櫛野展正連載「アウトサイドの隣人たち」:原体験から生まれた極小表現
ヤンキー文化や死刑囚による絵画など、美術の「正史」から外れた表現活動を取り上げる展覧会を扱ってきたアウトサイダー・キュレーター、櫛野展正。2016年4月にギャラリー兼イベントスペース「クシノテラス」を立ち上げ、「表現の根源に迫る」人間たちを紹介する活動を続けている。彼がアウトサイドな表現者たちに取材し、その内面に迫る連載。第61回は、サクラエビの髭を素材に絵画を制作する増田喜良さんに迫る。
赤い法衣を纏った達磨大師や青い背景が印象的なペルシャ猫の絵画。一見すると何の変哲もない作品に見えるかもしれないが、これらがすべてサクラエビの髭を素材に制作されたものだとわかったとき、大いに驚かされた。体長4cmほどの小さなエビであるサクラエビは、腹の部分に160個ほどの発光器があるため、夜の海ではキラキラと輝く。このことから「海の宝石」と呼ばれており、日本で唯一、静岡県の駿河湾だけに水揚げされる貴重なエビとして知られている。目を凝らして眺めてみると、モチーフの質感を再現するために、様々な長さの髭だけでなく、髭を粉末状にして使用するなど、髭があらゆる形態に加工して素材にされているようだ。
作者で静岡市在住の増田喜良(ますだ・きよし)さんは、こうしたサクラエビの髭を素材にした絵画を「海髭画(かいおうが)」と名付け、制作を続けている。増田さんは、1952年に3人きょうだいの長男として静岡県庵原郡由比町(現在の静岡県静岡市清水区由比)で生まれた。
「いまはバイパスと東海道本線、東名高速道路が交差して、駿河湾越しに富士山を眺望できる景色として有名になってますけど、昔は山と海に囲まれた自然豊かな場所だったんです。幼少期は、この由比の浜をしょっちゅう歩いていました。サクラエビ漁の翌日になると、天日干しされたサクラエビで河川敷一帯がピンク色に染まるんです。その向こうに見える雄大な富士山の絶景は、幼いながらも脳裏に焼き付いていましたね」。
子供の頃、干潮時になると岩礁地帯の溝や穴の中にあるサザエやアワビを拾い集めていた増田さんが、とくに夢中になったのは、海藻の中に混じって流れ着いた胡桃を収集することだった。胡桃の殻を石で割って食べるだけではなく、10歳ごろになると、その殻に彫刻を施すようになったという。いまでは、髑髏など精巧なモチーフも彫ることができるというから、昔から相当手先が器用だったのだろう。
「祖父が漁師だったんだけど、木彫りで七福神などをつくっては、床の間に飾っていました。家の蔵に、祖父の道具があったから、そこへ入っちゃあ見よう見まねで使い方を覚えていましたね」。
そんな増田さんは、中学の頃から趣味でイラストを描き始めた。部屋には以前に描いたというサイケデリック調の絵が飾られていたが、「とくに影響を受けた画家はいない」という。地元の工業高校へ進学した後も絵を描き続けていた増田さんは、小さい頃、地元の海岸を真っ赤に染めたあの光景を再現したいと、サクラエビの髭を使って絵にすることを考え始めたようだ。
「サクラエビの髭って捨てられてたんですよ。地元で採れるものだし、その髭を使って何かつくりたいと高校生のときに思いついて、20歳から5年ほど試行錯誤して試作してみたんです。加工方法などわかんないもんで、何点かできたんですけど、やっぱり思うようにはいかなくって、1年ほど経って額を開けると匂いが発生してしまいましたね」。
高校卒業後は、大手総合化学メーカーへ就職したが、「手先の器用さを活かした職に就きたい」とわずか1年足らずで退職。製版会社に転職し、商品パッケージのデザインや文字など様々なレタリング業務に携わった。やがて仕事部屋を借りて30歳ごろには独立を果たしたが、バブル崩壊や製版技術のデジタル化が進んだことで、需要が激減。40歳ごろには、運送会社へ転職し、貴重品運搬の仕事に従事した。
30歳の頃には、仕事の空き時間を利用して、生臭いにおいもせずカビも生えない作品を生み出すことができるようになり、精力的に作品制作を行うようになった。貴重品運搬の仕事は、日勤の仕事が多くて時間的にも余裕があったが、35歳からスランプに陥り、10年ぐらいは制作を中止していたという。そんな増田さんに、54歳のとき、突然転機が訪れる。
