ゼロ地点から向かいます──放蕩娘たちのストリーク 松井茂評「都市のみる夢」
東京都美術館で開催された「都市のみる夢」は、アーティスト・コレクティブ「tmyc」による企画だ。都市に暮らす人々を「都市のみる夢」の住民ととらえ、中島りかとミズタニタマミがインスタレーション群「夢の蒐集」を披露した。詩人で情報科学芸術大学院大学(IAMAS)准教授の松井茂が、同展のカウンター・エキシビジョンとしての性格をレビューする。
カウンター・エキシビジョン
「都市のみる夢」は「tmyc」による企画で、2019年に「都美セレクション グループ展2020」に選抜されていた。当初は、オリンピック開催直前の2020年6月9日〜30日が会期だったが、コロナ禍によりオリンピック同様延期。会期は、9月11日〜30日に順延した。
それにしても、オリンピック主催の一端を担う東京都のコンペに、本展がまんまと選抜され、公募の枠組み自体をも展示のコンセプトに織り込んでみせたことは、2020年を象徴するカウンター・モニュメント(抵抗記念碑)ならぬ、カウンター・エキシビジョンとでも呼びたい性格があったように思う。
それはつまり、企画者であり、出展作家でもある中島りかに聞いた話に基づく。いわく、日本の現代芸術の揺籃期を支えた読売アンデパンダン展は、回を重ねる毎に「反芸術」的性格を強め、1964年の第16回展開催直前に終了した。名称のとおり、読売新聞社というマスメディアが主催した同展の会場は、東京都美術館だった。アンデパンダン展をロックアウトされ、同館を後にした前衛作家たちは、東京のストリートへ、さらに世界のアートシーンへと向かわざるを得ない。無論、それはそれでよかったわけだが……。そして2020年、再びオリンピックを目前に控えた東京に、前衛作家の末裔である自分たちが戻ってきたと仮定しているという。中島とミズタニタマミは、ともにイギリスの大学で学び、現在は日本の大学院に所属している。ふたりは、ロンドンの公共空間でそれぞれ作品を発表してきたという。ストリートから世界に展開した芸術家の末裔、放蕩娘を自覚したふたりが、改めて公募展でギャラリーを占拠したことになる。
睡眠するのか昏睡するのか覚醒するのか
磯崎新のテキストを典拠とする展覧会タイトル「都市のみる夢」は、ベンヤミンに遡り、オリンピック直前の東京に見出される、グロテスクな集団的無意識を批判的に暴き出すことを目論んでいたことだろう。予定通りであれば本展の後、つまりはオリンピックの後、程なく誰もが夢から醒めたに違いない。しかし、コロナ禍によって事態は複雑化し、展覧会はオリンピック開催予定の1年前にズレ、東京だけでなく全世界は、睡眠状態どころか昏睡状態に陥っている。
1997年に発表された磯崎の「都市のみる夢」は、「『海市』もうひとつのユートピア」展(ICCギャラリー、1997)で公開された、「海市」計画(1995)を夢想したことを述べていて、これが実現するのは四半世紀後(つまり2020年!)であり、それまではこの都市計画は、「ネットワークのなかで膨大な量の夢をみていることだろう」と結ばれていた。
2020年2月15日、日本のコロナ禍が本格化する直前。磯崎は「海市」計画にも深く関わった浅田彰と、「インポッシブル・アーキテクチャー」(国立国際美術館、2020)で、「パンデミック都市」あるいは「閉鎖都市」を主題にレクチャーした。カミュの『ペスト』、トーマス・マンの『ヴェニスに死す』、大友克洋の『AKIRA』が並ぶ。私見では、「アンビルト」を手法とするビジョナリー=都市計画家は、幾分かの不謹慎さをコロナ禍に代行させつつ、ザハによる新国立競技場の計画を、不可能な事態へ追い込んだ状況への怒りを底流に語っていた。浅田は、議論をナビゲートしつつ、1980年代のAIDS禍のニューヨークをこれに加えたことが印象に残った。
