現代美術作品でジェンダー、フェミニズムを語る意味。作家・碓井ゆいインタビュー
シリーズ:ジェンダーフリーは可能か?(4)
世界経済フォーラム(WEF)による2018年度版「ジェンダー・ギャップ指数」で、日本は「調査対象の149ヶ国中110位」という低順位であることが明らかになったが、日本の美術界の現状はどうか。美術手帖では、全11回のシリーズ「ジェンダーフリーは可能か?」として、日本の美術界でのジェンダーバランスのデータ、歴史を整理。そして、美術関係者のインタビューや論考を通して、これからあるべき「ジェンダーフリー(固定的な性別による役割分担にとらわれず、男女が平等に、自らの能力を生かして自由に行動・生活できること)」のための展望を示していく。第4回では、社会で見過ごされてきた出来事や歴史をリサーチし、女性の立ち位置、既成の視点を問う作品を手がけてきたアーティスト・碓井ゆいに話を聞いた。
「ジェンダー」と言うと、美術業界で嫌われる
——碓井さんは日本でアーティストとしで活動するなかで、ジェンダーギャップを感じることはありましたか?
はい。美術業界で主流の男性中心的な価値観と、そこから生じるジェンダーギャップを感じることはありました。また私の知るかぎり、日本ではジェンダーをテーマに掲げた展覧会は少なく、笠原美智子さんや小勝禮子さんの後の世代に、そういったテーマを扱う学芸員やキュレーターは果たしているのだろうか?とも思っていました。
——たとえ、アーティストがジェンダーをテーマとした活動を行っていても、取り上げる側に同様の視点がないと、やはりこぼれ落ちてしまうケースは多そうです。
じつは以前、ある方に「“ジェンダー”と言うと、美術業界で嫌われますよ。碓井さん、大丈夫ですか?」と言われたことがあって(笑)。その方なりの心配とジョークの入り混ざった発言だったとは思うのですが、やはり、男性中心の価値観に違和感を持っていたとしても言い出しにくい空気があることはたしかだと思います。そんななか、「あいちトリエンナーレ2019」でのジェンダーバランス平等の取り組みは、その空気を変える契機になるのかなと感じています。
——碓井さんはジェンダーの不均衡さをテーマにした「shadow work」シリーズ(2012-16)や、慰安婦問題、オリエンタリズムを内面化することへの違和感をテーマとした《空(から)の名前》(2013)といった作品を手がけられています。ジェンダーやフェミニズムに関する作品をつくるようになったきっかけはどのようなものだったのでしょうか?
東日本大震災をきっかけに、それまで手に取ることのなかった歴史や社会学の本を読むようになり、その延長でたまたまフェミニズムの本を読んでショックを受けたことが発端です。
——そのショックというのは?
「私の感じていた生きづらさのようなものは、自分の性格の問題ではなく、社会の価値観を自分で内面化していることで生じたもの」と気づいたことで、一気に視界が開けるような衝撃でした。自分で自分を肯定できない部分があったのですが、フェミニズムを知ることにより、生きやすくなるような気分になりました。
社会の価値観を自分で内面化していた
——さきほど「“ジェンダー”と言うと、美術業界で嫌われる」というような言葉もありましたが、具体的にフェミニズムの本を手に取るまで、ご自身のなかでフェミニズムやジェンダーへはどのような意識を持っていましたか?
