「悪い場所」が抱える可能性を見つめ直す。山本浩貴評「平成美術:うたかたと瓦礫(デブリ) 1989-2019」
美術批評家の椹木野衣が企画・監修するグループ展「平成美術:うたかたと瓦礫(デブリ) 1989-2019」が、京都市京セラ美術館で開催されている。平成日本の美術史をアーティストグループの活動から振り返る本展を、文化研究者の山本浩貴がレビューする。
希望としての「空虚」
『美術手帖』2021年2月号の第2特集「『平成』の美術はいかにして成立しうるか?」において、筆者は「平成美術:うたかたと瓦礫 1989–2019」展(以下、「平成美術」展)を企画・監修した美術評論家・椹木野衣へのインタビューの聞き手を担当した。また、展覧会会場後半に設営されたモニターに映し出された、出展作家のトーク(各セッションは出展作家でもあるDOMMUNEのライブストリーミング・チャンネルを通じて東京で公開収録された)では「突然、目の前がひらけて」の作家たちの聞き手も務めており、筆者はささやかながら本展に縁があると言える。
『美術手帖』に掲載された椹木へのインタビューは非常に充実した内容になっているが、2時間半にも及んだオンラインでのやりとりのなかでは、紙幅の都合上、あるいはあくまで聞き手という立場に徹するために割愛せざるをえなかった部分も多かった。加えて、インタビューにおいて、逆に椹木から(世代の異なる)筆者に問いを投げかけられる場面もあったが、インタビューの性質上、そうした問いに対して丁寧に応答することができなかった。そこで本レビューでは、筆者が椹木へのインタビューを通して抱いた感想も踏まえたうえで、「平成美術」展が問いかけるものについて考えてみたい。
日本で現代(戦後=昭和+平成)美術が成立する条件を問うた『日本・現代・美術』(1998)において、椹木が日本を「悪い場所」と規定したことはよく知られる。「ジャンルがジャンルとして機能して」いないその場所においては、口当たりのよい欧米的な「ジャンルの横断」は成立しえず、「それゆえに最初からそれらが渾然一体となって現れざるをえない」と彼は喝破したのであった(*1)。この主張は賛否両論を含む様々な反応を惹起したが、ここではそれらの議論を整理・検討することはしない(とはいえ、椹木のこの問題提起とそれをめぐる諸々の応答は、日本美術「批評」史においてもっとも重要な焦点のひとつであると筆者は考える)。
「平成美術」展のコンセプトとも深く関わる1995(平成7)年の阪神・淡路大震災と2011(平成23)年の東日本大震災を経て執筆された『震美術論』(2017)の前半部で、椹木は自らの「悪い場所」概念に位相的・次元的な修正を加えている(その最初の2章は「再考『悪い場所」」と題されていた)。2つの巨大な震災を目の当たりにして日本という場所の(文字通り)「土台」となる地理的条件に目を向けざるをえなくなった椹木はそこで、『日本・現代・美術』では「悪い場所」という言葉を「一種の抽象概念として使っていた」が、それは「たんなる比喩ではなく、いまではもう悪しき現実でもある」とある種の戦慄をもって記している(*2)。
だが、椹木の「悪い場所」は完全に否定的な帰結しかもたらさない概念であっただろうか。筆者の目には、「平成美術」展は「悪い場所」から「渾然一体となって現れ」た多種多様な芸術実践の可能性のショーケースのように映った。椹木は(筆者のインタビューのなかでも)これらの実践に「うたかた」「デブリ(瓦礫)」「名状しがたい集合的活動」といった様々な言葉を応急処置的に当てていたが、それらは彼自身が批判的に提示した自家撞着的な円環のなかでこそ生起しえたものであったように思われる。
出展作家はあまりにも多様すぎて、そしてあまりにも濃厚すぎて個別に検討することは紙幅の都合上できないが、いずれのプロジェクトも日本の美術という場の非歴史性、換言すれば(椹木の言う)ジャンルの機能不全を逆手にとって、あるいはそれを梃子として発展したもののように見えた。ごく一例を挙げれば、村上隆のGEISAIと梅津庸一のパープルームはいずれも、既存の美術制度(特にアカデミアのそれ)に対抗しつつ、その脆弱さを巧みに利用しながら自己のアイデンティティを練り上げてきたプロジェクトである。アイロニカルなことではあるが、椹木が選出した「平成美術」展の出展作家たちは、自身がかつてえぐり出した「悪い場所」の「悪さ」に伏在していた可能性の存在を体現しているのではないだろうか。
明治期の日本における「美術」の根本的な制度・概念的成立条件を問うた(その意味では椹木の『日本・現代・美術』と同一の系譜学上に位置づけられる)『眼の神殿』(1989)の著者・北澤憲昭は、近代の誕生とともに生成された(日本語の)「美術」が「近代の否定的側面が露わになり」、「近代が行き詰まりの様相を呈する」につれて、自らのなかに見出したのは「空虚」だけであったと結論づけている(*3)。この空虚は、椹木が戦後の日本美術を考察するなかでたどり着いた、起源を欠くがゆえに無限の反復を繰り返すよりほかない円環構造と同一の(少なくとも、類似した)ものである。
だが同時に北澤は初版のあとがきにおいて、「“空”のドラム缶に起爆性ガスが充満していることがあるように、空虚は時に絶大なエネルギーを密かに孕むことがある」と述べて、このきわめて悲観的に響く結論を希望と結びつけて救済する(*4)。「空虚」は、うたかたの自由に集合離散する運動が発生しうる条件にもなりうるのだ。北澤が導出した「希望としての『空虚」」は、「平成美術」展を言い表すもっとも適切な標語であると筆者には感じられた。椹木や北澤が近代日本の美術に見出した「悪い場所」としての巨大な「空虚」は、同時に同じだけの大きさをたたえた「真空」──良きものであれ、悪しきものであれ、そこにおいて予期せぬ何かが生まれる空間──でもありえた。「平成美術」というカテゴリーを発明することによって、椹木はそうした空虚=真空のなかで成長した、「絶大なエネルギー」を携えた「子ども」たちを取り上げる助産師の役を自ら買って出た──そのような見方は、あまりにナイーブに「悪い場所」のポテンシャルを肯定的に解釈しすぎているだろうか?
*1──椹木野衣『日本・現代・美術』新潮社、1998年、17頁。
*2──椹木野衣『震美術論』美術出版社、2017年、36–37頁。
*3──北澤憲昭『眼の神殿 「美術」受容史ノート』筑摩書房、2021年、360–361頁。
*4──同上、390頁。