2018.9.26

ひとりの女優の“ある変化”を追ったドキュメンタリー映画を発表。山本卓卓が語る「演劇ではできないこと」とは?

パフォーミング・アーツの祭典「フェスティバル/トーキョー」で、演出家・劇作家の山本卓卓(やまもと・すぐる)が映画を発表する。主宰する劇団・範宙遊泳の演劇作品では、プロジェクションを操り、生身の俳優との掛け合いを通して、独特の情感あふれる世界を繰り広げる山本。日頃から映像と演劇について考える機会が多いであろう彼が、映画をどうとらえ、今回どのような映像作品をもくろんでいるのか。話を聞いた。

聞き手・構成=前田愛実

山本卓卓 撮影=小林真梨子
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民主主義の演出

──まず最初に、演劇をずっとやってこられた山本さんが、フェスティバル/トーキョー(以下F/T)で、映画をつくることになった経緯を教えてください。

 3年ほど前に当時のディレクターの市村作知雄さんから「映画をやりたいと思っているんだけど、興味ない?」と聞かれたんです。「映画すごく好きなんで、ぜひ」とだけ言って、そのときは終わったんですけど、1年後ぐらいにまた「あの話はどうなんだ」「僕は全然やりたいですよ」っていう流れになりました。

──内容については何か要望はありましたか?

 内容までは言われませんでしたね。F/Tは、世間的に演劇の祭典と思われていますが、映画によって新たなF/Tの可能性を開きたいという思惑があったみたいです。1年後に話したときは、市村さんの退任が決まっていたので、「俺の権力も無くなるし、いまのうちにやっておかないと」って言われて(笑)。

──大勢いる演出家の中から山本さんが声をかけられたのはなぜでしょう。そういうお話はしましたか?

 「絶対権力的な演出家はもういい。民主主義を取りながら、自分のこだわりを発揮できる人がいい」というようなことは話しました。僕もピラミッドみたいな制度はすごく嫌いなのでそこは一緒だなと。僕は自分で脚本も書くし、演出もするけど、役者から出てきたものも拾うし、それをちゃんと認める人でありたいと思ってる。作品は全部僕から出てきたわけじゃない。当然のことですけど、見落としがちなこと。全部俺がつくったんだぞ、みたいなものではないです。

──それは今回の映画にも反映されていますか?

 もちろん。僕ははなから、あるところまで以上をコントロールする気はないんです。これ以上コントロールできない、その先何が起こるかわからないってところがあって、それを拾ってくのが僕の仕事。コントロールするんじゃなくて。

山本卓卓 撮影=小林真梨子

──民主主義は映画と演劇、どちらのほうが実現しやすいんでしょうか?

 映画って役割がすごくハッキリしてると思うんですね。担当部署が決まってる。カメラマンは撮影に集中すればいいし、役者は演技のことだけ考えればいい。演劇の場合はそれが曖昧になりがちな気がします。例えば役者がドラマトゥルク的な役割を担ったり、制作業務を兼任することは結構ある。クリエイティブの現場における政治性となると難しいですけど、一般的に民主主義では役割分担がはっきりしているのかなって思うと、自分の担当するもののことだけ考えて、それ以上のことをする必要がないし、そこだけに責任を持てばいいというのは、健康的な気がしますね。

痩せるのか、痩せさせられるのか

──今回の映画はドキュメンタリーの手法を取り入れつつ、長期間ひとりの人間を撮影するそうですね。もう撮影や編集は終わってるんですか?

 まだ撮ってるんです。2ヶ年計画のドキュメンタリーなんですよ。その人に起こることとか、その人が起こしていく出来事とか、出会う人々を拾いながらずっと撮る。2週間に1回くらいのペースで撮ってるんですが、また終わってません。今年はパート1を撮っています。

