2015.11.30

藤田嗣治全所蔵作品展が提起した、日本の美術館の可能性

東京国立近代美術館所蔵品ギャラリーで開催中の「MOMATコレクション 特集:藤田嗣治、全所蔵作品展示。」(12月13日まで)。波乱に満ちた生涯を描いた映画も公開され、画家・藤田嗣治への注目はいっそう高まっています。この展示では、同美術館所蔵の藤田作品をすべて公開。なかでも、藤田が手がけた戦争画14点が初めて一挙に展示され、話題を呼んでいます。国内外で人気の高い画家・藤田ですが、実はこの展覧会には、美術館のありかたと未来を考える意図も。今回は、担当学芸員の蔵屋美香さんにお話を聞き、藤田と戦争画を、そして美術館のこれからを考えます。

近江ひかり

「藤田嗣治、全所蔵作品展示。」展示風景。戦争画を含む、東京国立近代美術館所蔵の藤田嗣治作品がすべて公開されている 撮影:大谷一郎
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「複雑な人」藤田嗣治と戦争画

──この展示では、東京国立近代美術館所蔵の藤田嗣治作品がすべて公開されています。まずは展示のみどころなどをお聞きしたいと思います。

藤田の作品を時系列で通覧できる展示なので、作風が変化していくのがよくわかります。また、今回初めて当館所蔵の藤田の戦争画を一堂に展示しています。戦争画以外の作品と合わせて見ることで、戦争画にも藤田独特のこだわりや個性が表れていることが読み取れます。

──本展の企画者である蔵屋さんから見た、画家・藤田の印象はどのようなものでしょうか?

藤田はとても複雑な人だと思います。若いときから、いつかルーヴル美術館に作品を収めると語り、ヨーロッパという教師に学ぶという、ほかの日本人美術家の姿勢とは明らかに違っていました。こう考えると、戦争画制作も、ヨーロッパ絵画の歴史の一部になりたい、自分だってレオナルド・ダ・ヴィンチやミケランジェロに負けないものが描ける、という野心があってのものと理解できます。ヨーロッパ絵画において戦争という主題はごくごく伝統的なものなのですから。とすると、藤田はいやいや戦争画を描かされたわけでも、だからといって単純に戦争に加担しようと思って描いたわけでもないのです。

その複雑さは、有名な《アッツ島玉砕》(1943)を例にとるとわかります。この作品は悲惨な戦場のようすを描いているので、反戦の祈りを込めた作品のように言われることがあります。しかし、当時はこの悲惨な玉砕戦自体が、「それでも負けないぞ」と気持ちを奮い立たせる目的で軍部により盛んに報道されていたのです。そうした雰囲気の中で反響を得た作品ですから、場面が凄惨だからといって藤田が反戦のメッセージを掲げたと単純に考えることはできません。「1日13時間、22日間ぶっとおして描いた」と新聞(*1)のインタビューに答える藤田は、明らかに誇らしげです。また1886年生まれの藤田は、軍人を父に持ち、少年時代には日露戦争(1904〜1905)の勝利がありました。明治の男の子が持つ戦争へのワクワク感が、筆を進めるエンジンにもなったでしょう。

しかし一方、画面をよく見ると、すごい形相をした日本兵の脇に美しい顔をしたアメリカ兵のなきがらが描かれていたりする。あるアメリカ兵はまるでキリストの磔刑図のようなポーズで亡くなっており、脇には小さな花も添えられている。《アッツ島玉砕》には、この主題に進んで取り組む藤田と、時局に対して冷静に距離を保つ藤田の二つの姿が見え隠れします。西洋絵画から学んだ技術を活かそうとする藤田、戦いに興奮する藤田、亡くなった人を悼む藤田が、一枚の画面に共存しているのです。こうした複雑さは、実際に作品を前にして、あい矛盾する要素をていねいに観ることで、初めて実感できるものです。

撮影:大谷一郎

──藤田が手がけたものだけでもさまざまな題材の作品があり、戦争画といっても、戦闘や殺戮の場面が描かれた作品ばかりではないということがよくわかります。

そうですね。変わったところでは、たとえば《猫》(1940)や《動物宴》(1949〜60)といった作品です。動物が描かれているので「かわいい」と言う人も多いのですが......。実は《猫》は日中戦争の戦争画を描いていた同じ時期に制作されたもの。茶を主にした色調や、奥行きのない空間にたくさんの猫がひしめく構図は《アッツ島玉砕》によく似ています。いわば猫の姿を借りた戦争画です。

《動物宴》は戦後の作品ですが、壁に掛けられた絵の中の女性の形と、テーブルの上に置かれた肉の形はほぼ同じです。動物たちはナイフを手に肉をとり囲んでいます。まるで壁の絵は女性の遺影で、動物たちがすでに亡きものとなった女性をこれから食べようとしているかに見えます。この暴力的なシーンには、戦争画の影響、あるいは戦争画を描いて責めを受けた藤田自身の境遇の影響があるのではないでしょうか。

