「音を観る、時を聞く」体験とは? 坂本龍一の過去最大規模の個展が北京で開幕
坂本龍一の過去最大規模の個展「坂本龍一:观音听时|Ryuichi Sakamoto: seeing sound, hearing time」が、3月19日より北京の私設美術館・木木芸術社区(M WOODS HUTONG)で開催中。高谷史郎や真鍋大度らと共同制作した作品を集結した本展の見どころを、北京在住のキュレーター・何競飛(カ・キョウヒ)がレポートする。
坂本龍一による中国での初個展「坂本龍一:观音听时|Ryuichi Sakamoto: seeing sound, hearing time」が、3月19日に北京の私設美術館・木木芸術社区(M WOODS HUTONG)で開幕した。過去最大規模の坂本展となる本展では、8つの大型サウンドインスタレーションをはじめ、高谷史郎や真鍋大度らと共同制作した作品を展示。坂本の世界観を音、映像、空間を合わせた総合的な体験展示となる。
坂本は中国でもっとも名高い作曲家のひとり。中国人にとって馴染み深いのが、彼がかつて手掛けた映画『ラストエンペラー』の音楽だ。清王朝最後の皇帝・溥儀の数奇な運命を描いた同映画は、世界初めて故宮で撮影されたものとして、1980〜90年代、中国人のあいだで大きな話題となった。後に本作のアカデミー賞作曲賞の受賞により、坂本は世界トップの作曲家の殿堂入りを果たした。そのため、今回の展覧会は中国でのコロナ禍以来、もっとも人気の高い展覧会のひとつとなっている。
デビュー以来、アルバムやシングルを80枚以上リリースしてきた坂本は、2014年に中咽頭癌の罹患を発表。数年間の治療と療養を経て復帰を果たしたあと、17年には8年ぶりとなる新作『async』を公開した。「async」とは「非同期」を意味する。坂本はこの「非同期」について、「同期するのは人間も含めた自然の本能だと思うのですが、あえてそこに逆らう非同期的な音楽をつくりたい」と述べている。本展は、この「async=非同期」を軸に展開している。
作品は美術館の1階から4階まで展示され、インスタレーションは屋外にも設置された。仄暗い室内空間のなかでは、来場者の聴覚が敏感になり、聞き覚えのある音や、聞いたこともないような音が多重に重ね合わされ、耳に飛び込み、やがて身体が音楽に包まれたかのような感覚に陥る。この言葉で伝えられない魅力は、展示会場に実際に身を置くことで、坂本の言う「音とノイズ、音と静寂、音と映像の微妙な関係」を掬い出だすことができる。
あらゆる物体の音に対する探究心こそが、坂本が近年追い求める音楽のあらわれなのではないだろうか。『async』発表の同年には、坂本に5年間密着して撮影したドキュメンタリー映画『Ryuichi Sakamoto: CODA』が上映。同作では坂本がレコーダーを持ち、森林、北極、街角、自宅など様々な場所で録音を行った。「録音によって、人類は自然界に存在しない音を聞いた」と語った彼は、近年発生した津波や多発テロによる圧倒的な破壊と暴力が生みだした、世界の不条理と非対称性を痛感した。そして、あらゆるものの生命を意味する音と声を追い求めることで、音楽の原点へとふたたび立ち返ったのだ。
この映画には、坂本が東日本大震災の翌年、宮城県で海水に浸かったピアノを使って録音したシーンが収録されている。ピアノには泥が付着しており、調律も狂っている。しかし坂本は「僕は、その響きを聴いて、これは自然が調律したんだと感じた。むしろ人間がする調律のほうに無理があるんじゃないかと」と語り、このピアノが自然に奏でる生のレクイエムを求めた。今回の展覧会は、このピアノから始まる。
両側の壁に設置されたモニターとスピーカーに挟まれている1階の展示室の突き当たりに、ピアノは静かに佇む。坂本と高谷史郎の共同制作によるサウンドイスタレーション《IS YOUR TIME》(2017)は世界各地で計測された地震データと連動し、ピアノの鍵盤部分に自動打鍵機をとり付けることで自動演奏させるもの。自然という存在が近代を象徴する楽器であるピアノを通じてたんなる物質へと還元され、地震という地球の鼓動から伝わってくる音はじつに凄まじく強烈である、というメッセージを伝えている。
2階と屋上に展示されている作品《LIFE - fluid, invisible, inaudible…》(2007/2021)《water state 1》(2013)《LIFE-WELL Installation》(2013/2021)は、いずれも水と霧を視覚的な要素で表現したもの。坂本の観念の世界においては、水は自然や生命にとってかけがえのない存在であり、これらの作品は彼が敬愛するタルコフスキー監督への表意だという。不意に現れる室内の雨や水に満たされた廃屋、夜明けの霧隠れなど、タルコフスキーの映画のなかに潜めた繊細かつ深遠なる象徴は、坂本の作品にも引き継がれている。
《LIFE - fluid, invisible, inaudible…》は、真っ暗の空間に3×4個のグリッド状の霧の箱が屋根から吊られ、光が箱を通して地面を照らし、箱の下の正方形の床がまるで水に浸されたように見えるインスタレーション。波紋は音とともに広がり、重なり、流されていく。これらの箱は、水が薄く張られたアクリル水槽の内部での超音波を通じ、人工的な霧を発生させる。霧が透過するときであれ不透過であるときであれ、水と音の織りなす不穏なパターンのなかに自然界の小さな不確実性が生みだされ、「非同期」が集積するように光は差異と反復のあいだを行き来し続ける。
《water state 1》は展示室の中央にある、一見鏡だと思われるような水面に水滴が落ち、波紋を起こす。水滴の澄んだときに、サウンドは観客を包み込み、残響の余韻にひたされる。この水滴は最初のピアノと同じように地球上の気象データなどをもとにしたもので、落ちる量や場所は時間とともに変化する。そして、知らぬあいだに落ちてゆき、フワッと散ったあとに静かに消えていく。これはまさしく、宇宙にとっての生命という瞬きなのではないだろうか。
Zakkubalanとコラボレーションした作品《async - volume》(2017)では、アルバム『async』の制作当時、ニューヨークにある坂本のスタジオと住居空間の映像を環境音や『async』の素材の音とともに再生する。鑑賞者たちはモニターの前へたたずみ、おそらく止まっているような画面に戸惑い、じっと眺める。すると、光が淡くなったり、陰が深くなったり、枝が風に微かに揺られたり、ゴングが緩やかに震えたりして、ようやく移り変わってゆく映像に気づく。
ドキュメンタリー映画のなかには、坂本がバケツをかぶって雨音に耳を澄ませるシーンがある。このシーンから、本展のタイトルである「音を観る、時を聞く」は来場者に伝わってくる。本展のタイトルが示すように、時間的な継起として流される音は、たんなる来場者が耳を傾けるものではなく、感覚を研ぎ澄ませ、全身で感じて考えさせ、時には惚れ込ませるもの。そのいっぽうで暴れる自然、不条理な社会と同時に向き合わなければならない私たちは、坂本による「非同期」の自由の音を通し、自然と社会の根源的な生の思索へと引き込まれる。
「好奇心の赴くままに、自由に世界と戯れる」。この規則を取り払おうとする坂本の真髄が音となって会場を自在に飛び交い、慎ましく、優しく、そして激しく私たちとぶつかりあう展覧会となっただろう。