それまでもフェミニズムの存在を知ってはいたけど、逆に自分が女性だということをすごく認めてしまうようで、あまり触れたくない領域ではありました。私がもともと美術の分野に進んだのは、「性別関係なく、良い作品をつくれば認められる世界」なのではないかという漠然とした思いがあったからです。
大学を卒業して作家活動を続けていくなか、私の作品はモチーフの選び方や手芸技法の採用からか、たびたび「女性らしい作品」と形容されてきました。そのとき「“女性らしい”ってなんなのだろう?」みたいなモヤモヤとともに、自分が女性であるということに対して否定的な感情を持っていたことに気づきました。それは、すごい美術作品を見たときに、それが男性作家によるものであると気づいて「やっぱり男性の人だからしょうがない」と、どこかでホッとしていた気持ちにも関係していると思います。
——その「すごさ」というものも、言わば男性主体の価値観のなかで生み出されているものなのかもしれません。どこか循環的ですよね。
フェミニズムは、既存のバイアスのある考え方や、言葉や概念では語れず、語られてこなかったものを語ろうとすることを続けてきましたよね。私自身はフェミニズムの考え方を知ることで、「いままで否定的だった自分の女性性は、新たな試みへつながる可能性でもある」と、背中を押されたような気持ちになりました。
女性やマイノリティが意志決定する場を増やす
——4年にわたって取り組んできたシリーズ「shadow work」では、資本主義社会における「女性と労働」にまつわる影の部分にフォーカスするなど、ジェンダーを社会問題や歴史に接続していますね。
2012年に愛知県で行われたグループ展「うつせみ」に参加したのですが、その会場となった「常懐荘」は竹内禅扣さんという方の邸宅で、彼は戦前、愛知高等女子工芸学校(現・愛知産業大学)を設立した人でした。そこからヒントを得て戦前の女子教育を調べていくうちに、シャドウ・ワーク(家事や育児といった、報酬を受けない仕事)というキーワードに辿り着きました。
——震災を機に社会学やフェミニズムに触れ、翌年偶然、女子教育に携わった人物の旧邸を会場としたグループ展に参加することになったんですね。女子教育から「シャドウ・ワーク」および作品の「shadow work」へはどのようにつながっていったのでしょうか?
戦前は、女子教育の目的は「良妻賢母になること」で、大学進学という選択肢もなかった。近代化の過程で教育を通して、家事を女性が担うようになっていった経緯に着目しました。初等~中等教育では性別によって授業のカリキュラムも異なり、裁縫などの手芸は女の子のみが学ぶものだった。そこから、薄く透ける布に刺繍を施すことで、裏側の模様も同時に見せる刺繍の手法「シャドウ・ワーク」と、女性が行うものとされてきた家事に代表される、賃金の支払われない仕事「シャドウ・ワーク」のダブルミーニングのシリーズの作品につながっていきました。
制作資料として以前、奈良女子大学准教授の山崎明子さんの著書をいくつか読んだのですが、「日本の近代化によって作られた『工芸』と『手芸』という概念は、担い手のジェンダーによって分けられている」と指摘されていてとても影響を受けました。「美術」の制度化の歴史はしばしば語られますが、その過程で黙殺されてきた領域なのではないでしょうか。「shadow work」シリーズでは、本来のシャドウ・ワークの意味を拡大し、「見えないもの」として扱われている労働として原発作業やセックス・ワークも取り上げています。
——2018年のVOCA展で、大賞にあたるVOCA賞を受賞した《our crazy red dots》(2018)でも手芸の手法が取り入れられていましたね。
《our crazy red dots》は、私が高校時代に経験した国旗問題をきっかけとした作品なのですが、男性的かつ国家の象徴として強固なイメージを持つ国旗が、女性が担ってきた手芸で解体されていくというジェンダー的な面白さを意識していました。また、タイトルの「crazy」は、クレイジーキルト(不定形の布からなるパッチワークの手法のひとつ)と、日の丸にまつわる様々な熱狂、狂信のダブルミーニングになっています。戦争中に、出征する兵士のために日の丸に寄せ書きが行われていたことは有名ですが、そのレプリカがネットオークションなどで売られていて驚いたんです。人々は日の丸に何を求めているのだろう?と。
——受賞にあたって審査員の方から何かコメントはありましたか?
伝統的に絵画が主流の展覧会なので、キルトでかつ社会批評をテーマにしているという点ではかなり異色のVOCA賞だというようなコメントをいただきました。私が参加した年度から審査員の顔ぶれがガラッと変わったこともあり、VOCAとしても「変わりましたよ」の意思表示の意味もあったのかもしません。
ですからそういう意味では、プレイヤーが変わると価値観も変わっていくので、女性が意思決定する場が美術業界で増えたら、扱われる作品も変わってくるのではないかなと思いますね。さらに言うと、女性だけではなく、ジェンダーやエスシニティにおいてマイノリティとされる属性の人にフォーカスした展覧会も増えていくべきだと思います。
女性だけのコレクティヴ「エゴイメ・コレクティヴ」
——碓井さんは現在、東京都美術館で6月30日まで開催中の展覧会「彼女たちは叫ぶ、ささやく-ヴァルネラブルな集合体が世界を変える」では「エゴイメ・コレクティヴ」のメンバーとして作品を出展していますね。このコレクティヴはどういったきっかけで結成されたんでしょうか?
