ファーレ立川の岡﨑乾二郎作品の撤去問題とはなんだったのか
撤去から一転、保存へと方針が転換されたファーレ立川にある岡﨑乾二郎の作品《Mount Ida ─イーデーの山(少年パリスはまだ羊飼いをしている)》(1994)。美術評論家連盟による保存の要望書を起草したひとりである東京大学教授の加治屋健司が、この問題を振り返る。
昨年10月、ファーレ立川にある岡﨑乾二郎の作品《Mount Ida ─イーデーの山(少年パリスはまだ羊飼いをしている)》(1994)が撤去される計画が報じられた(*1)。今月12日、美術評論家連盟(以下、美評連)は、作品の保存に関する要望書を立川市長と株式会社高島屋代表取締役社長に送り、後日文面を公開した(*2)。私は、一会員として美評連に共同意見の提出を提案し(美評連は、会員であれば誰でも共同意見の提案ができる)、5人の起草者のひとりとして要望書の文面作成に携わった(*3)。以下では、要望書に盛り込めなかった論点も含めて、私自身の考えを示しつつ、岡﨑作品の撤去問題を考察したい。本稿はもともと、撤去の撤回を訴えるために書いていたが、本サイト等で報じられたように、髙島屋は作品を保存する方向に方針を転換した。高島屋の判断に感謝しつつ、今後の議論に資するために、問題の前提に対する説明を含め、撤去問題とはなんだったのかを振り返りたいと思う(*4)。
ファーレ立川の特徴とは何か?
1994年に竣工したファーレ立川は、日本を代表するパブリックアートである(*5)。パブリックアートは、公共空間や商業施設などに単体または少数が設置されることが一般的であり、多数設置される場合でも公園に置かれることが多いのに対して、ファーレ立川は、商業施設が立ち並ぶ市街地に多数の美術作品を設置している。町全体に多くのパブリックアートが設置されている事例は世界的には珍しくないが、それが1人のアート・プランナーのディレクションによって行われた点に特徴がある。
アート・プランナーである北川フラムは、ファーレ立川の計画に際して、「世界を映す街」「ファンクション(機能)をフィクション(美術)に!」「驚きと発見の街」の3つをコンセプトに掲げている(*6)。南條史生がアートコンサルタントを務め、ほぼ同時期に設置された新宿アイランドアート計画が、ダニエル・ビュレンヌ、ロバート・インディアナ、ソル・ルウィット、ロイ・リキテンスタインなど西洋の白人男性作家を中心に選んだのに対して、ファーレ立川は、著名な西洋の白人男性作家や日本の男性作家が多いものの、アジアや中南米、アフリカ、旧共産圏の作家にも目を向けており(*7)、時代的には「大地の魔術師たち」展(1989)で示された多文化主義の流れを汲んでいると言える(*8)。
また、ファーレ立川は、美術作品を都市計画の基盤に組み込んだ点にも特徴がある。ファーレ立川の作品の多くは、車止め、ベンチ、換気口・換気塔、看板、街灯などの機能を持っている。これは、1980年代に米国で盛んとなった機能主義的なパブリックアートの流れを汲んだものと考えられる。そもそも、米国で1960年代半ばから70年代半ばにかけて設置されたパブリックアートの多くは、美術館やギャラリーに展示されている抽象彫刻の拡大版であり、物理的にアクセスしやすい点を除けば「パブリック」とは言えないものであった(*9)。それに対する反省から、1980年代になると、美術家は建築家や都市計画家とともに公共空間のデザインに関わるようになったのである(*10)。
他方、日本でそれまで主流だったのは公共彫刻設置事業であった。それは、場所の文化的な価値を高め、都市環境の整備に寄与するいっぽうで、テーマが不明確で、設置場所の性質とほとんど関係のない作品も多く見られた(*11)。1980年代に日本にパブリックアートがもたらされると、こうした公共彫刻設置事業に対する反省から、機能主義的なパブリック・アートに関心が集まった。ファーレ立川は、それを一定の規模をもって実現させたものであった。
ここで重要なのは、ファーレ立川にあるすべての作品が機能を持っているわけではないことである。アニッシュ・カプーアやクレス・オルデンバーグなどの作品は、この場所の都市機能に合わせて制作されたものではなく、彼らの代表的な連作のひとつを持ち込んだものである。例えば、オルデンバーグの《ストローク付きのリップスティック(M.M.に)》は、1967年にシドニー・ジャニス画廊で開かれた「マリリン・モンローへのオマージュ」展に出品された作品である(*12)。中原佑介は、ファーレ立川において、機能を持つ作品と持たない作品が混在していることに注目した。それは、機能を持つと同時に美術でもあるという作品の両義性を増大させ、作品のさらなる読解を誘発するからである(*13)。
そして、機能を持つ作品であっても、作家がそうした要請を踏まえつつ、それにとどまらない作品をつくり上げている場合も少なくない。岡﨑の作品はその重要なもののひとつである。