中島のコンセプト文(https://tmyc2020.wixsite.com/-tobi)を読みながら、僕は2月の磯崎と浅田のトークを想起していた。夢と現、ユートピアとディストピア、アンビルトとリアリゼーション……。言い換えれば、理想はユートピアを計画し、現実はディストピアを実現している。この図式に換喩(メトニミー)を試みるために、公共性(コムニタス)に潜入し、免役(イムニタス)の機能を計画する人、それが芸術家であるはずだ。
昏睡とは、意識の無い状態である。このことに気づくこと、この語義矛盾の実現が、本展の目指す覚醒だと僕は思う。2019年とルールも目的も変更されている現実。だから「都市のみる夢」展には、「夢」はなにひとつ無かった。「現実を見よ!」それがひたすら突きつけられている。
後述するように、オリンピックをきっかけに、東京の地勢図と天皇制を浮上させる本展には、コロナ禍やオリンピックとも関係無く、第二次世界大戦後、否、近代という昏睡状態における市民への問いかけがある(というのは言い過ぎだろうか?)。
磯崎の「海市」のころ、1990年代、桂英史がインターネット社会における「terminal citizen」(ヴィリリオの言葉)を訳出した「端末市民」とは、昏睡の自覚をうながしていたように思う。この意識は、現在において「終末期医療(terminal care)」の対象となるだろう。「都市のみる夢」展は、あっけらかんとした屈託のないユーモアの展示を中心にしながら、モルグと見分けのつかない寝室にも思われた。
会場構成に見える都市の地勢図
夢から覚醒する場として、寝室が会場構成のデザインに反映され、シングル・ベットが作品の台座的な役割で設置されていた。このベッドがサインとなって、展覧会の一貫性をつくり出していたことは、シンプルだが特筆されてよいだろう(あらかじめ断ったように、それは個室よりも死体置き場に近いのだが……それは一度おく)。
中島の作品《空白2020》《私たちの不在》は、いずれも「広告募集」という言葉をモチーフにした作品だ。これは都市空間が、場を提供するために開かれているということを示しているという。「不在です!」という存在証明を主張する都市とともに、都市に居住し、存在証明を「不在」として引きこもる、立て籠もる、占拠するという、アイロニカルなアジールとする展覧会の意図にかなっていた。中島の作品には、場をなんらかの方向性に向けていく力があるように思う。
会場の中心に鎮座するピラミッド状の張りぼては、約1万個に及ぶサイコロ状の立方体が積まれ、その目はすべて「1」を示すミズタニの作品《団結と一致》。「1」は「日の丸」を意味し、市民ひとりひとりを表象する。ヒエラルキーを見せつつもどれも皆同じ「1」。通り過ぎると、張りぼてには開口面があり、その床に置かれたモニターで、雑踏の中に落ちた日の丸が嬲られている映像が映る。ミズタニが、2019年11月10日の天皇即位パレード後に、東京駅構内で見かけた光景のフッテージだという。賑々しく振り飾られた日の丸が、同日のうちに通路で踏まれ、誰も気にとめないことに衝撃を受けたという。天皇制と日の丸という装置が作り出す「終末期市民」の熱狂。このバランスこそが、僕には絶妙な昏睡状態に見えた。
東京の楕円形とグリーンバック
会場構成とは別に、作品の主題が東京の地勢図を浮上させていたことも刺激的だった。それは東京に見出されるふたつの外苑、言い換えればふたつの内苑、つまりふたつの中心だ。それは、中島の作品《なぜ何かがあるのではなく何もないのか》が、皇居外苑=皇居前広場を、ミズタニの作品《ゆめの中継;状況の上書き1》が、明治神宮外苑=新国立競技場を主題としていたことだ。
