昭和の東京を描いた超絶技巧の水墨画 山口英紀インタビュー
一見すると写真にしか見えない山口英紀の水墨画。古典絵画の手本の代わりに、写真をかたわらに置き、それを筆で模写する山口に、インタビューを行った
──今回の個展会場には、様々なサイズ、形状の画面の作品が並んでいます。どういったテーマの作品なのでしょうか。
今回の個展は、3本柱で構成しています。ひとつ目は、会場である髙島屋さんから昭和時代の髙島屋の写真資料をお借りして描いた作品です。ふたつ目は、昭和25(1950)年から昭和41(1966)年までの年賀はがきの上に、小さな水墨画の作品を貼り込んだ「追懐」という名前のシリーズ。三つ目は、取り壊し前の国立競技場とその周辺の風景を描いたものです。
──「追懐」シリーズで年賀はがきを使用しようと思ったきっかけは?
はがきは知人から譲り受けたものです。年賀はがきなので、それぞれのはがきに年号が入っています。年号ごとに通常のものと寄附金付のものとの2種類を用いています。寄附金付はがきがない年もありますが。
この年賀はがきの一連の年号とリンクする作品を描きたいと思って題材を探していました。そんなときに、東京都庁生活文化局が保管している昭和の写真資料のことを知ったんです。それで、はがきの規格が変わる昭和41年までを一つのシリーズとして揃えようと思いました。会場のこの一番長い壁面を全部はがきの作品にしたいな、と。
──マッチ箱くらいの小さな画面に緻密に風景が描かれていますね。
この東京の古い街並みは、東京都庁生活文化局に申請し提供していただいた写真をもとに描いています。たとえば昭和32(1957)年の年賀はがきに描いているのは、昭和31年に撮影された写真をもとにした作品です。年賀はがきは、前年に発行されるものですから。その上に、自分の落款(らっかん)とともに「東京都文化局提供」という文字を、これも自分で篆刻(てんこく)した印で押しています。
──作品のもととなる写真資料は、どのような基準で選ばれたのですか?
東京都が管理している公的史料ですので、その年に開通した交通機関の写真などが比較的多くなりました。とくに昭和30年代は、東京オリンピックの開催に合わせて、鉄道やバス路線の開通が相次いだので。当時の乗り物のデザインをかっこいいと思ったんですよね。私にとっては生まれる以前の風景ですが、リアルタイムで過ごされた方は、懐かしいかもしれません。あとは、4歳の息子が乗り物がすごく好きなので、その影響はあるかもしれません(笑)。
──日本橋髙島屋の外観を描いた作品《歳月はまぶしかりけり》は、画面が三つに分かれています。ソフトフォーカスの写真のようですが、そのフォーカスのポイントが各画面で異なっていますね。
向かって右が1950年代の日本橋髙島屋の外観の写真をもとに描いたものです。中央が1985年頃、そして、左が2015年の現在から2、3年後の設定です。新館の完成予想図をいただきまして、それを参考に現在の髙島屋の奥に新館の建物を描きました。髙島屋の建物(1933年竣工、重要文化財指定)自体はほとんど変わっていないんですが、道路の電柱の形だとか、横断歩道の形や、そこを歩いている人の服装で、なんとなく時代がわかって面白いので、時代性を表すモチーフに焦点を合てて描きました。
──国立競技場とその周辺の風景をパノラマの画面で描いた作品《七里香》《九里香》ですが、このタイトルは、どういう意味でしょうか?
国立競技場の取り壊しの前に、今回の個展の開催が決まっていたので、都庁の展望台へ競技場の写真を撮りに行きました。そうしたら、競技場を中心にして、ビル群と緑の多いエリアが左右で比較的はっきりと分かれていたんです。それで、左右二画面で展開する画面構成にしました。タイトルも左右で対になるように。「七里香」は沈丁花(チンチョウゲ)、「九里香」は金木犀(キンモクセイ)、それぞれ春と秋を代表する香り高い花木を意味します。
──この国立競技場を描いた作品と、さきほどの髙島屋の作品とは、ぼかしの感じが違いますね。
競技場の風景は、他の風景に比べて、高い場所から俯瞰している分、人の気配がまったくない風景なので、無機質な空間が表現できたかなと思います。遠景のぼかしの部分は、中国・桂林の風景を描いた水墨画にも、こんな感じの遠近感のものがありますね。林立するビルも、桂林の山の感じに似ていると言えば、似ているかも知れません。
油絵の顔料は、被写体の存在感を出すのに非常に向いています。それに比べると、墨の黒は、物質感を出すにはやや弱いと思います。かわりに、空気感を表現するには、墨はベストの素材だと私は思っています。それがもっとも効果的に現れるのが、水墨画のぼかしの技法でしょう。中心をしっかり据えて、対象物の形を残しながら周りをぼかしていくと、そこに空気感が表現できます。
写真通りに画面の隅々まで描いてしまうと画面の密度は高くなるのですが、対象物を際立たせようとするときには、周辺の空気感を出す墨のぼかしの表現が有効です。写真をベースにしてはいますが、どこに重点を置くか、墨の濃淡の使い分けなどによって、自分の主観が画面の中に入り込んでいきます。
──過去の時代の風景と現代の風景とで、描き方に違いなどあるのでしょうか? それぞれの作品に使用している和紙は同じものですか?
描かれているものが昔のものでも今のものでも、画面を見て「懐かしさ」を感じるような作品をつくりたいと思ったんです。それで今回の出品作品は、あえて和紙を紅茶と墨を使って染めて、古めかしさを出しました。実際に見たことがあるものとないものと、多少意識の違いはあるのかも知れませんが、制作上の差はありません。何を描く場合でも、どこか、写真に写ったものを計測しているような感覚があるんですよね。
──山口さんは、ご自身の作品を「現代美術」と位置づけされていらっしゃるのでしょうか?
よく肩書きを聞かれるんですけれど、正直、私自身はあまり気にしていないんです。たまたま、画材としての墨と相性が良かったというだけで、作品が現代美術のカテゴリに入るか、肩書きは水墨画家なのか、といったことは気にしていません。最終的に墨で描いているから水墨画ですね、という感じです。
──では、ご自身の技術について、どのように考えていらっしゃいますか?
以前、私の作品を観た方に「技術も突き詰めれば個性」と言われたことが記憶に残っていて。なるほどなと。墨を重ねて描いていくというのは、本当に古典的な水墨画の描き方なんですけれど、突き詰めていけば作品の精度は上がっていきます。そういう意味で、私の突き詰め方は、まだまだこれからだなと思っています。自分は描く過程が楽しいので、手を動かしながら考えていく感じですね。
──山口さんの制作に対する姿勢は非常にストイックですよね。風景の作品が並んでいるなかで、会場のこの肖像画を並べた一角は雰囲気がちょっと違いますね。
それは、妻と子どもです。家族を写真に撮って水墨画で描きました。ふたりめの子どもが今年生まれまして、赤ちゃんが妻のお腹にまだいるときと、生まれたあととを主題としたんです。これも時間の流れのテーマのひとつなので。
──では、この子が乗り物好きの息子さんなんですね。次のお子さんが生まれたら、また描くモチーフが変わるかもしれませんね。
そうですね(笑)。今回の個展は風景画ばかりなので、この壁面だけはちょっと穏やかな感じにしています。