「民藝」とは何か、そしてこれからどうあるべきか。「柳宗悦没後60年記念展『民藝の100年』」が東京国立近代美術館で開幕
柳宗悦、濱田庄司、河井寬次郎によってつくられた美の概念「民藝」。東京国立近代美術館で、総点数450点を超える作品と資料を通して「民藝」の活動を振り返る展覧会「柳宗悦没後60年記念展『民藝の100年』」が開幕した。
「民藝」とは、1925年に柳宗悦(1889〜1961)、濱田庄司(1894〜1978)、河井寬次郎(1890〜1966)によってつくられた新しい美の概念で、「民衆的工芸」を略した言葉だ。
東京国立近代美術館で開幕した「柳宗悦没後60年記念展『民藝の100年』」(10月26日〜2022年2月13日)は、「民藝」の活動を総点数450点を超える作品と資料を通して振り返り、その軌跡と内外に拡がる社会、歴史、経済を浮かび上がらせるもの。
東京国立近代美術館が1952年に開館して間もない頃、同館に対して晩年の柳から次のような「批判文」が投げかけられている。「近代美術館は、その名勝が標榜してゐる如く、『近代』に主眼が置かれる。民藝館の方は、展示する品物に、別に『近代』を標榜しない」。本展は「東京↔地方」「官↔民」「近代↔前近代」「美術↔工芸」といった、柳が対抗しようとしたものが名称につく東京国立近代美術館が、柳の批判に対してどのように応答するのかというチャレンジでもあるという。
展覧会は6章構成、1910〜70年代にかけての「民藝」の動きを時系列でたどっていく。最初の第1章「『民藝』前夜─あつめる、つなぐ」では、柳が結婚後に我孫子に居を構え、バーナード・リーチや「白樺派」との交流を通じて、「民藝運動」の土壌を醸成した1910年代〜1920年代初頭の状況を紹介する。
会場では、手仕事や質朴な生活への回帰を訴えるイギリスの「アーツ・アンド・クラフツ運動」を日本にいち早く導入したバーナード・リーチや富本憲吉の陶芸、ドローイングを展示。
また、文芸同人誌『白樺』に学生時代より寄稿して活躍していた柳は、「白樺派」が西欧の美術のみならず東洋の美術への関心を高めるなか、初めての著作『陶磁器の美』を発表して朝鮮陶磁を紹介する。展示では、著作の編集過程で使われたメモや、朝鮮陶磁をはじめとする柳の初期コレクションなどを見ることができる。
第2章「移動する身体──『民藝』の発見」では、1910年代後半〜20年代後半にかけて柳、濱田、河井らの「民藝運動」創設メンバーが、全国各地の民芸を発掘・蒐集していく過程を追う。
朝鮮陶磁器の美に目覚めた柳は、1916年以降、頻繁に渡朝。1919年に起きた日本の植民地支配に対抗する三・一独立運動では、朝鮮の芸術への思慕と一体になるかたちで日本の朝鮮政策を批判する立場をとった。会場には、当時の柳が集めた白磁をはじめとする、朝鮮の陶磁や家具が集められた。
さらに1924年、柳は江戸時代後期の木喰仏の調査を開始。全国を旅してまわり、民衆的・郷土的な工芸の広がりを把握するとともに、日本各地の農村の現状も認知していく。柳たちが「雑器」を代表するアイコンとした瀬戸の行灯皿や、「下手物」としての丹波布なども会場では見ることができる。
また、この頃に柳と濱田は欧米を訪れ、各国の民家や民藝品の保存復興の動きを目にするとともに、ウィンザーチェアやスリップウェア皿などを日本に紹介。会場では、西洋の潮流を受けながら「民藝」の土台をつくりあげていったことがわかる品々も展示されている。
第3章「『民』なる趣味──都市/郷土」では、1920〜1930年代にかけての「民藝運動」が、地方の伝統的な生活文化を再評価しつつ都市生活者の趣味という側面とともに活発化していく様を追う。
会場では、民家研究や民俗学といった「民」の領域に注目する柳田國男や今和次郎の活動や、日本と中欧の農家の相似を指摘したブルーノ・タウト、山本鼎による農民美術運動など、「民藝」と互いに呼応しながら行われた学知活動を著書や資料によって紹介。また柳が「民画」と名づけた、土産物や奉納品として大量生産された大津絵や絵馬、泥絵といった作品群も展示される。
