縮減と延命をポジティブに考える。シリーズ:蓮沼執太+松井茂 キャッチボール(6)
作曲の手法を軸とした作品制作や、出自の異なる音楽家からなるアンサンブル「蓮沼執太フィル」などの活動を展開する蓮沼執太と、詩人でメディア研究者の松井茂。全14回のシリーズ「蓮沼執太+松井茂 キャッチボール」では現在、ニューヨークが拠点の蓮沼と、岐阜を拠点とする松井の往復書簡をお届けする。第6回では、3月30日に岐阜県で行われたイベント「羽島市勤労青少年ホームを記憶し記録する1日」に準備段階から関わった松井が「市民」と「公共」について考える。毎週土・日更新。
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市民、そしてパブリックとは 松井茂
3月30日の「羽島市勤労青少年ホームを記憶し記録する1日」、お疲れさまでした。蓮沼くんの《Walking Score》とパフォーマンス、まじでスリリングでした。作品を通じて、記憶が記録されるということの実証になったと僕は考えてます。
僕が今回の企画に関わったモチベーションは、建築を保存か解体という議論にせず、いわば延命を試み、可能性を語り尽くすというような行為によって、記憶を記録することをアーカイブと呼んでみようと考えていました。と同時に、これは一般的な意味でのアーカイブへの異議申し立てでもあったので、蓮沼くんの指摘どおり、依頼自体が変化球だった。見破られていたようで、おみそれいたしました。もっとも見破っていただいたお陰でうまくいった次第。
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そもそも「記憶し記録する1日」は、岐阜県主催の「つくる人、すむ人、みる人でつくるコミュニティ・アーカイブ」〈坂倉準三篇〉をきっかけに始まった、学生主導の企画でした。「つくる人、すむ人、みる人」も結果的には盛り上がったんですが、準備段階から参加した学生にとっては、それほどやる気があるものでもなかったと思うんです。少なくとも僕は、わりとオシゴト感いっぱいで、しかし羽島に通ううちに、坂倉準三の空間にいろんなことを喚起されたことはすでに書きましたね。
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学生も、気がつけばこの空間が失われるというショックに直面したんでしょう。それでこの建築の存在感を誇示することを目的に、解体に際して蓮沼フィルを呼んで、2階をオープンエアにして、近隣にも響き渡るコンサートを開こうという計画を立てた。とはいえそんな予算があるわけでもないし(苦笑)、少し冷静にディスカッションして、蓮沼くんと記録係(玉木晶子、関真奈美)をお招きしたというのが経緯です。
個人的には、アートイベントという切り口に珍しく乗ったところもあったんです。なぜなら建築の解体も保存も露骨に政治だということに気がついたからです。政治家も建築関係者も大差ないわけで、ある建築家は「モダニズム建築には価値があるから保存しましょう」と学閥的ポジショントークとしてのたまう、他方で解体に関して地元でOKを出してるのも近隣の大学の建築家。文化の問題じゃなくて、土俵が利益誘導の場になっていて、まったく別の軸を出さなきゃ議論の余地がない。
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僕のような部外者からすると、建築業界こそが文化を考えず、モダニズム建築の価値も実は示してないように見えた。この半年くらいで幻滅しました。解体される建築に対して、アーカイブという思想の力を借りることで、部外者のほうが遙かに手際よく、現実的提案ができるのだと挑戦したつもりです。当日や終了後に羽島市民からの連絡が増えたのは大きな収穫だったと手応えを感じてます。地元住民の自覚によって、現市庁舎の今後に関わる展開が活性化すれば、坂倉にとっても幸福なモダニズムの実現になると思います。
政治家や公務員と話すと、市民とは、その地で税金を納めている住民のことだけを指しているのだとわかります。「市の建物は公共財だから、維持費がかかる」と言うとき、その地の税収だけで考えてしまう。つまり縮減する地方都市において、市民という言葉を行政区分上の住民に限定する意識を見直す必要があると思うのね。そうしないと近隣の市町村と差別化をはかって、移住者を求めるしかなくなるでしょう。その考え方、岐阜では「輪中根性」と言うらしい。この建築にはパブリックとして力があるのだから、市の公共財ではなく、市民社会の公共財として扱うことがモダニズムだったはずです。
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今回のイベントは、全館を2日間にわたって正規の手続きで借りています。羽島市からすればゼロ円で開催されてる。解体される建築目当てに、日本中から個人意識をもって参集した「市民」が、パブリックなイベントをしたわけで、コミュニティの再編がこうした建築空間の活用で図られるかもしれないと認識してもらいたいですよね。繰り返すと、行政区分の税収で考える地方行政は、未来へ向けて縮減し破綻するので、このプロセスでコアになる拠点を形成していく機会として、建築という文化資源が芸術として使えると知ってもらいたい。
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解体前に、こういうイベントを自主的に企画できる行政や、ゼネコンがあれば尊敬されるんじゃないかな。保存運動と解体と乱暴な新築の積み重ねが、住民の故郷感を喪失させたり、地域社会を痩せ衰えさせるストレスにつながっているのではないか、いささか極論かもしれないけど、僕はそう思う。だから縮減と延命をポジティブに考えたい。1秒、1分、1日の延命が毎日続くような、行為遂行的=パフォーマティヴであることこそが、現代芸術が培ってきた生存戦略で、そういう「市民」意識が文化によるアイデンティフィケーションにつながるのではないか。
サイードやバレンボイム、さらにはライリーの「in C」からもパブリックという主題は大きく提起されていて、このイベントに関しては強気に書きましたが、僕には真の市民というか、充実した受け手の自覚はどのようにもたらされることなのか依然としてわかりません。作品の力といえばそれはそうなんですが、芸術の受け手の問題は、蓮沼フィルにも係わり、他方では「Someone’s public and private / Something’s public and private」という、1日限りの展覧会プロジェクトでも課題になりそうですね。羽島の1日を経た蓮沼くんのアクションに注目してます。
サイモン・ラトル指揮によるヤナーチェク「シンフォニエッタ」第5楽章〈市庁舎〉を聴きながら。
2019年4月11日 大垣より
松井茂