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2019.6.21

いまこそキュレーターの給与を考えよう。衝撃のデータがウェブ上で公開

5月31日、フィラデルフィア美術館のキュレーターがインターネット上で「Arts + All Museums Salary Transparency 2019」と題されたGoogleスプレッドシートを公開した。このファイルに含まれているのは、主要美術館やギャラリーなどをはじめとする、美術業界で働く人たちが自己申告したリアルな給与情報。ファイルの存在は、瞬く間に業界内に知れ渡った。アート界に大きな衝撃を与える「給与の透明化」への動き。その背景と、データから見えてくるものとは?

文=國上直子

ホイットニー美術館外観 Photo by Ed Lederman © 2016
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 「Arts + All Museums Salary Transparency 2019」を公開したのは、現在フィラデルフィア美術館でヨーロッパ装飾美術・デザイン部門のアシスタント・キュレーターを務めるミシェル・ミラー・フィッシャーという女性。フィッシャーは、過去にニューヨーク近代美術館(MoMA)、メトロポリタン美術館、グッゲンハイム美術館で勤務した経験を持つ。

 「数年前、給与における透明性や、複数の要素からなる給与格差について考えるようになり、それ以降キャリア・トークの機会があるたびに、自分がこれまで経験した仕事の給与をシェアするようになった」というフィッシャー。今年、キュレーターのキンバリー・ドリューが同じ試みを行っているのに後押しされ、同僚とともにシートの作成を行い、公開に踏み切ったという。

 「Arts + All Museums Salary Transparency 2019」が行っているのは、美術業界に従事する人々の給与情報の収集と公開だ。新規のエントリーは、こちらから受け付けており、これまで集まったデータの最新版はここから見ることができる。

 情報の入力は無記名で行うことができる。勤務先名もしくは勤務先の形態(美術館、ギャラリーなど)、役職、部署、国・都市、スタート時の給与、直近の給与、雇用形態、福利厚生、経験年数、育児休暇、性別、人種、学位などが記入項目として設けられている。記入者が特定されるような情報の入力は不要だ。

 現在、シートの公開から約3週間で、2500を超えるエントリーが集まっている。大多数がアメリカ国内からのものであるが、ヨーロッパやアジアなど他の地域からのエントリーも含まれている。美術業界における幅広い職種の給与情報に加え、企業コレクション、博物館、動物園などで勤務する人たちからも情報が提供されており、文化施設の運営の背景にどのような仕事が存在するのか知るう えでも、有用なデータとなっている。

ニューヨークにおけるキュレーターの例

 ひとつの例として、ニューヨークのキュレーターという視点からデータを見てみたい。ここで抽出したのは、ニューヨーク近代美術館(MoMA)、ホイットニー美術館、メトロポリタン美術館、グッゲンハイム美術館でキュレーションに関わるポジションにつく人々の最新給与だ(直近の給与が欠けているもの、時給ベースのポジションのデータを除く)。

 「Arts + All Museums Salary Transparency 2019」より作成(役職は元データのまま。データは6月17日に抽出したもの)

 もっとも目を引くのは、ニューヨーク近代美術館の「主任キュレーター」の給与。他館のデータが不足しているので、他より高いのかは判断できないが、かなりの高給職であることは変わりない。

 同館のフェローと主任キュレーターとの間には、およそ10倍の給与の開きがある。フェローから主任キュレーターに登りつめるには、何年ぐらいかかるのか、その間どのようなキャリアパスがあるのか、どのような競争をくぐり抜けなければならないのかなど、いろいろな興味が湧いてくるデータだ。

 メトロポリタン美術館は、データ8件中5件において、「就職にあたり博士号が必要」と記載されている。他の美術館より応募要件が厳しいようだが、学歴面でのプレミアムは給与自体には反映されていないように見える。

 多くの学問同様、アメリカにおいて美術系の学位取得にかかる費用は安くない。どの学校に行くのか、実家から通うのか、奨学金が出るのかなど、様々な要素でコストは大きく変わるが、例えば有名私立で修士号まで取ろうとすると、学費だけで2000万円近くかかるようなことは珍しくない。

 これらの数字を見る際には、ニューヨークでの生活費に加え、費やされた教育コストとそのローン返済なども考慮した方がいいだろう。ちなみに、ニューヨークのひとり当たりの年間平均所得は69932ドル(755万円)となっているが、このリスト上のポジションの多くは、その値を下回っている。

無給インターンの存在

 アメリカの大学生は、学位取得の一環でインターンシップを経験することが一般的である。しかし美術業界のインターンシップはほとんどが無給であると言われ、これを「悪習」とする声は以前から強い。

 「Arts + All Museums Salary Transparency 2019」には、アメリカ国内のインターンに関するデータが55存在する。そのうち、有給が17件、無給が38件。有名美術館のインターンは多くが無給となっている。

 有給のものでもっとも賃金が高いのは、ナショナル・ギャラリー(ワシントンD.C.)で、月給3200ドル(年収換算で415万円)。続くのは、J・ポール・ゲティ美術館(ロサンゼルス)で年収3万ドル(324万円)。そのほかは時給制が多く、9〜20ドル(972〜2160円)の間となっている。

 メガギャラリーのガゴジアンは時給13.50ドル(1458円)、デイヴィッド・ツヴィルナーは11ドル(1188円)。ニューヨーク市の最低賃金が、15ドルと設定されているのを考慮すると、これらのギャラリーの時給がそれを下回るのは目を引く。インターンは正式な従業員とはみなされないので、最低賃金以下の給与を設定すること自体に問題はないのだが、「無給が当たり前」の業界慣習が低時給に影響を及ぼしている可能性は高い。

真剣な議論と変革の始まり

 「Arts + All Museums Salary Transparency 2019」の発起人であるフィッシャーは、「ARTNEWS」に対して「このデータがきっかけとなって、同僚たちの間で対話が行われるようになることを望んでいる。行動を起こさなければ、何も変わらない。時には、ほんの小さな行動が変化を生む。団結することが、大きな変化を生み出す唯一の方法」と語っている。

 「Arts + All Museums Salary Transparency 2019」に蓄積されているサンプルは、プライバシーの保護上、欠けている項目もあり、詳細な分析を行うのに十分とは言い難い。しかし美術業界における、労働環境の問題点や改善点について議論するための材料が豊富に含まれた貴重なデータだ。ジェンダーや人種の観点から議論を行うには、より多くのサンプルが必要なように見え、さらなる情報提供が業界全体の議論を活性化するには欠かせないだろう。

 これまで美術業界は、「労働力の供給過多による激しい競争」「経歴に加え人脈も重視」「労働者の熱意を利用し賃金を抑える“やりがい搾取”」「富裕層の社会勉強の場であり給与交渉が重視されない」などの様々な要素が低賃金や給与格差の維持に貢献していると考えられてきた。「Arts + All Museums Salary Transparency 2019」はこれらの推測に白黒をつけるものではないが、これらを再考する機会を多くの人に提供していくことになりそうだ。