両者の「記号性」をめぐる緊張関係と相互作用。調文明評「写真とファッション 90年代以降の関係性を探る」
東京都写真美術館の「写真とファッション」展は、新型コロナウイルス感染症の影響による休館を経て、7月19日まで開催。長年にわたり文化誌『花椿』の編集者を務めた林央子を監修に迎え、アンダース・エドストローム、髙橋恭司、エレン・フライス×前田征紀、PUGMENT、ホンマタカシが参加した。1990年代以降の写真とファッションの関係を再検証する本展を、写真批評家/写真史研究者の調文明がレビューする。
ファッション/写真のアンビバレンス
「写真とファッション90年代以降の関係性を探る」と題された本展は、「関係性を探る」とあるように、90年代以降のファッション/写真を歴史的にたどるというよりは両者の緊張関係や相互作用のほうに焦点を当てている。ここではとくに、「記号性」に注目して本展を考察してみたい。
それまで王侯貴族の専有物であったファッションを民主化させたのは、機械的複製(工場における機械的縫製とファッション雑誌)の力であった。王侯貴族の専有物だった時代は手製のファッションドール(当時の最新流行服を着た人形がフランス国外の宮廷におくられた)が情報メディアの主流だったことを考えれば、誰でも購入可能なイラスト銅版画によるファッションプレートからファッション雑誌(の写真)にいたる大量複製物の隆盛は、ファッションの情報を欲しがる無数の市民の登場を意味している。さらに、写真は情報を民主化するだけにとどまらず、ファッション自体の民主化にも大きな役割を果たす。
もちろん、写真はファッションがはらむ記号性(快適性といった使用価値以上に、他者との差異化を示す記号価値が重要)を強化し、階層性を生むこともある。むしろ、そのほうが一般的とさえ言える。多くのファッション写真ではハイブランドの服を豪華なセットと著名なモデルで彩り、いかに「他所」のブランドと違うか、いかに日常と隔絶された世界であるかを際立たせるからだ。そのいっぽうで、写真はファッション自体の民主化を果たすために、その記号性に抗い、日常へと溶け込ませようともする。
アンダース・エドストロームのストリートスナップは、1930年代のマーティン・ムンカッチから始まり、1960年代のデヴィッド・ベイリーやビル・カニンガムへといたるファッションの脱記号化に連なるものと言えよう。屋内でのスタジオ撮影がはらむ宮廷社会的な表象を脱して、屋外そしてストリートと日常性への志向を強調している。とくに、エドストロームの写真ではブランドの服を着た「モデル」がほぼ一般市民として日常風景のなかにまぎれ込んでいる。ランウェイを歩かずとも、ファッションはストリートにあふれている、そのようなメッセージを読み取ることができる。
髙橋恭司作品の選定にもまた、ファッションの記号性に抗おうとする意図が見て取れる。1992年6月号の『CUTiE』に掲載された《Tokyo Girl》(1992)を軸に、ほぼ同時期に撮影された「LIFE GOES ON」(1996)から風景写真や人物写真をピックアップし配置した構成は、ファッション写真の外部を意識させるつくりになっている。一部屋を使った作家の個展にも思えるような展示は、髙橋自身が《Tokyo Girl》を撮影する際に、それがファッションの内部でのみ記号的に機能するように制作しているのではないことの証左とも言えるだろう。
続いて、エレン・フライスと前田征紀の作品が展示された部屋には「手(仕事)」の強調がうかがえる。和紙やペーパーナプキンと植物を混ぜ合わせて制作された造形物からなる前田の作品は当然のこと、フライスのスライド・プロジェクション作品でも、フランスの森深くに暮らす人々の手作業の様子がたびたび写されている。羊の乳を搾る手、材木を裁断する手、飼い葉を掬う手、蜂蜜を採る手……。デジタルプロジェクターではなく、リヴァーサル・フィルムを用いたコダック製のプロジェクターで上映することで、ある種の回顧的な雰囲気を醸し出してもいる。ここにもやはり、ファッションの行き過ぎた記号性への警鐘の意味合いが含まれているように思われる。
さて、1990年代に活動していたほかの出展作家たちが総じてファッションの脱記号化を果たそうとしているように見受けられるのに対して、PUGMENTとホンマタカシの作品が展示されている部屋では、むしろファッションの記号性を前提として制作する態度が見て取れる。ミリタリーデザインの服を在日米軍基地のある沖縄の街角でファッションスナップのように撮影するホンマの作品は、ファッションの記号価値を使用価値とぶつけることで、ファッションと写真のあいだに緊張関係を生じさせようとしている。
1990年生まれの大谷将弘と今福華凜が立ち上げたファッションレーベルPUGMENTの展示では、インターネット上で検索できる様々な情報や画像を用いてデザインを構築していく「レシピ」が用意され、その成果が「出力」されている。壁面を覆う雑コラ的な意匠においては、あらゆる時代・場所の記号化されたファッションイメージがたがいに自己主張しながら干渉しあうことで、かえってその記号性は本来の機能(階層性や差異を生み出す等)を失調させることになる。脱記号化もひとつの「記号」になるなかで、PUGMENTは記号価値を階層的にとらえるのではなく、すべてを等価なデータの集合体として扱うことでインターネット普及以降の日常性を志向している。
本展を俯瞰してみるならば、脱記号化と記号性の徹底という点で、PUGMENTとそれ以前の世代に断絶を見ることは可能であるし、それはある程度順当であるようにも思われる(沖縄でのせわしない撮影風景を流すデジタルモニターと、フランスの田舎の風景を淡々と流すスライド・プロジェクターは対照をなしている)。しかし、本展ではそこに断絶よりも継承を導き出そうとしているのが興味深い。
それがよりよく表れているのは本展でもっとも控えめに見えた空間、つまりエドストロームの部屋とPUGMENTの部屋をつなぐ『Purple』と『here and there』の雑誌が置かれた空間の存在である。この空間は、企画者および監修者のある種の願望が込められた場所と言えるかもしれない。ふたつの部屋が移動可能であるのは、雑誌文化にあった「協働」「対話」「編集」「自由」(展覧会カタログより)が次世代に受け継がれていくことを願う動線の意味合いも含まれているのではないだろうか。
最後に、1990年代以降のファッションと写真を扱った展覧会として、ある不在を思わないわけにはいかない。それは女性写真家、とくにHIROMIXの不在である。本展には女性の雑誌編集者とファッションデザイナー(そして監修者)は参加しているが、女性の写真家は不在である。90年代日本の雑誌文化と写真業界が持ち上げた「女の子写真」ブームの問題やその余波は改めて考えなければならないだろう(その糸口はすでに長島有里枝『「僕ら」の「女の子写真」からわたしたちのガーリーフォトへ』(大福書林、2020)で見出されている)。