フェルメール・ブランドはいかに生まれたのか? 17世紀オランダ絵画事情から探る
日本で絶大な人気を誇るヨハネス・フェルメール。その名前はいかにして「ブランド」となっていったのか? フェルメールが生きた当時のオランダの絵画事情や同時代の他の画家たちによる作品の紹介も交え、フェルメール・ブランド誕生までの軌跡をたどる。
穏やかな光と、静謐な空気を湛えた室内画で名高いフェルメール。彼が自らのスタイルを確立した、記念碑とも言うべき作品《窓辺で手紙を読む女》が、4年間にわたる修復期間を経て、2021年に制作当時の姿を取り戻した。そして現在、東京都美術館で開催中の「ドレスデン国立古典絵画館所蔵 フェルメールと17世紀オランダ絵画展」における展示が、修復後、所蔵館以外で世界初公開となる。今回は、フェルメールが生きた当時のオランダの絵画事情や、同時代の他の画家たちによる作品の紹介も交えながら、作品と「フェルメール・ブランド」の誕生までの軌跡をたどってみたい。
オランダの絵画事情
西洋美術では、ジャンルにヒエラルキーが存在する。最高峰にあたるのが、神話や聖書のエピソードを題材にした、歴史画(物語画)だった。描くにあたっては、主題の選択と解釈、人間描写、画面を構成していく力など、様々な面において、画家自身の技と教養とが試された。
ヨーロッパにおいて、画家として一流と認められたければ、こうした歴史画を描くのが長く王道だったのである。しかし、17世紀のオランダでは、他国に比べて事情が違っていた。
プロテスタントの共和国として独立したオランダでは、他のヨーロッパ諸国と違い、王侯貴族が存在しない。パトロンとなる、絵画の購入層は裕福な市民たちであり、彼らは遠い昔の、地理的にも隔たった場所の物語を描いた絵よりも、自分たちにとってより身近な主題──生活の一場面や、身近な風景、物品(静物)を描いた絵を好んだ。また、プロテスタントでは偶像崇拝が禁止されているため、教会からの大型の宗教画の注文もなかった。
そのような状況のなかで、歴史画(物語画)は、むしろ衰退しつつあった。卓越した技を持ち、作品を通してそれを示せたとしても、ニーズと噛み合わなければ、画家としての成功は望み難い。歴史(物語)画家としての成功を目指し、《マルタとマリアの家のキリスト》など、いくつかの作品を手掛けていたフェルメールも、やがてこの現実を前に風俗画家への転身を選ぶこととなる。