兵庫県立美術館「石岡瑛子 I(アイ)デザイン」インタビュー。現代人の心に響く石岡瑛子の仕事が美術館と共鳴する
神戸市の兵庫県立美術館で9月28日に開幕した「石岡瑛子 I(アイ) デザイン」展。世界的に活躍したデザイナー・石岡瑛子の「創造の旅」を紹介する本展の見どころを、監修者と学芸員に聞いた。
聞き手・文=永田晶子
広告、舞台、映画と表現ジャンルも国境も超え活躍したアートディレクター・デザイナーの石岡瑛子(1938~2012)。そのクリエイションの源泉に迫る展覧会「石岡瑛子 I(アイ)デザイン」が兵庫県立美術館で9月28日から12月1日まで開催されている。
石岡瑛子は東京藝術大学卒業後、1961年に資生堂に入社。前田美波里をモデルに起用した同社のサマーキャンペーンで注目を集め、独立後はパルコや角川文庫の広告を統括して新時代のイメージを創出した。80年代初頭から次第にニューヨークに拠点を移し、舞台美術や衣装デザインへ活動領域を広げて、映画「ドラキュラ」でアカデミー賞(衣装デザイン賞)を受賞するなど国際的評価を確立。五輪やブロードウェイミュージカルの仕事など精力的に活動し続けたが、惜しくも73歳で逝去した。
本人と親交があった安藤忠雄が設計した兵庫県立美術館で開催される本展は、渡米前の1960年代~80年代の仕事を中心にポスターやCMフィルム、書籍デザイン、アートワークなど約500点を、石岡が語った言葉も併せて公開し、同館限定のコンテンツも展示。石岡の創造の核となった「I=私」と本展の見どころを、企画と監修に携わった編集者・作家の河尻亨一と展覧会を担当した林優学芸員に聞いた。
唯一無二の特異な表現者
「石岡瑛子は、唯一無二のクリエイションの体現者であり、日本の戦後デザイン史における“特異点”」。世界初の石岡の評伝『TIMELESS 石岡瑛子とその時代』(朝日新聞出版)を2020年に上梓した河尻は、まずそう語る。全国5館を巡回する本展(島根県立石見美術館と、富山県美術館に今後巡回)は、河尻が石岡の妹でアートディレクターの石岡怜子、アートディレクターの永井裕明とともに「Team EIKO」として企画・監修した。会場に流れる石岡の声は、2011年に河尻が行った生前最後のインタビューのものだ。
「すごい人だったが、それゆえに一面的な切り取りで語られたり、矮小化されたりと誤解されやすい面もある。本展では、石岡のタイムレスな作品群と性別や国籍、年齢等あらゆるステレオタイプと戦った軌跡をどう展覧会で紹介し、世の中に発信していくかをチームで議論と検討を重ねた。石岡のクリエイションの核心を探る中で浮上したキーワードが、『Iデザイン』だった」(河尻)。
この言葉は、石岡が渡米後の主な仕事を記録した著作『私デザイン(I DESIGN)』の題名でも用いられている。河尻によると、この「I」は、閉じた「エゴ(自我)」と異なり、他者に触発されて自身を鍛錬して生まれる「私」を指す。外部に開かれ、作者の強靭な個性と思考に裏打ちされた表現は歳月を経ても古びない。そんな比類ない「Iデザイン」を、なぜ石岡は成し遂げられたのか。3つのポイントを河尻は挙げた。
クライアントワークの中で「私」を主張する
ひとつは創作姿勢。「仕事の大半がクライアントワークで様々な制約があったにも関わらず、つねに『私』の主張から出発しなければならないという独自の哲学を持ち、その姿勢を生涯貫いた。激しい意見交換も厭わない依頼主でなければ仕事は成立しなかったが、徹底的に我を通すように見えて、これほど他者の課題解決に真摯だったデザイナーも珍しいのでは? 圧倒的な熱量で仕事にのめり込み、クライアントと自身の完璧な交差点を執拗に探りながら着地を目指すのが瑛子の制作スタイルだった」(河尻)。
河尻が課題解決の一例に挙げたのが、70年代~80年代初頭に手がけたパルコの一連のキャンペーン。「裸を見るな。裸になれ。」「あゝ原点。」などメッセージ性が強い広告はセンセーションを巻き起こし、パルコのブランドイメージを高めた。「当初、PARCOは小さなベンチャー企業で、広告費も潤沢でなく、ポスター掲示やCM放映圏も限定的だった。そのなかで、どうすれば最大の効果を上げられるかを深く考え、圧倒的な存在感を示すビジュアルをつくり上げた。ポスターなどの刺激的なデザインや時代に向けたメッセージはいまだ色褪せていないが、じつはそれらが初期のPARCOの躍進に大きく貢献していることにも注目いただきたい」。
