丸裸にされた「美術なるもの」の実態とは何か。成相肇評「フル・フロンタル 裸のサーキュレイター」展
共同体パープルームを主宰するアーティスト、梅津庸一のキュレーションによる企画展が、日本橋三越本店内のギャラリーで開催された。ステートメントによれば、「造形」の変遷を軸として、日本における「美術なるもの」にまつわる魔術性や禍々しさに言及することが本展の狙いとされている。はたして会場で剥き出しにされたものとは何か。東京ステーションギャラリー学芸員の成相肇が分析する。
国家の尾てい骨
本展主宰者の梅津庸一の作品群がまず来場者を出迎え、分け入れば若手作家が、日本美術史上の著名作家が、いわゆる団体展系の作家が、日曜画家が──そうした帰属を誇張するように──入り混じる。展示冒頭、国家元首(?)たる梅津はこの百貨の様相について次のように述べる。「日本という場所は大陸から渡って来た人々の吹き溜まりと言える」「いまや『現代アート』は全体を把握することが不可能なほど膨張したプラットフォームとなりつつあり、様々なクラスタがなんとなく軒を連ねるだけのたんなるフードコートのような場所になってしまった」(本展ステートメント「小さな独立国家の構想画」より)。
揶揄めいた論調ながら、その言葉は、日本を「吹き溜まり」ならぬ「あいついで寄せてきた東方の思想の波が[…]波跡を残して行った浜辺」と呼び、「フードコート」ならぬ「貯蔵庫」になぞらえたあのテクストを思い返させずにはいられない。
かくのごとくにして、日本はアジア文明の博物館となっている。いや博物館以上のものである。なんとなれば、この民族のふしぎな天性は、この民族をして、古いものを失うことなしに新しいものを歓迎する生ける不二元論の精神をもって、過去の諸理想のすべての面に意を留めさせているからである。 [岡倉天心『東洋の理想』(1903)/講談社学術文庫版(1986)より引用]
上述の現状認識を踏まえて雑多な展示をまとめ上げた梅津と、岡倉の日本=博物館論はじつによく似通う。さらに元首挨拶の向かいには、古雑誌から引用されたアルフレッド・バーJr.の有名なチャートの出来損ないのような美術史展開図が掛かる。美術史モデルで国家戦略を描いた岡倉とバーの2人の同根の思想を論じるのは柄谷行人「美術館としての歴史」(1994/1999)だが、本展の筋はまさにその思想を露悪的に崩すような格好になっている。露悪的であることは良い。ただこれでは、例えば東京国立近代美術館の常設展を連想させる「景色の良い部屋」の章題のもとに横山大観の富士図を見せる挑発らしい構成も、挑発として空転しないだろうか。
梅津の言う「未分類の雑多」を集めてフル・フロンタル(全裸)なフロンティアに立つという言明は、だから明治日本の、あるいは第二次大戦前夜のアメリカの、美術政策の反復であるのだが、しかしなんと「小さな」反復だろうか。批判というより僕は、ドメスティックな美術評価システムを繰り返し批判してきた梅津が、それにかかずらう内に当のシステムの花粉を吸い込みすぎていまいかと不安なのである。本展会期中に同フロアで個展を開催していた日本画家と悶着を起こしたというその騒動もまたネーションをめぐる「小さな」覇権争いであり、黒田清輝の作品を下敷きにした作品で知られる作家と岡倉が庇護した日本美術の末裔が火花を散らすというのはあまりに皮肉だ(むろんこれは、当の問題の焦点となっている差別の有無とは別の話だ)(*)。会場入り口に吊り下げた旗に記す「聡明なあなたの紡ぐ美術史を阻害するお仕事」が「阻害」であるかぎり、沼にはまり込む一方ではないか。その「あなた」とは、言説闘争の相手とは、誰なのか。
本展のミッションとして掲げられた「既存の美術史の問い直し」が実現しているとは思えないが、展示ないし作品形式の点では梅津が培ってきた技量が大いに発揮された。会場にいるあいだ、人がやって来るたびにすべて梅津が自ら出向いて迎え、声を掛け、パンフレットを渡す姿──スーツの会場スタッフは動かないのに対して──が印象深い。企画料も施工費も出ないという、作家側がほぼ一方的にリスクを負う条件(これが百貨店の通例かは知らないが、この仕組みが上記の騒動の根にあるようにも思う)と聞いたのだが、このような貧しさをおそらく持続的に経験するなかで、梅津(ら)は独自の展示造作術を開発してきた。カラフルな旗、拡大印刷、手書きのレタリングによる作品番号、彩色された台座、格子状の仮設壁。本展を「国家」たらしめている本体は、作品に近似しつつ作品でないこれら造作物にほかならない。そして何より順路を規定し展示効果を高めているのは、屏風や立てかけの形態によって仮設壁の機能をビルトインした梅津自身の作品である。
先にふれた柄谷の論が説く通り、美術館の展示における空間的な配列が政治的な歴史記述そのものであるとして、実際の展示でそこに抑揚をつけ意味を補強するのはディスプレイの造作である。梅津が過剰な造作を採用し、自ら屏風など組物のメディアを選ぶのは、ゲリラ的かつ経済的に領土を形成するためであると同時に、最小の「国家」としての作品にあらかじめ展示内でのヘゲモニーを先取りさせておく方途であると言えるのではなかろうか。これから梅津が本展で掲げた構想を先鋭化させるなら、きっとそれに伴って彼の作品はますます造作的な要素を肥大させていくだろう。すると、かつて家具調度品の一部だった記憶を、表具という尾てい骨として保っている日本画が、またしても召喚されることになるのだが。