2019.10.4

SNS時代に崩れる「美術館の壁」。いまこそ「公共」の議論を

「あいちトリエンナーレ2019」では、脅迫FAXや事務局の処理能力を超えた電凸などが一因となって、「表現の不自由展・その後」が展示中止へと追い込まれた。また、SNSでは作品の一部のみが切り取られ拡散されるという状況も見られた。このような時代において、国際芸術祭や美術館はどのようなリスクヘッジを取るべきなのか? また美術館の「公共性」とはどうあるべきなのか? 「あいちトリエンナーレのあり方検証委員会」で委員を務めた青山学院大学客員教授・岩渕潤子に話を聞いた。

聞き手=編集部

「あいちトリエンナーレ2019」で閉じられていた「表現の不自由展・その後」展示室へと続く扉
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崩れる美術館の「壁」

──岩渕さんは「あいちトリエンナーレのあり方検証委員会」(9月25日から検討委員会)の委員を務められています。そこでまず、今回の「あいちトリエンナーレ2019」で様々な意見が出た、国際芸術祭や美術館の「公共性」についてお話をうかがいたいと思います。

 まずアメリカでは、「一般の公共空間と美術館は違う」という前提は不動である、という認識があります。要するに、芸術作品を見るための公共空間が美術館なので、それは駅や商業施設やホテルや企業のロビーとは異なる、ということです。だから作品が専門家によって認められ、美術館で展示されている以上、それは何を以ても侵すことはできないという考え方があるわけです。

 少なくとも芸術作品とされているものが、美術館外部から──宗教、人種や政治信条に基づいて──抗議された場合、美術館は作品や作家、企画者を守る義務があるという認識があり、メディアもそれを擁護するという不文律があるのです。いままで私もそういう認識のなかで芸術を語ってきました。

 しかし今回の「あいちトリエンナーレ2019」の件を見て、公共空間が閉じられたものではなくなってきているのではないかと強く感じました。いままで美術館は閉じられた空間だったので、特定の目的を持った公共空間としての絶対的な定義ができていたのですが、いまは美術館の壁から展示が「情報」として流れ出てしまっているような状況です。

 アメリカの美術館ではもともと、展示室で模写をしたり、三脚を立てなければ写真は撮ってもいいというルールがありましたが、約10年ほど前から、美術館の広報に利するからという理由でSNSのシェアを──来館者の性善説に立って──どんどんやってくださいと言ってきた。それが、おそらく2016年(前回の大統領選)あたりから変わってきている。悪意を持った人たちから公共空間が守りきれなくなっています。そして今回(あいちトリエンナーレ)のようなことがあり、美術館を標的にしたテロみたいなものが、SNSを使って起こし得ると痛感しました。表現の自由に対する攻撃という意味でも、ソフトテロ的な、特定の意図を持った個人の集まりが作品の意図を捻じ曲げて伝えるようなことができるようになってしまったんだなと。

 SNS以前は、限られたメディアだけが美術館の意図をその通りに伝えていましたが、明らかに今回はそういう時代ではなくなったことが露呈した。美術館の壁が崩れ、美術館が美術館の力だけで作家やキュレーターや観客を守ることができない時代になったと強く感じます。いままで、海外の国際展や特定の美術館がテロの標的になったことは幸いにもありませんが、今後、美術館が物理的なテロの対象になりうるかもしれないという恐怖を実感しています。

集積リスクとしての美術館

──物理的なテロへの対策は、海外のほうが先進的だと感じますが、実際はどうなのでしょうか?

 例えばアメリカ国防総省とナショナル・ギャラリーは、ポトマック川を挟んで目と鼻の先です。2001年のアメリカ同時多発テロ事件のとき、美術館関係者は「美術館が被害を受けなくてよかった」という話を(大きな声では言えないけど)していました。なぜなら、レンブラントやフェルメールの作品が吹き飛んでいたら、そのダメージは計り知れない。

 そのとき、「美術館は集積リスク」という話になったんですね。例えばナショナル・ギャラリーではプレスは裏口から入りますが、展示室にたどり着くまでの間、広報スタッフと銃を持ったセキュリティがエスコートするんですよ。途中の経路の写真は絶対撮ってはいけない。国賓や大統領が来館する際のルートが流出しないようにです。もちろん図面も機密。アメリカではつねに臨戦体制なんです。カメラマンがボールペンを取り出そうとしてバッグの中に手を入れただけでも飛びかかられそうになる。

 またマリブにある美術館「ゲッティ・ヴィラ」では、山火事に備えた避難訓練などもありましたが、本体の美術館があるセンターの方ではそれ以上に、紛争地帯から来る郵便物などをチェックするためにホワイトハウスと同じ毒物検知器や、空港と同じ爆発物探知機、車の突入を防ぐバンカーなどが導入されています。

ナショナル・ギャラリー 出典=ウィキメディア・コモンズ
(Miguel Hermoso Cuesta - 投稿者自身による作品, CC 表示-継承 3.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=31444906による)

──それと比較すると、日本の美術館のリスクヘッジは自然災害が中心です。

 テロ対策はこれから意識していかなくてはいけません。例えば浸水した資料をどのようにとりあえず保護するかとか、そういう自然災害については、ICOM(国際博物館会議)が定めている基準などがある。しかし、テロ対策の話は日本ではほとんど出ていない状況です。

 ヨーロッパではとくにそうですが、第二次世界大戦をはじめとする戦争で、美術館や図書館が多くのものを失った経験から、「作品は一度失われてしまったらそれきり」という認識が強い。だから欧米では、キュレーターや警護担当は「命をかけて作品を守る」くらいの使命感があります。