「2作目につくった『達磨』は経年劣化で色味が飛ばないか等を確かめるために、ずっと自分の部屋に飾っているんです。でも、そのあとに制作した3作目の『達磨』の存在は、すっかり忘れていました。ある日、偶然に箱の中から発見して、『こんな絵があったのか』と自分でも驚いてしまいました。絵の中の達磨が、睨みを利かせて『いつまでこんな暗い場所に置いとくんだよ』と力強く訴えてきたんです」。
職場の知人にこのエピソードを話したところ、皆が広報など協力してくれたこともあり、数ヶ月後には初めての個展が実現し、新聞やテレビを始め多くのメディアに取り上げられることができた。「達磨のお陰ですよ」と増田さんは感謝の言葉を口にする。以後、名刺にもこの達磨を採用するなど、まるで作品への恩返しをしているかのようにも思えてくる。
それにしても、「サクラエビの髭を使う」とひと口に言っても、作品が完成するまで、どんな作業工程が必要なのだろうか。増田さんによれば、まず加工業者から譲り受けた髭を水洗いして天日干しする作業を、真夏であれば3ヶ月以上かけて10〜20回ほど繰り返すのだという。この工程を繰り返すことで、次第にサクラエビの甲殻の中にある赤い色素は抜けていき、白くなっていく。洗い出しの過程では、髭だけでなくサクラエビ本体やゴミ等も混じっているため、ピンセットを使ってひとつひとつ選別しなればならない。ここでとれるサクラエビの殻や眼も貴重な材料となるため、大切に保管しておくようだ。そして、この分別作業が絵を描くよりも大変なのだと語る。その後は、透明になる特殊なボンドを絵筆で絵に塗ったあと、染め粉を使って着色を施した人の髪の毛より細いサクラエビの髭を1本1本慎重に重ねていく。髭の長さごとに選別したものを、ときには切ったり継ぎ足したりするようだが、髭が折れたり飛んで行ったりしてしまわないように作業中は息を止めなければならない。おおよそのアウトラインだけ描いて、あとは即興的に加工や修正を繰り返していくようだ。
「だんだん技術も向上してきたから、たとえば、以前につくった『マリリン・モンロー』を、あとから見返してみると直したい箇所が山ほどあることに気づいたんです。肉眼で見るとよくできているように見えるんですけど、テレビ番組などの精密なカメラで撮影された際には、生え際の部分など荒い部分などがクローズアップされるから、それが私には耐えられなかったんです」。
その後、増田さんは半年ほどかけて『マリリン・モンロー』の手直しを行ったが、今後はペルシャ猫の絵画も修正する予定だという。ひとつの作品を仕上げるのに2年半ほどを要するため、これまで仕上げた作品は約20点ほどだが、1点も販売したことはない。
「絵が生きてると思っているんですよ。必ず1年に1回は額から出して風通しをしてやんなきゃいけない。そのあと、額へ戻すときにも、傷つけないように配慮が必要なんですよ。それに、万が一壊れても、私じゃないと修復できないからね」。
誰に見せるわけでもなく、自室の中で、ただ自分と向き合いながら制作に打ち込んでいく。同様のことをやっている仲間もいなければ、もちろんライバルだっていない。増田さんは、そんな孤独な制作をずっと続けてきた。途中で何度もやめることを考えたが、新たな画材や技法を発見するたびに、苦労が報われたような気持ちになり、再び制作へ駆られていった。幼少期の原体験が、五感を通して心象風景として心の奥に投影され、増田さんの人生に大きな影響を与えていることは疑いようのない事実だが、「その光景を再現したい」という衝動は「芸術」であったからこそなし得た「術」だったのだろう。
「また個展をしたいんだけど、作品点数が少ないから、全部同じものを見せなきゃいけないんですよね。過去には、制作途中の絵を出展したこともあったけど、自分じゃ恥ずかしくてね。まぁ、こんな珍しいものを扱っている人間がいたってことを、みんなの記憶に刻んでくれればいいかな」。
飄々とした語り口で増田さんはそう話す。こんな壮大な人生を賭けた極小の変わり種の表現を、世間は果たしてどう評価していくのだろうか。光の届かない深海で遊泳するサクラエビのように、増田さんの表現も無限の深海を未だ漂い続けている。