とは異なるしかたで具象像の表象に関わる水準として、差し挟まれてくるのだ。
だが、例えば山本の同作の〈薔薇〉のほうに注目してみよう。角度は下向きとはいえ、それは〈歯〉とちがって、Illustrator特有の形状は見られない。輪郭とベタ塗りで表現された一般的なイラストレーションといえるし、通常これを単独で分析しても、余計な三層構造は見出されないだろう。単に、薔薇という内容を、線やら色面やらが記号として表象しているだろう。
しかし、この場合はそうではない。ふたたび冒頭の節の記述を思い出そう。Illustratorの操作が固有の水準を手に入れるのは、「画面全体の複数の要素からコノテーションされ」ることによる。山本の絵画においては、〈歯〉に見出される「ダイレクト選択」だけでなく、一様な線太や色面、閉じてない線に対する塗りなどの要素までが総合して、ソフトウェアの操作の水準が認められているのだ。そうした諸々の要素は、個々の表象において内容と切り離されるときに確認されるのである。一見Illustratorライクでない〈薔薇〉に関しても、こうしたコノテーションによって、「赤い塗りで黒い線のベジェ線オブジェクト」という水準の部分として見出される。表象=水準差からそれぞれの水準が定立されると同時に、定立してきた水準が、個々の要素に「見方」の重層性を与える。絵画を観て、どれが何を表しているかを把握することが、たがいの要素のポテンシャルを引き出し、絵画全体に緊密な情報を充填していく。複数の水準が、癒着したり剥離したりしてたがいに触発することが、新たな癒着や剥離を生み、絵画面の情報をつぎつぎ波打っていくのだ。
ジュネットの知見に戻れば、記号の持つ順序と、内容の持つ順序は必ずしも一致しない。アンドゥできそうな個々の操作は、具象像に、癒着しそうな、剥離しそうな緊張を保ちながら、そこにささいな時間を持ち込むのだ。だが、その時間は不明瞭であり、いかなる時間か軽やかに述べることはむずかしいはずだ。たんに具象のなかで「歯が高速で動いた」と換言できるようなものでもなく、片足だけソフトウェアの位相に残したまま、心象とも具体ともいえない、しかし〈何も起きていない〉ともいえないイメージを注入し、鑑賞者は具象像を、それなしで読み取ることはできない。外部から注入された毒のように、それは画面全体にしみわたり、すこしずつ、〈ソフトウェア的操作との緊張も念頭において〉鑑賞するように知覚を蝕んでくる。