 例えば以前、大英図書館が引っ越した後の地下3階の最新鋭の収蔵庫に入る機会があったのですが、同意書にサインをさせられるんです。「この図書館の収蔵庫は火災が発生すると酸素が〇〇分で遮断されます、もしあなたが人の介助が必要な場合でも誰も助けにきません。死ぬ恐れがあります。それを理解して入ります」と。文化財を守る美術館や博物館の真剣さってそれくらいなんですよ。スタッフはそういうことを理解したうえで働いている。日本とは大きく違います。

──その態度はなかなか日本では理解されないかもしれません。

 理解されないというより議論の対象にさえされないですよね。世界のスタンダードではそういう議論がされている、というところから周知していかないと。「あいちトリエンナーレ」のことも、国際芸術祭は美術館に準じるものである、という前提から話をしなくてはいけない。「美術館というものは本来特定の目的を持った公共の施設で、そこで展示されているものは芸術作品という前提で、それゆえに表現の自由が守られる」という話をしないと、民主主義の先進国とは思われななくなる可能性があります。そしてそう感じた海外のアーティストから、日本は作品を貸し出してもらえなくなる可能性がある。そういう議論を広くしていかないといけない。

議論が足りない日本

──議論がなされていない背景には、日本における国際芸術祭の歴史が世界と比べると浅いことも関係しているのではないでしょうか。

 日本の国際芸術祭は「地域芸術祭」と言い換えることもできますよね。要するに、地域おこし的な文脈が強いために、できるかぎり地域の人が楽しく参加できることが大事だと言う人たちがいる。そこの部分が海外の国際展とはかなり違います。

 世界の国際展はヴェネチア・ビエンナーレやドクメンタをもとに設計されているものが多いので、少なくとも「芸術のレベル」だけを心配していればいいのに、地域の祭りだと言われてしまうと...…。「社会にインパクトを与える作品を見せ合って競う」というところが理解されていない。それは地域の芸術祭が乱立した結果とも言えるでしょう。

──国際芸術祭の制度を再設計する時期にきているとも考えられます。

 「あいちトリエンナーレ」や「ヨコハマトリエンナーレ」を続けるにあたって、それはちゃんとやっていかないといけない。自治体がお金を出すことによって、複雑な構造になっていることがわかりました。お金を動かすのにも独特なプロセスを経なくてはいけない。現行法上で国際芸術展をやろうとすると齟齬が生まれてしまう。いままでそれを無理してやってきたわけですよ。本来、独立した機関が運営する方がいいのではないかとも思いますが、そうすると今度は予算が毎年定期的に出てこない可能性がある。

──「あいちトリエンナーレ2019」では、税金が投入されていることを批判する声も上がりました。

 日本では「そもそも公共とは何か」という議論がないわけですよ。戦後の新憲法のもとでもその議論はしてこなかった。

 良い例なのは、ニューヨーク公共図書館。この図書館は私立の3つの財団が共同して運営しているのに、なぜ「公共」と呼ばれるのかということが日本人にはわかりにくい。アメリカでの「公共」は「we」であり「our」です。ニューヨーク公共図書館は「公立」だからではなく、自分たち(we)が使うものだから「公共図書館」と呼ばれているのです。日本にとって「公共」は国や自治体=theyだから「their」。

ニューヨーク公共図書館 出典=ウィキメディア・コモンズ
(Diliff - 投稿者自身による作品, CC 表示 2.5, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=533750による)

 国や自治体が関わっていないと立派ではないみたいな考え方が日本にはありますが、アメリカ人にはそれがない。全米芸術基金(全米最大の芸術支援を行う連邦政府の独立エージェンシー)ができたときでさえもアーティストからは反対がありました。国が個人的な芸術活動に対して助成金を出すということは、どうしても表現の自由に介入することになると。

 ですから、美術館などでも全米芸術基金から入ってくるお金の比率に規制をかけていて、お金の流れが止まってしまったときのリスクヘッジをしているわけです。議論のスタート地点が非常に異なります。

 日本では、美術と政治がかけ離れたものだと思いたい人がすごく多いと、今回の件で強く感じました。「政治をアートに絶対に入れないでくれ」と思っている人たちが多すぎる。しかし、2000年代以降の世界の芸術祭・国際展で政治がテーマになっていないものなんてほとんどないんですよ。いまでは国際展が、地球規模の問題へ目を向けるためのプラットフォームになっている。

 そんななかで、日本だけが「政治的なメッセージを持つ作品はプロパガンダ」だと括られてしまうというのはおかしいですよね。作品は政治的なメッセージを持っているというのがニュートラルな解釈で、「プロパガンダである」と主張している人たちは、それぞれの極に触れていると言えます。意見を持つのは結構ですが、見る機会やアーティストが展示する機会を奪うというのは、その場が国際芸術祭であり、美術館に準ずる場所である以上許されないということを忘れてはいけません。

──文化庁が「あいちトリエンナーレ2019」に対して、補助金を不交付とした決定にも大きな反対の声があります。

 文化庁が補助金の不交付について、採択を決定した委員会に諮ることなく通知したことは異常事態だと思います。問題はあいちトリエンナーレの検証というレイヤーとはまったく異なる次元に移りました。これはシンプルに権力による表現の自由への介入、恣意的な検閲であるということです。今後の展開を注意深く見守りながら、補助金不交付の撤回を求めていくべきでしょう。