──内容についてお聞きしてもいいでしょうか。具体的なことはあまり公表されていないですよね。

 そうなんですよね。内容については、まだ「人が変化する」としか言っていなくて……。なんて言うんですかね、僕がもともと一緒にやっていた劇団の子が、すごくふくよかな女性なんです。端的に言うと、その子が痩せていくまでの過程を追うドキュメンタリーです。痩せた彼女が来年一人芝居の「ドキュントメント」(*1)を上演する、というところから映画がスタートしてる。昔からそうですけど、いま巷では痩せてナンボの広告がたくさん貼られていて、「痩せたあなたがいちばん美しい」と言っている。だけど、例えばひとりの人が決心して痩せたとして、それは果たして本当にその人自身が選んで痩せようとしたのか、それとも社会や広告の要請で痩せさせられたんじゃないか。「綺麗になりなさい」っていう魔法をかけられたんじゃないか?っていう疑問がまずあった。“してる”のか、それとも“させられてる”のかっていう境界は、“やる”と“やらせ”の境界でもある気がします。

『Changes』メインビジュアル

──それでタイトルが『Changes』なんですね。しかし、どうして公表を控えられていたんですか?

 例えば彼女の周辺がそれを知ると、「痩せる企画やってるんでしょ」ってなっちゃうのを懸念しました。パート1を撮っている段階でお客さんを意識しすぎて、彼女自身に起こってしまう変化がちょっと怖いなと。

──確かに。「痩せる」という圧力をいろんな方面から感じてしまいそうです。そもそも、主演の女優さんは「痩せたい」と言ったんですか?

 そこが曖昧なんですね。もちろん痩せるというテーマで映画を撮りたいとは話しましたけど、彼女が“痩せたい”と思っているのか、“痩せさせられている”のかは曖昧です。気持ちは変わり続けていくはずだし。彼女にはあくまで女優として声をかけて、1年かけて“痩せる”演技をしてくださいと伝えました。でもこの話は、強制ではないんですよ。彼女が痩せられないパターンも絶対ある。そしたらそれを拾う。さっきも言ったけど、僕は全部をコントロールする気はないので、体重も測っていないし、いわゆるダイエット企画じゃない。痩せるということを投げかけたときに、彼女が何を感じて、どう実践してくか。気持ちの流れや、周辺の変化なども含めて撮っている。

──痩せ方もコントロールしてないんですか?

 したりしなかったりですね。体重も自己申告制なんです。だから嘘もつける。例えば次の撮影までに、「5キロ痩せててね」って言うとするじゃないですか。でも痩せようとするかしないかも彼女次第だし、本当は痩せてなかったのに、痩せたって嘘ついても別にいい。

なぜ“痩せる”がテーマだったのか

──なるほど、となるとそれはさらにテーマが複雑になりますね。脂肪なんてみんな隠し持ってますし。でもなぜそもそも“痩せる”ってことに注目したんですか? 女性の監督ならそうなったのもわかる気がしますが。

 僕、もともとすごく肥満児だったんですよ。だから、他人事じゃないんですよね。太っていたのは小学生のときで、思春期になったら自然に痩せたんですけど、ここ4〜5年くらいでまた太ってきた。痩せなきゃと思って、走ったり筋肉鍛えたり、必死になっていたときに、ある日突然「何だろうな、これは」と思った。自分が痩せようとしてるのか、強迫観念で痩せさせられているのかもしれないとか。やっぱりみんなカッコいい人が好きじゃないですか。だとすると自分はカッコいい人になろうとしてるのか?とか。

 例えば、人が大人になるときって、「大人になりなさい」って世間に言われてなったんじゃないかっていう疑問があるんです。「成人したらこういう考え方を捨てなさい」「ワガママを言うのは子供です」とか、あれはダメそれはやめなさいっていう教育、つまり「世間の目」で大人にさせられたのかなって。そうやって社会が理想とする大人像とか、日本社会が望む「日本男児」にさせられたのかな、と思ってしまう。

──痩せようとする自分に対して、社会が求めている型に自分をはめようとしているんじゃないか、という疑問が芽生えたと。

 そうです。巷にあふれているものに対する素朴な疑問。それについて考えたいんでしょうね。撮っていけば考えていけるし、起こる出来事に発見があるだろうし。映画とか芸術をつくるのは、だから考えるための口実なのかなって思ったりします。

山本卓卓 撮影=小林真梨子

演劇の時間、映画の時間

──映画の先に上演があるという構想にしたのはどうしてですか?