岡﨑の作品については、作家本人の文章がいくつかあり、本件に関する作家のコメントの中にも作品説明がある(*14)。以下は、あくまでも私個人の解釈であることに留意されたい。
《Mount Ida ─イーデーの山(少年パリスはまだ羊飼いをしている)》が表すもの
髙島屋の西側壁沿いにつくられてた岡﨑作品は、青、赤紫、黄緑、薄橙に塗られた金網とそれに囲まれた植栽からなっており、緩やかな曲線からなる4つの立体が組み合わさって、6つの換気口を覆っている。金網の内側で生い茂る植物の中には、夏蜜柑の木のように金網から飛び出ているものもある。壁面を背景とし、全体としてなだらかな丘陵のような形状をしている本作は、同じく壁面を背景としたギリシア建築のペディメントの形式を参照している。題名は、パリスの審判やそれが引き起こすトロイア戦争が起こる前のイーデー山を指しており、争いの予兆を意味している。
金網は、人間の侵入から自然を守り、鳥や動物たちの空間をつくり出している。岡﨑は、「フェンスに囲まれた中の空間は(立川の市民が大切に、守ってきた)誰にも侵されることのできない(忘れてはいけない)場所の尊厳を象徴」していると述べている(*15)。岡﨑は、ゆめおおおかアートプロジェクトにおける《谺の原っぱ》(1996-1997)や、「おとなもこどもも考える ここはだれの場所?」展(東京都現代美術館、2015)における企画「こどもにしか入ることのできない美術館」などのように、様々な主体が棲まう自律した領域を設定し、それぞれの領域の異なる時間や空間を示しつつ、領域間のズレや干渉を考察した作品を発表しており、本作もそうした岡﨑にとって重要なテーマを追求したものと考えられる。さらに岡﨑は、機能主義的なパブリックアートに抗して《傾いた弧》(1981)を制作したリチャード・セラのように、場所の形式的特徴だけでなく、社会的・政治的特徴も考慮に入れて制作している(*16)。それは、ファーレ立川が米軍基地跡地にできたこと、そこで住民による自分たちの土地を守る運動があったことを参照している。ファーレ立川において、岡﨑作品は立川の歴史を参照した数少ない作品のひとつである(*17)。
また、本作を構成する複数の立体は、ひとつの直方体を分割してねじるなどの操作を加えてつくった形である。曲面の接合面を持つ本作品は、様々な接合可能性を考えさせるものであり、同時期の岡﨑の彫刻に通じている(*18)。さらに、正面から見て左奥の薄橙の立体と、右手前の赤紫、青、黄緑からなる立体は、90度回転させてできた同じ形である。これは、作品設置の時点では実現していなかった高架鉄道の多摩モノレールが将来できることを見越して、地面からの眺めと上空からの眺めを想定したものである。ここで参照されているのは、ミュンヘンのグリュプトテークにある彫刻群(エギナ島アファイア神殿の彫像)である。その彫刻群について岡﨑は、「同じ像を、180度回転させてその前後から見た姿を左右に配置し、片面から同時にひとつの像の両面が見えるような効果を作り出した」と述べており、2つの視点を組み込んだ彫刻構成を踏襲している(*19)。
多摩モノレールは1998年に開通し(*20)、IKEA立川が2014年春、ららぽーと立川立飛が2015年冬、GREEN SPRINGSが2020年春にオープンした。それまで裏手だった髙島屋西側は、サンサンロードとして新たな都市軸になった。岡﨑作品は、こうした状況の変化を予測して立川の新たな都市軸を示した優れたパブリックアートなのである。
撤去問題が提示したもの
ファーレ立川は、設置当初からメンテナンスについても考慮した取り組みであった。作品の維持管理システムを確立し、109点の作品すべてについてメンテナンスシートを作成し、日常的な清掃、年1回の定期点検・清掃、5年毎のリニューアル方法などについて定めている。作品の保存については、「建物の改築・解体の際にそこに設置された美術作品をどうするかについては、所有者の一方的な判断で作品の保存・撤去が決定されることを避けるために、所有者と作家とプランナーの三者が話し合って決定する」(*21)としており、髙島屋、岡﨑、アートフロントギャラリーの三者が話し合うことになっているが、福永信が指摘するように、この話し合いは機能不全を起こしていたように思われる(*22)。ファーレ立川の計画を担い、その意義を知るアートフロントギャラリーの担当者は、オブザーバーとして話し合いに参加するのではなく、建物の改装における作品の在り方について、作家の立場を理解して美術の側から関与する必要があったのではないだろうか。そして、岡﨑が明らかにしたように、髙島屋のグループ会社が、改装計画のために作品を撤去することを一般に公表せずに進めようとしたこと、そして、改装計画の概要を示す書面を提示せずに、作品の撤去計画は避けられないとして作家の同意を無理に得ようとしたことも、手続き上問題があったと言わざるをえない。
