「なおす」ことで日常と震災をつなげる
熊倉晴子評 「青野文昭 ものの, ねむり, 越路⼭, こえ」
1990年代より家具や日用品などの廃棄物を補完し新たな形態を生み出してきた青野文昭。昨年末から今年にかけて、せんだいメディアテークにて開催された展覧会「ものの, ねむり, 越路⼭, こえ」では、東日本大震災以降に制作された大型作品と新作を中心に、1000平方メートルの会場全体を作品化し、震災の記憶を立ち上がらせた。本展をキュレーターの熊倉晴子がレビューする。
大いなる立ち尽くし
青野文昭は仙台市で生まれ育ち、現在も同地に暮らす作家だ。1996年から「なおす」ということや「修復」をテーマに、現在まで一貫して制作を続けている。様々な場所で拾った、壊れたもの、捨てられたもの、必要とされなくなったものに手を加えることで、あるものが外部の影響のもとにゆらいでは再生する循環のなかに自身の作品を位置づける青野にとって、2011年に起きた東日本大震災と津波は、これまで拾ってきた「欠片」が例外なく「被災物」となったという意味においても、また自分自身が被災者であるという事実においても、制作の方法論や、作品そのものの持つ意味を大きく変えただろうことは想像に難くない。
しかし、せんだいメディアテークで行われた「ものの, ねむり, 越路⼭, こえ」は、そういった想像を遥かに超える圧倒的な回顧展だった。そこには、美術や作品、展覧会といったものに無自覚に求めていた枠組みのようなものや、都会的な作法、明快なコンセプトや批評性などと言ったものを超えてしまう、言葉にならない生々しさと、自分が経験していないはずの記憶が呼び戻されるような感覚があった 。そして何より、震災を作品にとって不可避の要素としながらも、そこに留まらない、より大きな時空間の一端として、展示空間が存在していたように思われた。
展覧会は、おおまかに年代順に構成されており、1990年代の小さな欠片を修復していく初期作品などを経て、津波で被災した岩手県宮古市にあった親族の経営する衣料品店を主題とした新作《ウミノカゾク─津波に流された岩手県宮古市鍬ケ崎さとう衣料店の復元から2019》(2019)や、震災後の宮城県沿岸部で拾った様々な人の痕跡からなる群像《ここにいないものたちのための群像─何処から来て何処へ行くのか─サイノカワラ2019》(2014〜2019)などが続く。それらの作品は、震災の当事者である青野が、被災物となった欠片を前にどのようにして制作を継続することができるのかという模索、試行錯誤のようであり、青野自身によれば「日常空間と被災した出来事をひとつにつなげていく」行為であったと言う。
さらにいくつかの作品の後に、新作である《八木山橋》(2019)がある。八木山橋は、タイトルにもあるかつての越路山(現在の名称は八木山)へと続く実在の橋で、青野は震災当日の夜、この橋を渡って八木山にある実家へ戻った。途中で「八木山橋が落ちた」というニュースが入るが、実際には橋は落ちてはおらず、ズレただけで、警察が土嚢を積んで1台ずつ通していたという。青野はそこで「果たして本当に『戻れた』のだろうか?」と問いかける(*1)。この日を境に、自分はどこか別の世界に迷い込んでしまったのではないか?と。私たちは作品である《八木山橋》を渡ることで、青野の震災当日を追体験することになるのだが、橋を渡ると、どういうわけか、同じ展示室内にもかかわらず、空気が変わるのを感じずにはいられなかった。
その先には、八木山にかつて存在した越路山神社の鳥居の修復からはじまる《僕の町にあったシンデン─八木山路山神社の復元から2000~2019》(2019)がある。仙台市民から集められた箪笥が連ねられた四角い空間の内外には、青野の幼い頃の様々な記憶と、仙台市を見守るように存在してきた八木山という土地の抱える歴史が文字通り溢れんばかりに詰まっていて、まるで八木山という場所の持つ霊性を、まるごと再生させようとするかのような気迫が空間に満ちている。
中央には「この土地に眠るすべての者の魂」としての人型があり、それを「おどが森の巨人(ダイダラボッチ)」が見下ろしている。巨人は、仙台市を見下ろす八木山の存在とも重なり合う。展覧会を鑑賞する私たちは、震災の夜の青野の記憶とともに「どこか別の世界」であるシンデン、そして八木山に足を踏み入れ、2011年3月11日を遥かに超えた過去の時空をさかのぼり、最後の作品である《幾万年の食卓─3.11の夜を経て(青野家のテーブルセットより)2019》(2019)にたどり着く。そして展覧会は、3月11日の夜を過ごす青野家の食卓が、その世界のなかで永遠に続いていることを示唆するように終わりを迎え、私たちを元の世界へと戻す。
展覧会を見終えて、青野が1990年代から取り組んできた破壊と再生の循環が、東日本大震災に取り組むことによって、より大きく、複雑なものになっているように、私には感じられた。言い換えれば、青野が対峙してきた時間というものが、その作品を見る人、そしてあるいは青野自身が想像していたものよりも、ずっと大きく、過去だけでなく未来をも含んだ時間を同時に行き来するようなものであることが、震災後の作品によって明らかになったのではないか、と。そしてその大きな時間の流れは、観念的なあまりに私たちの生活の実感から離れてゆくのではなく、むしろこれ以上ないリアリティを伴って、展覧会として現前したのである。
私の暮らす東京では、東日本大震災の記憶はだんだんと薄まり、過去のものとなってしまっているように感じられる。2011年に抱いていた危機感も、東京に暮らす者としての当事者意識も、当時のようにはない。しかし、本展によって再び誘いこまれた2011年3月11日の世界は、確かにまだそこにあったし、これから先もずっとある。地震や津波、豪雨などの天災や環境問題、人種、宗教、政治などのもとに起こる争い、そして感染症のパンデミックなどの困難に直面したとき、それを忘れないための記念碑的な作品が様々なかたちでつくられてきた。しかし、青野の作品は、それらの記念碑的な作品の意義や意味とは異なる場所で、いまも立ち尽くすように存在している。
*1──青野文昭「八木山橋」、『AONO FUMIAKI NAOSU』T&M PROJECTS、2019年、p.74