映画の言葉が紡ぎ出す叙情詩。大岩雄典評「平川祐樹 Rêve d’artiste La Magie à travers les âges」展
失われたフィルム映画のタイトルをモチーフとしたシリーズを手がける平川祐樹。本展ではフランス映画を対象としたシリーズ第5作目を発表。真っ黒なスクリーンに次々と現れるのは64本の映画の原題であり、展示室にはそれを読み上げる声だけが響く。この作品に潜む言葉の虚構性の問題を中心に、アーティストの大岩雄典が考察する。
用心せよ
映画黎明期の監督にして手品師でもあったジョルジュ・メリエスをモチーフのひとつに採った《Rêve d’artiste La Magie à travers les âges》は、平川祐樹の「Lost Films」シリーズの第5作であり、その題は星野太によって「芸術家の夢 時代を越えた魔術」と訳されている。まっくらな部屋の壁に投影された黒一色の画面の下方に、フランス語の字幕が読み上げられ、消える。現れる語句はすべて、現在では失われた映画の題名だという。その継起の順序は、鑑賞者の想像力に〈火〉をつけ、「かすかに、詩的な意味のつながりがたちあがる」よう目論まれている(*1)。
火を見るよりも明らか――という慣用句の頭に、いま火がぽつりと灯ったことを、見逃したとは言わせまい。そして慣用句と知れたいま、その火はかき消え、まるで陰画のように印象だけが残存していることも。この不意にひらめいた一瞬の火の映画こそ、言語がその本性として持つ〈フィクション〉の作用なのだ。
第1次大戦の戦火のさなか、メリエスは劇場やスタジオをたびたび奪われ、フィルム原版そのものも資源の軍事利用のために没収された。愁いたメリエスは〈やけ〉になり、ネガやセットに手ずから火をかけ、多くの作品は灰燼と化した。暗室に点滅する題名の並びは、それ自体でかすかな叙事詩をほのめかしながら、メリエスの逸話をも思いおこす――熾す――よう、「作品の為す意味に触れたい」という鑑賞者の欲望を煽惑する......かような〈火〉の横溢は煩わしい、という苦言にさえ、言語というものの高い易燃性を思い知らされるだろう。
展示という形式とはものを並べる営為であり――「為」にも部首「れっか」がひらめく――、同然に、延べ64の題名も並べられている。並べられた物々のあわいに淡く煌く、何か必然的にありうべきものの不意のひらめきを「察知する」経験をこそ、ショットというものを並べた映像の、あるいは本来ばらばらの語句を並べたにすぎないテクストの時空間は焚きつける(*2)。
『消防士たちの行進』(1897)、『火葬』『冒涜』(ともに1899)......等々の題名が、接続詞なく並べられる。戦前に名付けられたそれらが幻視させる叙事詩に、戦中のメリエスの逸話も同じように「並べられている」と言えるだろう。接続詞は、言表のまとまった筋、始末を担保するものだ。「だから、しかし、それゆえ、すなわち」と、句点ごとに独立した文どうしを整然と脈絡づけて、文章全体の有機性を担保するよう接続詞はきびきびと働く。しかしそうした有機化に仇する言葉の〈始末に終えなさ〉にこそ、《Rêve d’artiste La Magie à travers les âges》はなおも油を注ぐ。
しかし、言語を通じての様々な人間的な振る舞いにおいて、この種の意図されざる符合は、言表主体の意図を超えた意味作用を、あたりに波及させずにはおかぬものなのだ。それが言語の始末に終えなさにほかならず、そうしたものの介入によって意味の生成を可能にするものこそ「主題論」的な体系にほかならない。 ーー蓮實重彦『「赤」の誘惑』(*3)
言葉の端々にくすぶる〈火の不始末〉が、それを読み下したとき、ふいに飛び火して、延焼を呼ぶ。蓮實は言語のそうした〈始末に終えなさ〉を、主題論的な、言い換えれば、筋ではなくテーマのなす「フィクション」と呼んだ。それは発話行為がなす虚構でもなければ、ただ現実が模倣されたもの一般でもない。読んでゆく言葉のあいまにコノテーションを希求する人間の欲望が、語句それぞれが持つ譬喩のポテンシャルを引火させるひうち石となる。そうして燃え上がるものが〈フィクション〉だ。《Rêve d’artiste La Magie à travers les âges》は、この怪火の手品を披露する。
ただ私たちは、並べられた物々に譬喩の類焼を引き起こす〈始末の悪さ〉について、いくばくかの注意を忘れてはならない。「戦災」という語のなかの「火」が、憔悴のメリエスをして現実に「放火」せしめたなどと、もしくは、展示という形式が意味の「手品」を披露するなどと、最後に灯る「Le Silence(静寂)」の一語が、展示室の沈黙をも指しうるなどと、私たちはいかほどの天真爛漫さをもって、接続詞の不在に便乗して、言い放つことができるだろう(*4)。
ものを並べるとき、必ず意味の火種がある。それも「不用意」に。鑑賞者がゆくりなく向けた関心に煽られ、意味は次々に燃え上がる。だがあらゆる展示が見舞われるこの劫火が、たしかに現実まで延焼するものなのか、私たちは炯眼をたずさえねばなるまい。
フィクションは、けっして歴史的出来事の運命たる結果を変えることがない。 ーーポール・ド・マン「モーリス・ブランショの批評における非人称性」(*5)
*1ーー作家のウェブサイトにおける同シリーズの《Due cuori Sperduti nel buio Due occhi per non vedere》(2018)の説明より、「タイトルははじめたんなる目録のように現れるが、しかしかすかに、詩的な意味のつながりが立ち上がる」(訳は筆者による)。
*2ーー同上の説明文より、「平川は、それらのタイトルがあわさることで、言葉の詩的なつらなりがかたちづくられるさまを察知した。選ばれた言葉のつながりとその再編集を通じて、平川は、断片的ながらも、しかし詩と呼びうるようなものを完成させる」。
*3ーー蓮實重彦『「赤」の誘惑―フィクション論序説―』2007、新潮社
*4ーーもしくは例えば、初期の映画フィルムに用いられていたニトロセルロースは易燃性が高く、バザール・ド・ラ・シャリテをはじめ、しばしば劇場火災の原因となっていたことについても、平川は《Burning a second》(2016)などの作品でもその性質を取り扱っている(参照:フィリップ・アラン=ミショー『電気じかけの夜』森元庸介訳、2011/2016、石岡良治+北村紗衣+畠山宗明+星野太+橋本一径「共同討議|爆発的メディウム」の終焉?」2016、ともに月曜社『表象10』所収)。
*5ーーポール・ド・マン「モーリス・ブランショの批評における非人称性」『盲目と洞察』宮﨑裕助・木内久美子訳(1971/2012、月曜社)。同じくド・マンから別の一節を。「言語というのは譬喩による擬似認識から行為遂行的な活動へとおのずと拡張せざるをえないのだ」(「カントにおける現象性と物質性」『美学イデオロギー』上野成利訳、1996/2013、平凡社)