要望書に記したように、ファーレ立川の作品群は、立川市の文化振興計画における「まち全体が美術館」構想の中核であり、重要な文化遺産となっている。今回は撤去される前に計画が明るみに出て保存を求める声が挙がったために、かろうじて難を逃れた。だが、都市が同じ姿にとどまることはなく、再開発や建物の改装・改築・解体は今後も行われるだろうし、それに伴い美術作品の保存と撤去は再び問題になるはずである。その際に、計画に関する情報を開示せずに、一方的に撤去を進めるのではなく、作家や美術関係者、そして作品を享受してきた市民に情報を提示したうえで議論を深めて、作品を未来につないでいく方法を考えるべきである。今回の一件は、まさに岡﨑作品の題名が示した通り、これから起こりうることへの予兆であったのかもしれない。今回の件を重要な問題提起として、公共空間における美術作品、さらには公共空間そのものについての議論を深めていければと思う。
*1──福永信「ファーレ立川の岡﨑乾二郎作品の撤去について」(2022年10月23日) REALKYOTO FORUM(2023年1月15日閲覧)。その後福永はこの問題について『群像』にも本件に関する論考を発表している。福永信「ファーレ立川の岡﨑乾二郎作品撤去とパブリックアートの未来」『群像』(2023年1月)、228-235頁。複数の関係者に取材したうえで経緯や問題点を明らかにした福永の論考がなかったら、多くの人が問題に気づかず、声をあげることもなく、作品が撤去されていたかもしれない。福永さんの問題提起に敬意を表します。
*2──「岡﨑乾二郎氏《Mount Ida ─イーデーの山(少年パリスはまだ羊飼いをしている)》保存に関する要望書」(2023年1月12日) 美術評論家連盟 (2023年1月15日閲覧)。
*3──本稿を執筆するにあたって、岡﨑乾二郎さんには多くのことをご教示いただきました。そして、起草者の沢山遼さん、成相肇さん、松浦寿夫さん、薮前知子さんからも様々なことを学びました。ここに深くお礼を申し上げます。
*4──今回私が提案者となった大きな理由として、2018年に、私が勤務する東京大学で宇佐美圭司の絵画が本郷キャンパス・中央食堂の改修工事の際に廃棄される事件に直面したことが挙げられる。私も報道で事件を知り、その後、学内の現代美術の研究者として大学の調査や対応に協力して、シンポジウムや展覧会を企画した。その際、美術作品の廃棄が人々の心に深い傷を残すということを実感した。事件の概要とその後の大学の対応については、以下にまとめた。三浦篤・加治屋健司・清水修編『シンポジウム「宇佐美圭司《きずな》から出発して」全記録』(東京大学、2019年)、加治屋健司編『宇佐美圭司 よみがえる画家』(東京大学出版会、2021年)。
*5──ファーレ立川の概要については、木村光宏・北川フラム監修『ファーレ立川アートプロジェクト 都市・パブリックアートの新世紀』(現代企画室、1995年)、『別冊太陽 パブリックアートの世界 アートの妖精が棲む街ファーレ立川』(平凡社、1995年)、北川フラム『ファーレ立川パブリックアートプロジェクト 基地の街をアートが変えた』(現代企画室、2017年)を参照のこと。本サイトでも、小田原のどかが、ファーレ立川の設置の経緯や概要、芸術祭との関係について論じている。小田原のどか「公共彫刻から芸術祭へ:到達/切断地点としての「ファーレ立川」」(2019年10月31日)ウェブ版美術手帖(2023年1月15日閲覧)。
*6──北川フラム「アート計画のコンセプト」『ファーレ立川アートプロジェクト』、221頁。
*7──註5の小田原の論考およびアピナン・ポーサヤーノン「コンクリートの森にパブリック・アートを」(『ファーレ立川アートプロジェクト』、136頁)を参照。なお、新宿アイランドアート計画には女性作家は選ばれておらず、ファーレ立川の女性作家は1割であり、どちらも男性作家を中心に選んでいる。
*8──『ファーレ立川アートプロジェクト』の作品紹介のページは、作家の出身国が世界地図上に記され、いかに世界各国から作家が参加したかが示されているが、これは「大地の魔術師たち」展のカタログを参考にしていると思われる。ただし、「大地の魔術師たち」展のカタログのこの図示は、作家の活動を固定的にとらえるものとして後に批判された。Johanne Lamoureux, “From Form to Platform: The Politics of Representation and the Representation of Politics,” Art Journal 64, no. 1 (Spring 2005): 72.