自身の主張をもとに社会を揺さぶる表現を創出した石岡。だが、「自らファインアートや自主企画を手がけることにほとんど関心がなかったようだ」と河尻は語る。「作家性が高いデザイナーには、横尾忠則さんや田名網敬一さんのようにファインアート志向が強くなる方も多い。瑛子がなぜ自己表現の道へ進まなかったかが疑問だったが、本人からは明確な答えが得られなかった。しかし、長年友人だった小池一子さん(クリエイティブ・ディレクター)に『人の役に立ちたかったのでは』と指摘され腑に落ちた。全力で『私』を主張しながら他者のためにも力を尽くす。創作における利己と利他の『完璧な合致点』の模索。それが瑛子の生涯の逆説であり、作品の今日性に深い場所でつながっている。私は彼女のそんなところに関心を抱いた。こんな人はそう滅多にいない。“特異点”というのもそういう意味だ」。
分野、国境、表現……大いなる越境
ふたつ目は越境性。石岡は、グラフィックデザインを基軸に広告からキャリアを始め、書籍デザイン、舞台美術、衣装へ活動領域を広げ、いずれでも高い評価を得た。挑戦を求めて米国に移住し、「地球のすべてが私のスタジオ」と語った。
「あらゆる領域でここまでパフォーマンスを発揮した人は、私が知る限りあまりいない。それも多芸的な“マルチ”でなく、すべて『私』『デザイン』という芯が通っている」。そう説明する河尻は、表現の「越境性」にも注目する。
「安藤忠雄さんは前田美波里さんのポスターを『飛び出してきそうだ』と形容されたが、瑛子の仕事は平面でも立体性が豊かだ。若いときからプロダクトデザインに興味があり、新人の登竜門・日宣美(日本宣伝美術会)展でグランプリを受賞したポスターは、まず実物の立体形をつくって撮影し、それを描写する独創的な手法でつくり上げた。身体に対する関心も強く、それらの感覚がのちに手がけた衣装デザインにも生かされている。それでいて、瑛子の衣装デザインは立体でありながら非常にグラフィカルで完成度が高く、ビジュアル的に映える。立体(3D)も平面(2D)も越境する次元の表現を目指していたのではないか」。
協働への情熱―他者を「鏡」に自分を磨く
石岡は、映画『ドラキュラ』のフランシス・フォード・コッポラ監督をはじめ、国内外の名だたるクリエイターや経営者と協働を重ねた。「協働作業を『お手合わせ』と呼んで稀有なほど重視し、協働を通じて『私』を磨き、鍛錬しようとした。他者を『鏡』に自己の主張をぶつけ、両者がスパークする中に浮かぶ『私』を見つけようとしたとも言える」(河尻)
一例が、「モダンジャズの帝王」と呼ばれるマイルス・デイヴィスのアルバム「TUTU」のアートワーク。撮影時に不機嫌になるマイルスを説得して写真家アーヴィング・ペンと熱いグルーヴを生じさせ、圧巻のビジュアルを実現した経緯は河尻の評伝に詳しい。この仕事で石岡はグラミー賞のべスト・アルバム・パッケージ賞を受賞した。
「個の情熱と意思」「ジャンルの越境」「他者との協働」──以上3つの「特異点」を掛け合わせた総体が、石岡が築き上げた「Iデザイン」だとまとめた河尻は、次のようにつけ加えた。
「クライアントワークのなかで100パーセントの自己実現をする『Iデザイン』は、瑛子独自の才能や感性、人間性の成せるものと当初、私はとらえていた。しかし、評伝執筆後に彼女自身、これを己を鍛錬し、仕事の質を高めるある種の『方法論』として編み出したのではないかと思いいたった。そうとらえ直すと、人の数だけ『Iデザイン』が存在することとなり、クリエイティヴの領域を超えた普遍性さえ持つ。瑛子の仕事と生き様は、様々な分野でいい仕事をしたいと考えている人を鼓舞する。“特異点”でありながら、じつは王道の仕事術ともいえ、自分らしく仕事をしたい現代人に響くのではないか。なかでもグローバルに活動したい日本人にとって瑛子は“ロールモデル”と言える存在かもしれない。究極的に瑛子は、対立点を乗り越え「私」と「他者」の調和をダイナミックにクリエイトした。その発想こそいまの世界に必要だ。経営者や政治家にも見てほしい」。
安藤忠雄建築と共振する会場
次に本展の見どころに目を向けよう。安藤忠雄が手がけた美術館としては、国内最大級となる兵庫県立美術館(2002年開館)は、複雑な空間を内包する関西随一の巨大ミュージアム。吹き抜けのエントランス、神殿のような企画展示室の入り口、自然光が降り注ぐガラス張りの廻廊など、陰影に富む多彩な表情が味わえる。