江戸幕府を天皇制が上書きし、将軍家の住居である江戸城を天皇の住居である皇居としてリセットする。東京の起源となる遷都を実現した明治天皇を祀る明治神宮、対立的な図式を相互補完する関係に置き換えた地勢図が、展覧会に浮上していた(東京都美術館は、明治維新の上野戦争の戦跡であることも付言すると出来すぎた話かもしれない)。いずれにしても、皇居だけの正円ではなく、明治神宮をもうひとつの中心と見立てる、東京の楕円。花田清輝ではないけれど、対立物を対立させたままに統一させる楕円に、ある意味で近代の設計を感じさせられるのである。ふたりの作品が、図らずも、なのかもしれないが、極めて必然的に、東京に象徴される日本の問題系を析出していたのだ。
《なぜ何かがあるのではなく何もないのか》は、1966、68年に東京を訪れたロラン・バルトの著書『記号の国』(みすず書房、2004、石川美子訳、原著1970)を参照し、皇居外苑=皇居前広場を主題にしている。このインスタレーションでとりわけ印象深いのは、中島が撮影した天皇の即位パレードと香港のデモ(2019年12月)の映像に交錯する、自身の個室(グリーンバック)から皇居前広場をグリーンの絵の具で落書きするパフォーマンス映像だ。バルトがいう「だれの関心も引くことのない場所──樹木の緑で隠され、お堀で守られて、けっして人目にふれれることのない天皇が、つまり文字どおり誰だかわからない人が住んでいる皇居」を塗り潰す。
僕はどういうわけかボンヤリと、皇居内の寝室を想起した。昭和の最後、人体実験のような「終末期医療」がその部屋で繰り広げられた。なぜそんなことを想起したのだろうか? 公共空間としての広場と個人の寝室が接続することの意味。政治的な思想性と異なる記憶が表出した。《なぜ何かがあるのではなく何もないのか》という「不在」の存在証明は、見えない日本の「炉心溶融」を促している。
『記号の国』の訳者、石川美子によれば、本書は日本論であるよりも、バルト後期の新たなエクリチュールのはじまりだったことを強調すべきだという。中島の寝室からのジェスチャーは、バルトのこのスタイルに重なる。極私的、喪の仕事であり、革命劇でもある。合成された現実の数々が作り出すパワー。中島の今後に注目させずにはおかない、言語的に説明しやすいなにかではなく、作品によって示されるアイロニカルな魅力がここにある。
実況放送したら面白いよ
《ゆめの中継;状況の上書き1》は、新国立競技場周辺を主題にした、ドキュメンタリー風の5名の女性のモノローグ映像とインスタレーションによる作品だ。映像には、相続したマンションのオーナー、病身の夫と低所得の条件で都営住宅に住む主婦、開会式にあわせて予約したホテルに、オリンピックの延期も気にせず宿泊する若者、ホームレスを支援する運動家、そしてレポーターが登場し、すべてをミズタニが演じる。全員がどこか他人事のような感じでオリンピックを眺めていて、実は誰も夢は見ていない。
レポーターは、競技場が立地する外苑の歴史を解説し、2020年のオリンピックを1964年の再現ではなく、同じ場所で1943年に挙行された学徒出陣の壮行会に擬え、むしろ中止された1940年のオリンピックの再現を仄めかす。明治神宮と神宮外苑という地勢図を示しながら、第二次世界大戦とオリンピックがともに世界の戦争であることを述べておきながら、無頓着に「明治神宮へ参拝します」と言ってのける。
これだけで充分面白い映像作品なのだが、本作の真骨頂は、会期中に5回行われた「生中継パフォーマンス」にあったと、その初回を目撃した僕は考える。
2020年9月13日14時。生中継パフォーマンスは、スクリーンでの映像の上映を停止して始まった。ループ上映されていた映像に登場するホームレスの居場所が中継されているようだ。スピーカーからは、ミズタニらしき女声とホームレスらしき男声の会話が流れてくる。やや乱雑な中継は、明確に聴き取れるわけではないし、どのような文脈の会話なのかしばらくは追えない。先ほどまで、ある意味では誇張のある映像が投影されていたスクリーンに、直の生の映像が映され、見ている僕のなかに乱雑になだれ込んできた感じだった。ただの生中継だが、視聴者が美術館でこれに出会うこと、作品と同じ画面に映し出されることがもたらす違和感、この驚きのなさそうな事態に自分が吸収されたことに驚いた。