作風の変化に見る、画家・藤田の葛藤

──戦争画だけでも藤田の作風がどんどん変わっていくのがわかり、表現を模索する葛藤が伝わってきます。

藤田が1920年代にパリで成功したのは、空間に奥行きをつくらず、人や動物といったモチーフに陰影による立体感も付けない、浮世絵を連想させる平面的な画面づくりのためでした。日中戦争が始まって翌年の1938年から、藤田の戦争画制作が始まるのですが、その時期には、平面的な画面づくりをやめ、遠くに広がる空間を描く、という新しい課題に取り組んでいたことがわかります。戦争画をかっこうのきっかけにして、いままでにない描き方を試していたんですね。

たとえば《哈爾哈(はるは)河畔之戦闘》(1941)で、藤田は、二点透視図法を用いて広々とした草原を描いています。しかし、遠く広がる空間を舞台にすると、本当は見どころであるはずの人物が小さくなってしまいます。これでは戦争画としての迫力はうまく出ません。そこで後の《シンガポール最後の日(ブキ・テマ高地)》(1942)、《アッツ島玉砕》(1943)あたりから、兵士をアップで描く構図を採用します。こうすることで空間の広がりはふたたび犠牲になりそうなものですが、藤田は、ドラマティックな雲が湧く空とか、米粒のような兵士が散らばる超遠景とかいったものをアップの兵士の背後に配し、戦争画にふさわしい壮大さ、荘厳さを巧みに演出することで、この難点をカバーしました。

戦争画は当初「作戦記録画」と呼ばれていました。軍部にも画家にも、主要な軍事作戦を歴史的な記録に残す、という意図があったのだと思います。しかし、初めは従軍画家として戦場への取材に赴いていた画家たちも、戦況が厳しくなるとそれができなくなり、やがて資料や想像をもとに戦争画を描くようになります。藤田が現地でこの光景を見たはずもない(だって全滅戦なのですから)《アッツ島玉砕》、そして同時並行で描かれた《ソロモン海域に於ける米兵の末路》(1943)がその典型例です。《ソロモン海域に於ける米兵の末路》にいたっては、タイトルがなければこれが戦争画であることすらわかりません。ここでの目的は、具体的な太平洋戦争期のどこそこの戦場を描くことではなく、人間が極限状態に置かれるとどうなるのか、という普遍的な問題を描くことなのです。テオドール・ジェリコーの《メデューズ号の筏》(1818-19)や、ウジェーヌ・ドラクロワの《地獄のダンテとウェルギリウス》(1822)といったヨーロッパ絵画を下敷きに、自由に想像力を駆使して描かれたのがこれらの作品なのです。

藤田嗣治というとドラマティックな人生のストーリーばかりが強調されがちです。しかし、冷静に作品を通して見ると、ヴィジュアル・イメージをいかにつくるかについてのもうひとつのストーリーが浮かび上がってきますよね。

絵画だからこそできる、「戦争」へのアプローチ

──戦争画というと国民に対する戦意高揚の手段というイメージがある人も多いと思います。しかし、実際に作品を鑑賞すると、戦争画はそれだけでは語れないことに気づかされますね。

言葉で戦争を語ると賛成・反対のどちらかに傾いてしまいやすい。しかし、言葉ほどメッセージがストレートではない絵画には、見る人がさまざまに解釈する余地があります。だから、戦時下では解釈も厳しく縛られましたが、本来は立場の違う人でも一緒に見て、議論の土台にすることができるのです。それが、いまの視点から見て、戦争画を展示することの重要な意味だと思います。

藤田嗣治、特に戦争画をテーマに選んだ背景には、ふだん接するいわゆる美術好きな人たち以外にも観てほしいという気持ちがありました。私自身も、実は遠い昔の画家・藤田個人を知りたいという気持ちより、戦争画を通して「戦争が始まると表現者はどういう状況に置かれるか」という、いまの時代の問題を考えたいという気持ちが強いのです。戦争画は、70年前に起こったことの証人です。実物が目の前にあるのですからビビッドです。こういう状況に置かれたら自分も描くかなぁとか、反対するかな、できるかな、とか、従っているふりをしてどこかに本当の気持ちを込めるかな、とか、さまざまに考えるヒントをくれます。

この夏、多くの人たちが、いろいろなきっかけで、戦争とは何かについて考えましたよね。今回の展示では、よく知られる藤田の「悲劇の人生」についての解説を少なめにしています。ある画家の人生ドラマをそこに見るより、作品をよく見て、自分の問題として考えてほしいと思ったのです。