「その安藤建築の空間を生かす展示を本展は心がけた」と、担当学芸員の林優は話す。林は5章構成の本展の「大きな見どころ」として、2幕「あの頃、街は劇場だった―1970’s 渋谷とパルコ、広告の時代」を挙げた。石岡が手がけた伝説的ポスターが勢ぞろいするこのコーナーは、展示室の中央にテントを設置し、その中でPARCOなどのCMを見ることができる。テントの色は、石岡の「勝負色」だった赤だ。
「特設テントを取り囲むように多数のポスターを何段にも掛け、劇場がある広場(=PARCO)をイメージしている。当館企画展示室は、かなり面積が広く、天井高も7メートル超と高いので、ひとつの大きな空間として、その時代に浸るような没入感や迫力を味わっていただけるのでは」(林)。
会場のライティングも工夫を凝らし、コーナーにより明るさやダークな世界を演出。石岡作品のドラマチックさを引き立てている。
注目の同館限定の展示品
特別出品される同館限定の展示品にも注目だ。ひとつは、PARCOからの打診を受けて、石岡が画集(1980年刊行)の構成とブックデザインを手がけた女性画家タマラ・ド・レンピッカ(1898~1980)について語った、2010年時のインタビュー映像。1920年代のパリでモダンな肖像画が人気を博したレンピッカは、長く忘れられた存在だった。「世界に先駆けて晩年のレンピッカをメキシコまで訪ねて取材を敢行し、日本ではほとんど知られていなかったその画業を紹介した。画集にはインタビュー記事とともに世界中からかき集めた図版や作品総目録、同時代の批評が掲載されるなど、美術史的にも意義ある仕事だった」と林。その後国際的な再評価が進んだレンピッカは、2010年に巡回展「美しき挑発―レンピッカ展」が同館で開催された。
写真家の米田知子が、雑誌『Vogue』の取材に同行し、ベルリン五輪の記録映画「オリンピア」二部作で知られるレニ・リーフェンシュタール(1902~2003)の100歳誕生パーティの5日後に、彼女と石岡を撮影した写真(2002)も会場に展示されている。戦後「ナチスの協力者」と指弾されるも、写真家・映像作家として復活したリーフェンシュタール。「レニの仕事を敬愛しつつも、一定の距離を保ち彼女への批評精神を持ちながら」(河尻)日本での個展開催を仕掛け、交流を続けた石岡。両者を収めた本作は様々なことを考えさせるだろう。
石岡展と連動したコレクション展も開催
同時期に常設展示室で開催されている「コレクション展Ⅱ わたしのいる場所」(〜12月8日)も見逃さないようにしたい。石岡展と連動し、同館所蔵作品の中から選んだ約60人の女性作家の作品が集結。洋画家の草分け世代の神中糸子から、戦後の具体美術協会の田中敦子や山崎つる子、80年代から関西を拠点に活動する松井智惠や児玉靖枝、最年少の谷原菜摘子まで、80点を超す作品がそろう「女性」特集だ。
担当した武澤里映学芸員は、「非常にバラエティに富んだ作品を見ていただけると思う。石岡瑛子の作品や生き様にも通じる、鑑賞者をエンパワーメントできるような展示を目指した。たくさんの作家や作品との出会いを通じて、それぞれのアーティストが築き上げた『私がいる場所』を感じていただき、女性作家特有とされる共通性でなく、性別でひとくくりにできない創作のあり方を考えてもらえたら」と話す。
林洋子館長によると、同館所蔵作家のうち女性作家は約100人を数え、全体人数の約1割となっているという。「当館は、前身の兵庫県立近代美術館(1970年開館)時代から歴代学芸員が同時代作家に目配りし、作品収集を続けてこの人数になった。関西圏は、とくに80年代以降、京都に多い美大や芸術系大学で学び、卒業後も制作を継続してきた女性作家がしっかりいる。そうした層の厚さや地域での学芸員の情報収集力がコレクションに反映されている」と説明する。
折しも大阪市の大阪中之島美術館では現代美術家・塩田千春の個展「塩田千春 つながる私(アイ)」(〜12月1日)が開催中。姫路市立美術館では「霧の彫刻家」中谷芙二子の新作「《白い風景》霧の彫刻#47769」(高谷史郎との協働作品)が12月1日まで公開されている。兵庫県立美術館から回遊すれば、パワフルで多彩な「I(私)」とこの秋に出会えそうだ。