 演劇と映画の時間の扱い方の違いがすごく面白くて、それで途中からそういう設定にしたんです。演劇って1年かけてつくったとしても、1年間のプロセスは見せられないんですよ。映画はそれができる。時間切り取って、1年間のプロセスを、ちゃんとヴィジュアルで見せていけるんです。痩せていく過程なんて、ましてや演劇では見せられないじゃないですか。例えば「1年上演します」みたいな演劇は無理ですよね。観客を1年なんて拘束できないから。だから、その時間の表現の違いっていうのが、いま僕の中ですごく楽しい。

──変化の経過を見せるっていうことで言うと、多田淳之介さんの『再/生』がありますね。踊り続ける反復によって、身体が疲弊していく課程が1時間くらいのなかで見えてくる。この『Changes』はある意味、その1年バージョンということですか?

 演劇の場合は、物語の中で「10年後」っていうのが嘘で成立しますよね。歳を取ったということを、背骨を曲げたりとか、安直にそういう嘘で見せることができる。でも映画なら実際の10年後を見せることも可能です。リチャード・リンクレイターの映画『6才のボクが、大人になるまで。』はまさにそれで、6歳の少年が20歳になるまでの14年間を映画で撮ってますけど、これって演劇では到底無理。6歳の少年と20歳の青年をマジックのように入れ替える、みたいなやり方でしか表現できない。演劇の表現の「ここまでしかできない」っていうのと、「でもここから先がやりたい」っていう自分の気持ちとの折り合いの先に、映画がちょうどよくスポッて入ってくれた。これは演劇ではできないな、と悔しがってたことができるじゃないかって。

──悔しいな、できないなって思ったことが実際しょっちゅうあったんですか?

 ありました。「ここで嘘つかなきゃいけない、悔しい」っていうのもあるし、「このプロセスが面白いのに」って思ったりもするんですよ。演劇をつくっているプロセスすらも。

──稽古で作品は変化しますものね。

 そうそう。でもそれを作品に還元するのは演劇じゃ無理だなとかね。

山本卓卓 撮影=小林真梨子

──映画では時間をかけて過程を追えるということですね。では、役者さんのほうから“演じる”ような場面はあるんですか?

 あります、あります。

──それは本人を演じるということになりますか?

 そういうときもありますね。例えば、彼女がインタビューのなかで、彼女の過去の話をしたりしますよね。昔こんな嫌なことがあって、電車でデブって言われた、という話をするとしたら、その再現を撮る。過去を追体験させるというよりそれは、フィクションであり再現である。僕たちのなかでは再現=フィクションなんですけど。

──なるほど、では日常のシーンはどうやって選んで撮ったんですか?

 日常の部分は、例えば今日は料理するシーンを撮りましょうって、スタッフとは打ち合わせしまくるんですけど、彼女にいっさいそれを知らせないんです。何も知らずにほとんどゼロの状態で撮影場所に来てもらう。そうすると考えてもしょうがないので、そのときの反応で動物的になるしかないじゃないですか。

──じゃあそれは少しフィクションの入った日常あるいは現実ですね。

 そうです。僕たち自身も撮りながら、現実とドキュメンタリーの境界がつねに曖昧で、これは何なんだろうってなってきました。

──なるほど。ドキュメンタリーだけど現実を構築しているドキュメンタリーということでしょうか。かといって劇映画でもない。現実とフィクションがわからなくなりそう。“痩せる”ということに対する価値観も違って見えてきます。これまで見たことがない映画な気がしますね。

 僕も映画好きなはずなんだけど、なんでこんなところに来たんだろうと思ってます(笑)。劇のフラストレーションがあったんでしょうね。僕、じつは、演劇でこれができる、っていうものは提供してきたつもりなんです。その自負はあって。でもそれって同時に、演劇にできないことは何か考えることでもあったので、映画では、演劇で絶対できないところをやってみたかった。

──山本さんがどんな映画を撮るのか全然想像がつかなかったのですが、よくよく聞いたらとても山本さんっぽいですね。形式としてはこれまでの演劇とも全然違うのに、山本さんらしい作品が見られそうですね。

 そうですね、すごく僕っぽい作品だと思います(笑)。

 

*1──山本卓卓によるソロプロジェクト。大掛かりな仕掛けや装飾を極限まで排除し、ひとりの人間の機微に焦点を当てた作品を制作している。本作『Changes』もドキュントメントの新作として発表される。