*9──Miwon Kwon, One Place after Another: Site-Specific Art and Locational Identity (Cambridge, Mass.: MIT Press, 2002), 60.
*10──機能主義的なパブリックアートについては、註9の文献の他に以下を参照。工藤安代『パブリックアート政策 芸術の公共性とアメリカ文化政策の変遷』(勁草書房、2008年)。
*11──この点については以下で論じた。加治屋健司「地域に展開する日本のアートプロジェクト 歴史的背景とグローバルな文脈」藤田直哉編著『地域アート 美学/制度/日本』(堀之内出版、2016年)、95-133頁。
*12──同展のカタログに掲載されているのは、《巨大なリップスティック(M.M.のための天井彫刻)》(Giant Lipstick (Ceiling Sculpture for M.M.)(1967年)という題名の作品である。以下を参照。Homage to Marilyn Monroe (New York: Sidney Janis Gallery, 1967). 1969年にニューヨーク近代美術館で開催されたオルデンバーグの展覧会のカタログには、写真入りで同名の作品が紹介されている。Barbara Rose, Claes Oldenburg (New York: Museum of Modern Art, 1969), 110.
*13──中原佑介「美術と機能のあいだ」『別冊太陽 パブリックアートの世界 アートの妖精が棲む街ファーレ立川』(平凡社、1995年)、72頁。
*14──岡﨑乾二郎「無題」『ファーレ立川アート通信』4(1994年9月)、28-31頁、同「無題」『ファーレ立川アートプロジェクト』、152頁、同「Mount Ida─イーデーの山(少年パリスはまだ羊飼いをしている)撤去問題について」(2023年1月15日閲覧)。最初の文章はファーレ倶楽部のサイトにある作品説明に再録されている。2つめの文章は署名がないが、本人に自分が書いた文章であることを確認した。ほかにも、「岡﨑乾二郎×中村麗 インタビューより」『岡﨑乾二郎』(BankART1929、2014年)や、註19の文献でも言及されている。
*15──岡﨑「Mount Ida─イーデーの山(少年パリスはまだ羊飼いをしている)撤去問題について」
*16──Kwon, One Place after Another, 74.
*17──私は註11に挙げた論考で、ファーレ立川が砂川闘争の舞台にもなった米軍基地跡地に建設されたことや、その事実に言及した展示作品はないと書いたことがあったが、それは不正確であったので、ここで訂正したい。岡﨑のほかにも、長澤伸穂の《トンボヒコーキのメッセージ》が、トンボの古名にちなんだ名(秋津島)を持つ日本の歴史だけでなく、陸軍や米軍の飛行場があった立川の歴史を参照している。長澤伸穂「トンボヒコーキのメッセージ」『ファーレ立川アートプロジェクト』、155頁。
*18──『岡﨑乾二郎 視覚のカイソウ』(ナナロク社、2020年)、74頁。
*19──岡﨑乾二郎「彫刻の支持体」『武蔵野美術』107号(1998年1月)、63頁。
*20──1998年に開通したのは上北台駅—立川北駅間である。立川北駅—多摩センター駅が延伸開業したのは2000年である。
*21──北川『ファーレ立川パブリックアートプロジェクト』、32-33頁。
*22──福永「ファーレ立川の岡﨑乾二郎作品撤去とパブリックアートの未来」、230-231頁。