映像の持続性と、写真への反省性。
福尾匠が見た、迫鉄平「FLIM」展
写真の可能性を決定的瞬間の外部に見出し、スナップ写真を独特の間合いで映像化する作品で評価される迫鉄平の個展「FLIM」が東京・新宿のSprout Curationで開催された。迫の新作が発表された本展について、映像論研究者の福尾匠が分析する。
迫鉄平「FLIM」展 画鋲を抜いて剥がれたらそれは写真 福尾匠 評
カート・ヴォネガットのSF小説『タイタンの妖女』(1959)で、いつもながらトラルファマドール星人の操り人形になっている(が、そうとは知らない幸福な)主人公が、「僕はパンクチュアル(punctual)な存在だからね」と、冗談めかして言うときには、まず彼が「時間どおり(on time)」に行動していること、そして彼が時間のなかでひとつの「点」として存在していることを意味している。このヴォネガット的なブロック宇宙の悲哀――言ってみれば彼の小説のなかで人間はいつもトラルファマドール星人のブロック遊びに付き合わされているわけだ――への一瞥とともに、「映画的なもの(le filmique)」は運動のなかに見出すことはできず、映画の静止画(still)にこそそれを見ることができると映画をバラバラのスティルに還元し、まさにブロック遊びの対象にしたロラン・バルト(『第三の意味』)が、写真の本質はプンクトゥム(punctum)にあるとし、そこに「それはかつてあった(ça a été)」という過去の標(しるし)が点として打たれていると言ったことが思い出される(『明るい部屋』)。すると写真はパンクチュアルに、時間とともに生長するブロックとしての宇宙のスライスのどこかに画鋲で留められているのだということになるだろう。
写真家の迫鉄平が個展「FLIM」展で発表した17分ほどの映像作品《FLIM》は、彼が直立不動の姿勢でスマートフォンを構えて撮影した合計20のショットからなる。それぞれのショットは別々の場面を映しており連続性はなく、中央線のホームに電車が入ってくるところ、街中に植えられた棕櫚(しゅろ)の葉が揺れているところ、あるいは対象を端的に指定するのが難しいほど凡庸な郊外の風景などが、だらだらと、あいまに次の映像のタイトルが挟まれたりしながら続いてゆく。ウォーホル以降の「停まった映画(cinama of stasis)」(ジャスティン・リメス[Justin Remes, Motion(less)Pictures, 2015])の系譜に加えることもできるだろう。しかしリメスがあくまで映画あるいは実験映画における、静止性(stillness)による「運動」優位のパラダイムの相対化を——ひとつにはバルトの仕事の延長として——図るのに対して、迫のこの17分間の持続を持つ映像は、むしろ最初から止まったものである写真への反省をうながしているように思える。この作品において、彼が写真家であることはいっさい損なわれていない。それはとても難しいことであるはずだ。
JR国分寺駅中央線のホーム。夕日が低いところから差し込むコンクリートの壁に、画面の4分の1ほどを占める大きさ(幅4メートルほどだろうか)のガラス窓が開いている。カメラのすぐ左前方に立っている女性の肩越しには、その窓の左側にある「まるい食遊館」の文字が見られ、どうやらホームからスーパーの食料品売り場が窓越しに見通せるようになっているようだ。窓の向こうに並べられた椅子に男性がこちらに背を向けて座っているのが見える。電車の走行音が聞こえたかと思うと、オレンジ色の帯とともに中央線の車両が画面左から手前の女性と奥の男性のあいだに滑り込んでくる。窓は完全に隠され、しばらく女性と停止を始める車両だけが画面を占め、ドアが開くと女性が乗り込み、車両がホームを抜けるとさっき座っていた男性がいなくなっている。
《FLIM》冒頭の、6分間という例外的な長さをもつこの映像には、同様の手法を用いてここ数年のあいだに写真のかたわらで撮影されてきた、彼の映像作品の達成が凝縮されているように思われる。2016年秋に東京都写真美術館で行われた個展「剣とサンダル」のコンセプトに、迫は「スナップショットが『あっ』であるのに対して映像作品は『あーーー』である」と書いているが、この言葉は彼の写真と映像の関係をこれ以上ないほど的確に言い当てている(*1)。写真は「あっ」で、映像は「あーーー」。写真が「あっ」であるのは、迫にとってだけでなく、いわゆる「決定的瞬間」もそうであるし、バルトにとってもそうだろう。写真はパンクチュエーションをこととするのだ。「句読点を打つ」ことで「時点」を構成するような瞬間をとらえ、面を針で「刺し留める」こと。
しかし映像が「あーーー」であることは、写真への反省性のもとにある迫の映像作品に特殊な事情によるものであるだろう。これはたんに、写真で撮ったなら「あっ」となる瞬間を映像で撮影し、その瞬間がだらだらと流れ去るのをとらえるということを意味しはしない。もしそれだけにとどまるならば、映像作品は迫の写真に従属したものにすぎないことになる。窓、車両、車両のドア、車両、窓。入れ替わり立ち替わり面が面を覆う。しかし窓は、車両がそこを横切ったときにはじめて「面であった」ことが発覚し、車両が面であったことはそこにドアが口を開けてはじめて発覚する。また窓が現れたときには、眼差しはその向こうを見通す手前で停止している。《FLIM》には「剥がれる」あるいは「はためく」面のモチーフが散見されるが、「あーーー」とはこの剥がれ、はためきであり、ここにある「それが面であったことの発覚」にこそ写真への反省性は宿っている。
古代ギリシャの哲学者・エピクロスの「内送理論(intromission theory)」と呼ばれる視覚理論においては、対象から剥がれ落ちる皮膜(エイドスあるいはシミュラクル)が眼へと送られてくることで視覚が成立すると考えられている。迫の参加するThe Copy Travelersというユニットの《コピササイズ》は、まさに、一定のリズムでスキャンを繰り返すコピー機のスキャナに、忙しく雑誌の切り抜きや文房具や角材を乗せたりどかしたりし、そうした対象からなかば偶然に剥ぎ取られた皮膜を提示する。この剥ぎ取りと固定がパンクチュエーションとしての写真であるとするなら、迫の映像はいわば「ディスパンクチュエーション」をこととするのだ。面を刺しとどめていた針を抜き、その剥がれにおいて遡行的にその面が「写真」であったことを暴露すること。画鋲を抜いてみて剥がれたらそれは写真なのだ。この、ともすれば「おいしかったらそれはチャーハンなのだ」というくらい不条理になりかねない逆転にこそ、映像だけが強いることのできる写真への反省性があるのではないだろうか。