撮影:大谷一郎

伝えたかったのは、コレクション展の面白さ

──もともと、藤田展を企画した背景とはどのようなものだったのでしょうか。

この展覧会の企画意図は二つあります。ひとつ目は、これまで述べてきたように、戦後70年を迎え、みんなで戦争について考えようという意図。もうひとつは、コレクション展で何かできないかという美術館の課題へのアプローチ。日本では、特別展にしばしば大行列ができる一方で、コレクション展は素通りしてしまう人が多い。これが以前から気になっていました。

ルーヴル美術館やメトロポリタン美術館に行ったとき、みなさんもまず見るのはコレクション展示ですよね。東京国立近代美術館のコレクション展も、3000㎡、200点とかなりのボリュームで、東山魁夷の《道》(1950)とか、特別展に出ればすごい人だかりができるような作品が並んでいます。でもコレクション展だとなぜかあまり見る人がいない。実際にはひんぱんに展示替があるのでまったくそんなことはないのですが、いつでも見られるのだからいまでなくてもいいと思ってしまうのでしょう。そこで藤田特集の機会を使って、「コレクション展にもいろんなことができるよ」というメッセージを伝えたいと思いました。

人がたくさん集まる特別展は、もちろん私も大好きです。しかし特別展には大きな予算が必要です。現在の各地の美術館をめぐる苦しい状況を考えると、どこの美術館でも好きなように華やかな特別展が開けるわけではありません。この状況はしばらく続くでしょう。だから、その美術館が持っているコレクションでおもしろい! と言ってもらえる展示をつくることが、持続可能性の観点からして、美術館にとってもお客さんにとっても必要な時期だと思うのです。

──所蔵作品で藤田展をつくることに大きな意味があったということですね。コレクション展ならではのアプローチや魅力とはどのようなものなのでしょうか。

特別展はお金がかかるぶん集客のノルマも厳しくなります。そのため、どうしても印象派や仏像のように人気が高い内容が多くなります。現代美術展や、地味だけど社会的に意義ある展覧会などは開催しづらい時代です。一方、持っている作品でつくるコレクション展なら予算もかかりませんし、メッセージ性の強いものなど、挑戦的なテーマに挑むこともできます。

東日本大震災以降、日本の美術界の雰囲気が変わったと感じています。それまでの日本の美術界は、アーティストも美術館も観客も、純粋に色や形を楽しむ傾向が強く、社会に直接訴えかけることからは少し距離を置いている印象でした。しかし近年は社会に対してストレートに関わろうという動きが生まれ、それを機に当館の展示の方向性も意識的に変えてきました。いつでも手元にある自館のコレクションは、一過性でなく、じっくりと社会について考えようと思うとき、最良の手がかりとなります。

もうひとつ美術館の目線で言うと、コレクション展でいろいろなテーマを扱えば、コレクションに欠けている作品や偏っている分野にすぐに気が付くようになります。ポップ・アートをテーマにしたいのに作品がぜんぜんないな、とか。それが新しく収集する作品を探すときの指針になります。このやり方で、ここ数年、いままで当館であまり収蔵してこなかったアーティストの作品もいくつか収蔵することができました。

ただ、コレクションによるテーマ展示は、当館や東京都現代美術館など、多数のコレクションを持つ館だからこそできることでもあります。コレクションの数が少ない美術館にとっては、限られたものだけでメッセージを伝える展示を持続的に開催するのは難しいことです。その点、当館はとても恵まれているということも自覚しています。

蔵屋美香さん

社会の問題意識を共有する美術館を目指して

──最後に、蔵屋さんの考える、これからの美術館が目指すべきことや、実現していきたい取り組みなどをお聞かせください。

所蔵作品展「MOMATコレクション」では、この3年、日露戦争から1945年までの特集展示(「何かがおこってる:1907−1945の軌跡」)、関東大震災から大阪万博までの特集展示(「何かがおこってるII:1923、1945、そして」)を行ってきました。私自身はこれらの展示を通して、関東大震災によって社会不安が広がり、日中戦争開戦で東京オリンピックがキャンセルされ、次いで太平洋戦争が始まる、という流れが、今の日本の状況によく似ている、ということを確認できました。このように、過去の美術の動きに照らして今の状況を見ると、未来に起こることを考えるヒントが得られます。美術館の展示は、昔のことばかり扱う古くさいものではなく、いつでもいまの時代とリンクしているのです。観る人と一緒にこうしたリンクを一つひとつ読み解いていくことができたら、こんなに幸せなことはありません。今後もコレクションの利点を活かして、リアリティのある展示を発信していきたいです。

*1 「線香焚いて描いた―名作『アッツ島玉砕』の作者藤田嗣治氏来青して語る」 (無署名)・『東奥日報』1943年11月11日(針生・椹木・蔵屋・河田・平瀬・大谷編『戦争と 美術 1937-1945』2007年、国書刊行会p.262に再録)