ちなみに、小見出しにした「実況放送したら面白いよ」は、磯崎の『イメージゲーム』(鹿島出版会、1990年)に収録のテキストのタイトルだ。
再論「開かれた作品」
このとき、ふと僕が連想したのは、ウンベルト・エーコ『開かれた作品』第5章「偶然と筋 テレビ経験と美学」(原著、1962年。以下の引用は、篠原資明、和田忠彦の翻訳からの引用。青土社、1984年)だ。
「開かれた作品」という概念は、現代音楽の作品からの提起と同時に、未完結の内容と時間を提起するテレビ中継からの影響が大きい。無論エーコは、生中継のすべてが芸術作品だと主張したわけではない。極めて稀なことだが、「実況放送には、日常の出来事の動かしがたい不確定性をめぐる開かれた表現や探求、解釈の可能性がまだまだたくさん残されているであろう」と述べ、「筋によって被る催眠的魅惑から視聴者を切り離すことのできる逸脱的注釈場面は、〈異化作用〉の誘因として作用することになろう。受動的注視を突発的に中断し、判断を促すわけである」とした。
エーコが述べた時代のマス・メディアのインフラストラクチャーとしての放送局が有するシステムを必要とした表現の可能性は、現代において、スマートフォンによって簡便に実現可能となっている。ミズタニの中継は、公募展という枠組み、美術館という場所性に対して「逸脱的注釈場面」を持ち込み、「催眠的魅惑から視聴者を切り離す」覚醒的な効果をもたらしていたと思う。中継されたホームレスの話は、聴き取れた範囲で要約すれば、オリンピックの是非を問うことよりも、都心で自由気ままな生活者でありたいという主張であった。新国立競技場を眺めつつ、無名の人の都市に関するオーラルヒストリーであり、極めて理知的な会話を聴いた。本展のなかで、唯一見出された真の意味で「都市のみる夢」であったかもしれない。
他日のパフォーマンスで、同じ出来事が起こるはずはない。しかし、シチュアショニストが「状況の構築」と呼び、ミズタニがこの作品において「状況の上書き」と呼んだ「逸脱的注釈場面」が、現代のメディア環境において起こったということは、目撃者として記録しておきたい。エーコの「パレオTV」を再論したくもある。
半世紀以上前の反芸術家共に比べれば、彼女たちの流儀はいささかお行儀よく(アカデミックに?)も見えた。しかし「都市」と冠がつくと、おじさん共が喧々諤々、否、実際には右顧左眄して充実感を醸し出す、悪習に比べたら、放蕩娘たちの展覧会は、雑味も含め、野蛮で鮮烈な航跡を一条引いてくれた。
付記:ところで、TBS系「金曜ドラマ」『MIU404』(脚本:野木亜紀子)は、2020年を象徴するテレビ番組だったと思う。最終回(2020年9月4日放送)、オリンピックが実現する現在に接続した物語の中で、主人公達は一度死に、コロナ禍に接続した僕たちの現在に接続した世界では、彼らは生存していた。主人公のひとり、綾野剛演じる伊吹藍は、新国立競技場の形を「0」に見立て、「ゼロ地点から向かいます」と台詞を残し、新たな事件に出動し、ドラマは終わる。
14.5パーセントという視聴率を記録したこの最終回に、本展のコンセプト文にある、ベンヤミンのいう「集団の夢」を見出しても見当外れではあるまい。視聴者は、伊吹の台詞によって、オリンピックに醒め、東京に醒め、国家に醒め、世界に醒めたはずだ。しかしそれでも社会は、ある方向へ向かうだろう。僕はドラマ評を述べたいのではない。瞥見していた『MIU404』が、覚醒をうながすドラマであったことを、本展が再帰的に僕に気づかせてくれたのだが、そのことをうまく本論に盛り込むことができなかった。展覧会がドラマのパロディーでもなく、逆でもなく、現実がパロディー不能であり、グラウンドゼロであることを意識させられる。今後ともこのことを考えたいと思い、タイトルに伊吹の台詞を引いた。