2017年展覧会ベスト3
(美術家、美術批評家・黒瀬陽平)
数多く開催された2017年の展覧会のなかから、6名の有識者にそれぞれもっとも印象に残った、あるいは重要だと思う展覧会を3つ選んでもらった。今回は美術家、美術批評家・黒瀬陽平編をお届けする。
|ミュシャ展
(国立新美術館、2017年3月8日〜6月5日)
近代都市文化の申し子であるミュシャが、最晩年に手掛けた民族神話の一大叙事詩。「神話」「叙事詩」という前近代的なモチーフを描くにあたって、いわゆる「近代絵画」ではないミュシャのイラスト的画面構成が功を奏していると思えば、一方で、近代絵画をスキップしていることによる空間の平板さ、凡庸さもあり、それらの混在は目眩を誘う。現代の日本で言うなら、愛国心に目覚めたネットの神絵師が古事記をテーマに巨大絵画を描いたようなものであり、その意味で本展は、私たちにとって「予言的」ですらあったのかもしれない。
|地獄絵ワンダーランド
(三井記念美術館、2017年7月15日〜9月13日)
周知のように、今年は恵心僧都源信の1000年忌であった。源信1000年忌を記念して、地獄をテーマにした展覧会が多数開催されたが、一番の目玉であったはずの「源信展」(奈良国立博物館)が意外と平凡で肩透かしだったのに比べ、本展は出色の出来であった。地獄とは現実の映しであり、現実が変われば地獄も変わる。その意味では「浄土」の表現よりも地獄の表現こそ、我々の想像力を刺激するものであるはずだ。本展は、現実そのものがますます地獄に近づきつつある現在、地獄の想像力を見直すための良い機会を提供してくれていた。
|高山明「ワーグナー・プロジェクト」
(KAAT神奈川芸術劇場、2017年10月20日~28日)
「劇場にストリートを持ち込み、劇場を解体する」という触れ込みだったが、実際にはその逆で、むしろ「すべては演劇であり劇場である」という宣言であったように思う。そのうえで、とりわけ印象に残ったのは「教育」というテーマの大きさである。本公演の核はあきらかに教育であり、教育という制度やモデルに対するきわめてラディカルな解体作業が行われていた。教育の解体は、劇場の解体に先行する。劇場で粛々と行われる教育(演劇)の解体が、いつの間にか現実世界に対するアレゴリーに組み上がってゆく様子は大変スリリングだった。
昨年同様、個人的にワースト3も挙げておくと、まずは「ヨコハマトリエンナーレ2017」。これまでのヨコトリは、良かれ悪しかれ日本を代表する国際展として、エッジの立ったキュレーションを目指していた痕跡が見えていたのだが、今回で一気に崩れた。「キュレーションの放棄」とも呼ぶべき状態だった今回は、今年のワーストであると同時に、ヨコトリ史上のワーストでもあるだろう。続いて「アジア回廊 現代美術展」。行政主導の国際交流文化事業、あるいは地域アートの失敗を煮詰めたような展覧会。建前だけを並べたテーマはあってないようなもので、二条城というロケーションもまったく活かされず、動員数稼ぎだろうと思われても仕方ないような状態であった。なにより痛ましかったのは、ハム・キョンアやヘ・シャンユのような国外作家の優れた作品が、杜撰なキュレーションの犠牲になっていたことである。この手の国際展に対して、「毒にも薬にもならない」という批判はよく耳にするが、本展では、中原浩大のように地元で神格化された作家が、のびのびと駄作を披露しているのに対して、よく考えられた良作を出品した作家が犠牲になる、という「毒にしかならない」企画であった。最後は「ソーシャリー・エンゲイジド・アート展」。詳細の説明は省くが、展覧会を批評されたこと自体に異議申し立てをするという前代未聞の展開で、結果的に「ソーシャリー・エンゲイジド」とは一体なんだろうか、と深く考えさせられる展覧会であった。