視覚と身体感覚の接合から、水平性を浮かび上がらせる。中尾拓哉評 水木塁「東下り」展
写真や平面、立体といった既存の表現方法を解体・再編しながら、スケートボーダーとしての身体感覚をもとに作品を制作してきた水木塁。身体感覚で絵画を表現することと、身体感覚を絵画で表現することのあいだが切り開く別次元とは? 中尾拓哉がレビューする。
360°の平面
絵画平面が垂直に掛けられれば、その二次元性において画面を一望できる。もし、床に水平に置かれるならば、平面は三次元の広がりに──わずかではあっても──歪み、二次元における正確な位置を把握できなくなる。たったそれだけのこと。しかし、その水平性において、ジャクソン・ポロックは床に塗料を撒き散らし、まったく別の局面を切り開いた。そのとき、線形の飛沫で覆われた画面とアトリエの床の染みは曖昧になる。床の飛沫は絵画平面、すなわちコンポジションから解放され、意味にも無意味にもならず、ただそこにあり、そして絵画平面だけが垂直に立ち上げられる。
こうしたあり方は、おそらく水木塁がデッキテープを貼った絵画平面に、道路用塗料を塗り広げ、画面を覆っていることと無関係ではない。なるほど、スケートボードの上に立つスケーターが自身の足元へと視線を向けたとき、ボードに貼られたデッキテープと、その視線の少し奥にあるコンクリートの質は曖昧になる。多くの制作者は自らが視覚的に記憶しているものをたどり、それを絵画平面に置き換えてきた。しかしここでは、視覚的な対象が壁の染みであるか、床の染みであるか、あるいは風景か、写真か、ディスプレイか、スマートフォンか、という違いは一義的な問題とはならない。むしろ、水木の作品に関して重要なのは──アクションペインティングのように直接的ではないにせよ──制作者の、そして鑑賞者の視覚と身体感覚をなだらかに接続していく必要がある、ということだ。
水木は、自身も行ってきたスケートボーディングの身体感覚を参照し、制作している。スケーターは、ストリートをスケートボードで滑走する。コンクリートとスケートボードは──ウィール(車輪)を支えるトラックのブッシュゴムとともに揺らぎながら──平行している。トリック(技)の瞬間、スケーターはボードのキック(前後の反り上がり)、すなわちテール(後ろ)/ノーズ(前)を踏み込むように蹴る。ボードが斜めに立ち上がると、紙やすり状のデッキテープをもう一方の足で前/後方向に擦り上げ、水平に引き上げる。地面における水平から垂直方向へと浮かび上がり、そして水平になり、再び地面に接地すること。それはボードが進行する一方向、すなわち一次元的な線形運動にそって、宙空を経由する二次元的な跳躍となる。
こうした運動に、ボードと身体の位置関係によって三次元性が与えられる。例えば、まず進行方向に向かって、右足をテールに置くレギュラースタンス、左足をテールに置くグーフィースタンス、またそれらの進行方向を逆にするフェイキースタンスや、進行方向はそのままにレギュラーは左足をグーフィーは右足をノーズに置くノーリースタンス(そして、これらの利き足を逆にするスイッチスタンス)がある。加えて、ボードを、水平に前/後方向に回転、あるいはそのボードとともに身体を水平に前/後方向に回転、また縦軸を中心にして左/右回転、あるいは垂直に縦回転させるトリックがある。さらにはこれらを複数に組み合わせることで、ボードの回転は他方向に操られ、無数のパターンにおいてボードと身体の位置関係を入れ替えながら、その一次元的な線形運動に三次元的な回転を引き込んでいくのである。こうしてスケーターはストリートを舞台にし、都市の立体性、すなわちコンクリートのわずかなクラックから、階段や手すり、ときに屋根ほどの高さをボードとともに乗りこなす──メイクする──のである。
そうであれば、絵画平面における視覚的な垂直性と水平性は、スケートボーディングにもとづく身体感覚に対して、あまりにスタティックである。たしかに、水木は都市から引き剥がして貼り付けた写真を、曲面をもちいて次元を変化させ、スケーターが滑るランプ、およびその身体感覚を表現しようとしているのだと言える。すると、本展における「Shigam」シリーズは、スケーターがスタンスを入れ替えながら前進、後進し、ボードを回転させるのと同様に、通時的に一方向で進むかのような絵画空間の発展にそった垂直性と水平性こそを回転させようとするものではないか。それは、視覚的にはグリッド状ではあるが、身体的にはその平面の回転が感知される次元となる。
水木の絵画平面から、こうした空間性を受け取ることができるのは、グリッド状に配置されたデッキテープと、コンクリートに塗り広げられているかのような道路用塗料、および──ポロックは釘、鋲、ボタン、鍵、硬貨、タバコの吸殻、マッチなどを作品に持ち込んだが──貼り付けられたチューインガムやタバコの空き箱などがつくり出しているコンポジションが、視覚的にストリートを想起させるからではある。そして、その都市のイメージを抽象化する、道路用塗料が塗り込められた絵画平面からはみ出すように取り付けられ、一つの矩形から差別化された──キャンバスを展開図とするような──部分に、ほぼ新品のままのデッキテープが配置されていることも大きい。デッキテープというレディメイドに印刷された色やイメージが、矩形の外側と内側で、道路用塗料と反発/浸透し合い、まるで都市空間の映り込みを、ボードの回転に巻き込み、貼り付けているかのようである。
こうして、視覚イメージからスケートボーディングの身体感覚にもとづいた次元を重ね合わせるとき、都市の風景論は、絵画の垂直性と水平性を回転させる三次元性へと置き換えられていくことになる。それは、床に水平に置かれている絵画平面において、白髪一雄がフットペインティングで表現することと、水木塁がスケートボーディングを表現することの共通点であり、しかし身体感覚で絵画を表現することと、身体感覚を絵画で表現することのあいだに、異なる次元を切り開くものともなる。
レコードの回転とその凹凸にそって再生される音楽という、時間の流れにしたがい一方向にしか感知できない聴覚的な広がりを、DJは身体感覚にもとづきスクラッチし、物理的に再生と逆再生を組み入れ、連続させ続ける。同様に、スケートボーディングにおける身体とボードの関係性も、一方向にしか進まない運動の時空間をスクラッチするのである。
また、《Shigam》の絵画平面において、平面から立体、そして平面へと戻すように、チューインガムやタバコの箱の三次元性が、二次元へと向かって潰されていることに等しく、水木はシューズケース──もともとトムソン型で切り抜かれた平面が立体へと引き上げられたもの──も再び平面へと戻し、その凹凸を連続させる線形運動を円形に走らせている。この行き止まることなく回転するかのような線と平面の関係をつくり出しているのは、空間そのものを平面的にスクラッチし、再び接続させていくアクションにほかならない。
平面を拘束するグリッドにとどまり、スクラッチする──回転させる──空間把握こそが、水木が乗りこなす──メイクする──時空間をつくり出しているものである。そこでは、視覚表現としての垂直性と身体感覚としての水平性がなだらかに合成され、湾曲的、すなわち二次元性と三次元性を接合させる半-絵画的、半-彫刻的な次元が形成されている。平面はそうした次元の広がりに──わずかではあっても──歪み、二/三次元における正確な位置を把握できなくなる。たったそれだけのこと。しかしだからこそ、その上で水木は、スケートボードとストリート、そして絵画平面という水平性を、360°回転させ、接地させる、そうした次元へと巻き込み、まったく別の局面を切り開こうとしているのである。