さらにこの時期、「民藝運動」は「新たな民藝をつくる」という方向にも広がっていく。若いつくり手によって結成された「上加茂民藝協團」は、1928年春の「大礼記念国産振興東京博覧会」のパヴィリオン「民藝館」に出品。ここでは過去の器物と、協團や濱田、河井らが制作した道具を組み合わせ、「民藝」の生活スタイルを提案した。
第4章「民藝は『編集』する」は、柳が雑誌や図版、展覧会での陳列など、メディアを駆使してものの見方を示す「編集者」であったことを、1930〜40年代の仕事から紹介する。
ここでは柳が1931年に創刊した『工藝』のほか、『茶と美』『美と模様』『美術と工藝の話』といった柳の著作を展示。さらに、柳が執筆に勤しんだ書斎も会場に再現した。また、民藝フォントの開発や、巧みなトリミング術がわかる図版、さらに1936年に開館し陳列に細やかな美意識が込められた日本民藝館や、新作民藝の生産から流通までを担った「たくみ工藝店」の資料なども紹介される。
また、作務衣や台湾麻袋、朝鮮製透かしの入ったべっ甲のメガネなども展示。これらは「民藝」に携わる人々が身につけることで、その思想を伝えるメディアとしての役割を担ったことがよくわかる。
第5章「ローカル/ナショナル/インターナショナル」では、1930〜40年代に地方の「現行品」に目を向け、その保存、育成、産業化に向けて展開された活動を紹介。また、各地の多様な「民藝」を「ひとつの日本」に束ねる実践を、戦時の社会的・文化的な背景を踏まえて読み解く。
この章でまず目を引くのは、1941年に開催された「日本全国民藝品展」で展示された、全長13メートルを超える巨大な地図《日本民藝地図(現在之日本民藝)》だ。25種類の絵記号を使って、500件を超える産地が表され、さらに会場では地図に登場する陶磁器や竹細工などの民藝品がともに展示される。この時代の柳の仕事の持つ、ローカルとナショナル双方に対する視線のオーバーラップが感じられるだろう。
また、農業恐慌に苦しむ東北地方の「民藝」や、沖縄、アイヌ、朝鮮、台湾といった、植民地支配によって生まれた境界的な領域への興味もこの頃の柳は加速させる。展示では各地域の衣服や道具、家具を展示し、その仕事を紹介するとともに、当時の日本の世界における立ち位置も俯瞰させる。
「民藝運動」が戦争とは無縁でなかったことも忘れてはならない。1940年に成立した大政翼賛会の文化部が掲げた地方文化の振興という方針は「民藝運動」とも親和性が高く、戦時中も『工藝』や日本民藝協会の機関紙『月刊民藝』は刊行を存続できている。戦争という複雑な力関係のなかで「民藝運動」がどのような実践だったのか、冷静な視点で見つめ直すことが問われている。
最後となる第6章「戦後をデザインする──衣食住から景観保存まで」は、1950〜70年代、敗戦した日本が国際社会に復帰する過程で、国際文化交流の最前線に「民藝」が立っていく様を紹介。また、衣食住をトータルに提案するような「民藝運動」の拡張も追う。
サンフランシスコ講和条約が発効した1952年、柳と濱田は欧米へ渡航し、講演やワークショップを実施。「民藝」は「MINGEI」として、日本文化を理解するための窓口として機能するようになる。
また「民藝運動」は、北欧のデザインを参照しながらインダストリアル・デザインとも深く結びつき、家庭で使う一般生活用品にもその精神は受け継がれていく。ここでは、柳の息子の柳宗理をはじめ、デザイナーたちが手工芸品のあたたかさを近代にどう活かすか試みた製品が展示される。
1961年に柳宗悦は世を去るが、1970年の日本万国博覧会には「日本民藝館」が出展され、70年代には「民藝ブーム」も起こっていく。そして今日の私たちの身の回りにあるものや思想にも「民藝」の影響を受けたものは数多い。いっぽうで「民藝運動」とはたんなる「物」だけではなく、「言説」も含めた両輪が重要であることは、ここまでの展示を通して伝わってくる。
現代の「民藝」に求められるものとは何か。かつて柳が批判した東京国立近代美術館において、「展覧会」というかたちでアーカイヴされた「民藝」が、見るものに問いかけてくる。