私は小勝さんに誘っていただき参加することになりました。私と同年代のアーティストはひとりだけで、あとはほとんど一回り以上年の離れた年上のアーティスト。社会全体は男性向けに設計されているので、一時的に制作を中断せざるを得ない女性が多いと思うんですね。そういうなかで制作を続けてきた方たちと一緒に活動できるというのはとても励みになり、学ぶことも多いです。
——今後も、展覧会がメインの活動となる予定ですか?
初めての展覧会をやるところなので、今後どうなっていくかは未定です。私としては、美術業界でずっとジェンダーのことを考えられてきた小勝さんにいろいろなことを教わりたいですし、みなさんにも知ってほしいという思いはあります。
——エゴイメ・コレクティヴは「女性作家」だけのコレクティヴですが、そもそも「女性」というカテゴリーがどれだけ自明なものとして存在しているかというのは、フェミニズムの分野でずっと議論されてきましたよね。今後、「エゴイメ・コレクティヴ」をはじめとしたジェンダーにフォーカスした活動が増えることで、「女性」がより繊細に問われ、男性作家と同様にその多様性に注目が集まるようになればいいと思います。
そうですね。いまの日本は、「男性」と「それ以外(女性や性的少数者)」の構図で、ニュートラルな視点=男性視点ということになってしまっていますよね。それぞれがその「ニュートラルな視点」を疑うようになればジェンダーの問題には変化が訪れると思いますし、「あいちトリエンナーレ2019」の芸術監督である津田大介さんがジェンダー平等を掲げ、「女性に下駄を履かせるのではなく、男性がこれまで履いてきた高下駄を脱いでもらう」と発言していたことは、その視点にも通じる意味あるものだと思いました。
個人的なことは政治的なこと
——「あいちトリエンナーレ2019」ではどのような作品を展示する予定ですか?
あいちトリエンナーレ出品のお話をいただいたのがちょうど去年の夏頃で、不妊治療を経て妊娠3ヶ月くらいだったんですね。その頃に考えていた生殖や生命倫理のテーマで現在制作を行っています。
——完全な新作になるんですね。
はい。手法としては、「shadow work」シリーズのひとつで、コイン状の刺繍の作品《shadow of a coin》に近い技法です。
あいちトリエンナーレのあとには、9月にアートと音楽のイベントの「アッセンブリッジ・ナゴヤ」で新作を発表する予定です。名古屋港周辺地域での取材をもとに作品をつくるというオファーをいただき、主催のMAT, Nagoyaと一緒に、女性と労働という切り口から取材を重ねてきました。名古屋大学には「ジェンダー・リサーチ・ライブラリー」という、女性学やフェミニズムに特化した図書館があるのですが、そこで資料を読んでいくなかで知った、1960〜70年代の「共同保育所運動」(*)をテーマとした作品を準備中です。
——現代の待機児童問題とつながる意識があったんですね。
そうなんです。実際に運動に関わっていた方々にお話を聞くことができて、とても面白いです。ただ、ふたつのテーマを並行して進めているので混乱しています(笑)。
——碓井さんのお話を聞いていると、「私たちが普通だと思っているものが、いったい誰の視点・視線なのか」ということに対する疑いみたいなものが一貫してあるように感じました。
意識して一貫性を持たせているわけではないですが、そういった外部の視線によってつくられる「こうあるべき」という考えに縛られてしまうと、そこに順応するか、もしくはそうなれない自分を否定するしかなくなってしまいますよね。それでは本当に生きづらいと思うんです。既存の構造を疑い、ひもといていくことで自分自身が楽になりますし、作品として発表することは社会にもなんらかの意味があることなのかなと思います。フェミニズム運動のスローガンに「個人的なことは政治的なこと」という言葉があるのですが、その意味をずっと意識しながら作品をつくっています。
*——戦後の高度経済成長期、「ポストの数ほど保育所を」という掛け声のもとで起こった運動。それら運動によって多くの保育所がつくられることになったが、80年代には専業主婦の増加により閉所する保育所も目立った。